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銃弾と祈りのシスター  作者: 猫じゃらし
第1章 硝煙のシスター
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第1話 数ヶ月前のこと

 荒野に立つと、奇妙なほど静かだった。


 双眼鏡を下ろしたクラリスの視界の端、薄く光の膜のように広がっているものがある。目を凝らしてもそこには何もない。しかし確かに浮かんでいる。いつからそこにあるのか、もう考えなくなった。目録と呼ぶことにしていた。使えるものと、まだ使えないもの。灰色の輪郭で滲んでいるものと、くっきりと輪郭の立っているもの。今この瞬間も、5キロ先に向けて輪郭の中の一つが温度を持ち始めていた。


 左手に黒い板、右手に銀の懐中時計。


 親指で蓋を押し開いた。秒針の刻みが視界の隅に収まる。


 「下がっていてください。耳を塞いでおくように」


 隣に立つ亜麻色の髪の少女へ、視線を向けずに言った。懐から耳栓を取り出して少女に手渡す。少女は何も言わず受け取り両耳を塞いだ。


 

 黒い板の入力欄に数値を打ち込む指先に、迷いはない。目録の中で輪郭が増した。46cm三連装砲塔。初期装填ゼロのはずが、今日は違う。前夜から、魔素の充填が続いていた。組織の人間が動いていた。その魔素が、静かに蓄積されていた。


 秒針を視界の端に捉えながら、黒い板の画面上の着弾点を確認した。


 視界の左端に数字が流れた。理沙の思考回路が前に出てくる時の感覚は、感情が一枚剥がれるような静けさだった。弾道、初速780m/s、砲弾重量1,460kg、距離5キロ、着弾まで約6.4秒、爆音到達は発射後約20.1秒。


 秒針が合わさった。


 発射。


 くぐもった重低音が腹の底を叩いた。地面が揺れた。シスター服の裾が風圧で翻った。目録の中で46cm砲塔の輪郭が薄れていく。



 沈黙が来た。



 5キロ先の目標地点は、今もまだ何も知らない。音速を超えて飛ぶ1,460kgの砲弾が来ることを知らない。探知魔法を張っても、魔素の反応がないから見えない。気づいた時にはもう終わっている。


 6秒。


 地平線の向こうに火柱が咲いた。


 14秒後、重低音が来た。草が二度揺れた。腹に届く音の質は、距離のせいで乾いていた。鋭さがない分だけ、かえって広い。


 秒針を確認した。20.1秒。誤差なし。


 蓋を閉じ、胸元に戻した。


 少女が耳栓を外した。クラリスは双眼鏡を鞄に収めた。


 「問題ありません」


 火柱が消えていく方角を見たまま、小さく言った。誰に向けたわけでもなかった。




 ―― 数ヶ月前のこと。




 熱が先に来た。


 礼拝堂の石畳に崩れた時、膝に走った鈍い衝撃だけがはっきりしていた。蝋燭の炎が揺れている。遠い。修道院長が何か言っている。届かない。


 意識が落ちていく。落ちながら、まだ何かを探していた。


 暗闇の中に、光の断片が流れ込んできた。



 高い天井。石造りの廊下。窓の外に広がる庭園。


 これは記憶だとクラリスは思った。自分のものではない。しかし身体が知っている。廊下の幅も、石畳の継ぎ目の間隔も、窓枠の高さも、全部知っている。


 少女が本を読んでいる。父親が隣に座っている。


 「クラリッサ。読めるか?」


 「はい、お父様」


 少女の声が自分の喉から出た感触があった。


 一人は、100年前の処刑台で果てた侯爵令嬢、クラリッサ・フォン・ヴァルシュタイン。


 記憶が教えた。100年という数字は、石造りの廊下の記憶の中にあった。父オスカーの書斎に並んだ暦と、王家の史書。クラリッサとして生きた時間の終わりがどの時代だったかを、記憶そのものが知っていた。100年前。その認識が来た瞬間、今の街並みとの差異が自然に埋まった。


 別の断片が来た。


 白い部屋。書類を掴む細い手。インクの染みた指先。「次に目覚める者へ」という文字。父の文字だと分かった。胸が締まった。分かる、ということの意味が分からないまま、次の波が来た。


 今度は違う質の記憶だった。


 数式。速度と距離と時間。金属の重さと熱。弾道計算。引き金を引く直前の、全てが静止するような一瞬の感覚。感情が消えて計算だけが残る感覚。


 一人は、試射実験中に命を散らした技術官、倉田理沙。


 その認識が来た時、目録が動いた。


 視界の端に常に薄く浮かんでいた光の膜。使えるもの。まだ使えないもの。暗闇の中でそれが広がった。輪郭が立っている。灰色に霞んでいる。何がどこにあるか、何を使えば何が起きるか、全部分かった。


 分かったが、どうすれば呼び出せるのかはまだ分からなかった。


 三つの流れが、同じ一点を通った。


 クラリスという器に、クラリッサという記憶が、理沙という計算が、同時に存在した。交わったわけではない。溶け合ったわけでもない。ただ、どれも自分だった。


 



 ー私は、いくつの命を生きているのでしょうー





 問いは声にならなかった。暗闇に向かって、ただそこにあった。



 冷たさが戻ってきた。


 石畳の感触。修道院長の手が頬に触れている。


 「クラリス。返事をしてください」


 「……はい」


 声が出た。自分の声だった。


 身体を起こす。石畳が硬い。蝋燭が揺れている。礼拝堂。夜。


 右手に、重さがあった。


 手を開くと、以前瓦礫の中で見つけた銀の懐中時計があった。親指が迷わず蓋の合わせ目を探した。


 蓋が開いた。


 内側に紋章があった。鷹と盾。その下に細い文字。


 読む前に何かが動いた。胸の奥で、針の先ほどの鋭さで。これはオスカーが作った。どうして知っているのか分からなかった。拾った時はわからなかったことなのに。


 目録が視界の端に薄く広がっていた。暗闇の中で見えたものと同じだった。起きている時も、ここにある。


 「クラリス、横になりなさい。熱が」


 「少し、休みます」


 蓋を閉じた。胸元に収める。その動作が、初めてではない動作として身体から出た。


 窓の外が騒がしくなった。


 鐘の音。非常の鐘だと分かった。


 修道院長が扉を開けた。


 空が赤かった。


 街の北側の空が橙色に染まっていた。焦げた匂いが礼拝堂に流れ込んだ。人の叫ぶ声が、今度ははっきりと届いた。


 クラリスは窓の外を見た。


 炎がひとつ、ふたつ、みっつと増えていった。空が明るくなるにつれ、修道院長の顔が青ざめていく。


 胸元の懐中時計が、重かった。


 夜が、燃え始めていた。

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