第2話 街が消えた朝
最初の爆音は、窓ガラスを鳴らした。
次の一発が礼拝堂の壁を揺らした時、クラリスはすでに立っていた。まだ熱がある。床が少し遠かった。しかし足は動いた。身体が先に判断した。
修道院長が叫んでいる。何かを言っている。言葉が届かない。
扉を開けると、外は夜ではなかった。
空が燃えていた。街の北側から上がる炎が、雲の腹を赤く塗っていた。近い。思ったより近い。路地に人が走っていた。荷物を抱えた老人、子供の手を引く女。誰も立ち止まらなかった。声が重なって、何を叫んでいるのか分からなかった。
遠くで、また爆発した。
地面が、足の裏から揺れた。
教会の門を出る前に、クラリスは一度だけ礼拝堂へ戻った。
修道院長を探したが、もういなかった。避難したのだろうとクラリスは思った。そう思うことにした。
目録を確認した。視界の端に薄く広がる輪郭の列。くっきりしているものと、灰色に霞んでいるものが並んでいる。使えるものはある。しかしどれも弾が少ない。誰とも交戦していないから充填がない。戦線の近くを、ほぼ空の状態で歩いている。
懐中時計を左胸の位置で確かめた。ある。
出た。
路地は人で詰まっていた。
と思った瞬間、北側から炎が跳んできた。屋根が燃えた。人が逃げた。人が倒れた。倒れた人を誰も拾わなかった。クラリスは倒れた男の横を通った。右腕から血が出ていた。意識はある。立てるかどうか。
しゃがんだ。
通りの向こうに赤い軍服が見えた。帝国軍だとクラリッサの記憶が軍服の意匠から判断した。兵が誰かを引きずっている。民間人だった。
倒れた男の血が、石畳を伝っている。背後から爆発音。足の裏から揺れ。
クラリスは倒れた男と目が合った。息をしている。
「動けますか?」
男は首を振った。
炎が一段、高くなった。熱が頬に来た。この路地はもうじき通れなくなる。
「建物の影に移ってください。声を上げれば助けてもらえます」
男の腕を引いて壁際へ移した。それ以上は、できなかった。向こうで何かが崩れた。石の音がした。
クラリスは走り出した。
街の中を走りながら、クラリスは目録を横目で流した。変化なし。
変わっていない。路地のあちこちで帝国軍が動いているが、クラリスはシスター服のまま走っていた。兵たちは見たが、止めなかった。
帝国軍とスバランシカ軍の戦列がどこにあるかは把握していなかった。しかし街の中で動いているのが帝国軍であれば、スバランシカ軍は外にいる。あるいは別の者たちが混じっている可能性もあった。クラリッサの記憶が、戦争の混乱に乗じて動く集団の存在を知っていた。
走りながら、記憶の断片が浮いた。
晴れた日の庭。木の下のベンチ。父が横顔で本を読んでいる。侯爵家の庭だと分かった。炎の匂いの中に、その記憶が薄く重なって、なかなか消えなかった。
角を曲がったところで、子供が壁に背中をつけて蹲っているのが見えた。
六つか七つ。緑の目。泥が頬についていた。
クラリスは立ち止まり、しゃがんだ。
「怪我はありますか?」
子供は首を振った。
「一緒に来られますか? 外まで出ます」
子供は少し間を置いてから立ち上がった。手を伸ばしてきた。クラリスはその手を取った。走り始めた。
南の城門まで20分かかった。
途中で二度、火の壁を迂回した。一度、帝国兵の小隊の横を通った。兵たちはクラリスを見たが止めなかった。子供を連れたシスターを止める理由が、今夜の兵たちにはなかった。
城門は半壊していた。片側の門扉が外れ、その隙間を人が流れていた。老人、女、子供。クラリスは子供の手を引いて流れに入った。
外に出た。
振り返った。
街が、消えていくところだった。
北から南へ、東から西へ、炎が広がっている。教会の尖塔がまだ見えた。白い石が、赤い空に浮いていた。
「ここは、もう終わりですね」
声に出てから、誰かに言ったわけではないと気がついた。子供はクラリスの手を握ったまま、街を見ていた。
尖塔が、傾いた。
炎の中に沈んでいった。
難民の流れは東の街道へ向かっていた。
クラリスはしばらく流れに沿って歩いた。子供が手を離さなかった。流れの中に、子供の親らしい人間の顔を探したが、見当たらなかった。
街道の分岐で、流れが二つに割れた。
クラリスは立ち止まった。東と南。どちらへ行くべき理由も、どちらへ行けない理由もなかった。
目録が視界の端にある。どの輪郭も動いていない。充填なし。このまま南へ向かう。
子供がクラリスを見上げていた。
クラリスは南の方角を見た。クラリッサの記憶が帝都の位置を示した。
そちらへ、歩き始めた。
街道の分岐から一時間ほど歩いたところで、流れの中に子供の名を呼ぶ女の声があった。子供はクラリスの手を離し、声の方へ駆けていった。振り返らなかった。クラリスも追わなかった。ただその背中を、人の流れに消えるまで見ていた。
草が風に揺れた。
廃墟になった街が、背後で煙を上げていた。




