第3話 硝煙の中の緑
南へ向かう細い街道は、ひどく静かだった。
昨夜の爆音が空気の中にまだ溶け残っているような気がしたが、耳を澄ませば鳥の声しかない。クラリスは水を飲み、食料の残量を確かめた。一日半は凌げる。
目録が視界の端にある。
あの夜から、ずっとそこにある。使えるものと、まだ使えないもの。灰色に霞んでいるものの方が多い。どちらも昨日から変わっていない。
輪郭は見えるのに、呼び出す方法がまだ分からなかった。
あれから二日が経つ。目録は常に見えている。しかし触れ方が分からない。理沙の記憶には兵器の操作知識はある。しかし召喚の手順は、記憶の中に形として残っていなかった。
昼の街道で、クラリスは立ち止まった。
試してみることにした。特に理由はなかった。強いて言えば、静かだったから。
目録の中の一つに、意識を向けた。輪郭がくっきりしている。呼べる、と分かった。触れるような感覚で。理沙の記憶が静かに滑り込んできた。意識ではなく、指先の感覚として。右手が後ろへ回った。
何かが、来た。
重さが背中にかかった。目を開けると、右手の指がグリップを掴んでいた。引き出すと、黒い銃身が午後の光を受けた。P90。見たことがなかった。しかし手が知っていた。重さも、構え方も、安全装置の位置も、フォアグリップの角度も。
5発。目録の数字は変わっていない。
収納の仕方は、出した時と逆だった。背中へ戻すと、目録の輪郭が少し薄くなった。格納された。消えたわけではない。輪郭はまだある。呼べばまた出てくる。
立ち上がり、歩き始めた。
声が聞こえたのは、午後に入ってからだった。
男の笑い声が複数。道の先に木立があり、その向こうから聞こえる。
歩みは緩めなかった。木立に差し掛かるまでの数十歩で、声の数を数えた。4つか5つ。
木立を抜けると、道が開けた。
荷馬車が1台、横倒しになっていた。荷物が散らばっている。その傍に人が3人、地面に伏せていた。動いていない。
男が5人、立っていた。
先頭の男がこちらを見た。目が合った。
視界が変わった。
感情が、どこかへ退いた。
目録の輪郭が鮮明になる。P90、5発。グロック17、3発。男たちの位置、距離、動線。先頭の男が何か言った。返す必要はなかった。
5人のうち2人が腰の剣に手をかけた。残りの3人のうち1人が両手を開いた。指先に光が集まり始める。魔素が動いていた。詠唱前の充填だとクラリッサの記憶が判断した。
目録が反応した。魔素が集まるほど、輪郭が増す。5発が6発になった。7発になった。充填されていく。
右手が後ろへ回った。
グリップが掌に収まった。
引き金を引いた。
P90の連射音が木立に反響した。短く、鋭く、乾いた音が重なった。魔素を集めていた男が崩れた。光が散った。詠唱は始まらなかった。残った魔素がP90へ流れ込んでくる感触があった。8発、9発。
剣を抜いた2人が動いた。
クラリスは3歩、横へ出た。銃口が追った。引き金を引いた。2人が止まった。
残り2人が固まっていた。
1人が詠唱を始めた。声が震えていた。しかし魔素は集まってくる。速い節回し。短縮詠唱。2節で撃てる魔法だとクラリッサの記憶が判断した。充填が来た。
1節が終わった。
引き金を引いた。
沈黙。
最後の1人が走った。剣も抜かず、ただ走った。木立の方へ。クラリスはその背中を見た。目録を流した。充填が入っている。追う必要があるかどうかを1秒考えた。今のクラリスに情報を活かす場所はない。追えば時間を失う。
P90を背中に戻した。
その時、木立の方向に動くものがあった。
50メートルはある。木の間に赤い軍服の断片が見えた。帝国の敗残兵だとクラリッサの記憶が即座に判断した。2人か3人。こちらを見ていた。
目が合った、かもしれなかった。
次の瞬間には消えていた。木立の奥へ。足音もなく。
走れば追いつける距離だった。クラリスは動かなかった。
硝煙が漂っていた。
倒れている3人に近づいた。2人は息があった。1人は、もう息がなかった。クラリスは地面に片膝をついた。目を閉じた。
どのくらいそうしていたかは分からない。長くはなかった。しかし短くもしなかった。
「倒すと決めたのは私ですから」
声は低く、静かだった。誰かに聞かせるつもりはなかった。
その責任は私が負うべきものです、と続けてから、立ち上がった。
道の端の木陰に、人影があった。
灌木の根元に蹲っている。小さい。
戦闘の余韻がまだ視界の端に残っていた。目録の輪郭が鮮明なままだった。クラリッサの冷えた判断軸が前に出ていた。それらが一枚ずつ、呼吸とともに退いていった。薄紫の瞳に、温度が戻ってくる。
近づいた。
膝をついた。
亜麻色の髪。緑の瞳。泥が頬についていた。震えていた。声は出していなかった。
「怪我はありませんか?」
声は穏やかだった。戦闘の直前と同じ喉から出た言葉だとは思えないほど、穏やかだった。
子供は答えなかった。
クラリスは急かさなかった。膝をついたまま、待った。
子供の視線がクラリスのシスター服を、次にP90を、次にクラリスの顔を、順番に見た。
「怖くなかったですか?」
聞いてから、余計なことを言ったかもしれないと思った。
子供は少し間を置いた。それからゆっくりと、首を横に振った。
手が小さく震えていた。
硝煙がまだ漂っていた。遠くで鳥が鳴いた。
子供の手がゆっくりと伸びてきた。クラリスのシスター服の裾に、小さな指がかかった。力は入っていなかった。ただ、触れていた。




