第26話 越えてきた理由
朝のうちに、リードが一人で出た。
王国軍への報告がある、と言った。前線の状況を上に伝える義務が溜まっている。半日ほどで戻る。クラリスは頷いた。それだけだった。
宿の部屋の窓から、リードが街を出ていく背中を見た。
「行きましょう」
セラが振り返った。
「教会へ。昨夜から気になっていることがあります」
セラは頷いた。上着の袖を引いて、袖口を手首まで折り返した。それだけで立つ用意ができた子供の動作だった。
街の教会は宿から近かった。
石畳の小道を2本曲がると、古い尖塔が見えた。煤けた石造りの外壁に、蔦が這っていた。戦火は直接届いていないが、人が減ったことが建物の状態に出ていた。
正面扉を押した。軋んだ。
内部は薄暗かった。高い天井の窓から、朝の光が斜めに入っていた。椅子が並んでいた。奥に祭壇があった。誰もいなかった。
「ここで待っていてください」
クラリスはセラに言った。セラは入口近くの椅子に腰を下ろした。
奥へ進んだ。
祭壇の横に、小さな扉があった。記録室だった。管理者が不在だったが、戸締まりはされていなかった。
中に入った。棚に沿って古い文書が並んでいた。この街が街として機能し始めた頃からの記録だろう、と理沙の思考が静かに判断した。クラリッサの記憶が棚の並びを一度なぞった。王国の教会の記録様式には見覚えがあった。100年前、帝国の教会とは別の体系で記録が作られていた。
目当ての棚を見つけた。
引き出しを開いた。記録を一部取り出した。ページを繰った。「鉄の聖女」という言葉が、古い筆致で書かれていた。昨夜の古老が語った内容と重なった。民衆の証言を記録した修道士の文字だった。「泣かず、震えず、俯かず」という言葉が、ここにもあった。
クラリスは記録から目を離した。
胸元の懐中時計に触れた。取り出さなかった。指の腹で輪郭を押さえただけだった。
100年前の修道士が書いた言葉が、今この目の前にあった。その修道士がどんな顔をして書いたか、クラリスには分からなかった。分からないまま、記録を棚に戻した。
教会の外に出た時だった。
セラが扉の前に立っていた。外に出ていた。クラリスが声をかけようとした、その瞬間。
セラの体が、わずかに横へ動いた。
反射的だった。意識してではなかった。首が左へ向いた。
クラリスはその動きだけで読んだ。
振り返った瞬間、石畳の上に影が2つあった。路地から出てきた。男が2人。平服だった。武器は隠してある。しかし右手の持ち方が違った。
セラの背中が壁に近づいていた。
クラリスはセラとの間に入った。振り返らずに言った。
「セラ。教会の中へ」
セラが動いた。扉が軋んだ。
男たちが距離を詰めてきた。速かった。グロックを選択した。距離が近すぎたからだ。
懐から引き抜いた。右手の男の手首を見た。隠していた刃物が動きかけた。
引き金を引いた。もう一度。
2発。
石畳に倒れた。
左の男が一瞬止まった。その一瞬をクラリスは使った。
グロックを左へ向けた。引いた。
男が崩れた。
沈黙が来た。
路地に人の気配はなかった。教会の中からも音がしなかった。
石畳に2人が倒れていた。30代ほどの男たちだった。平服の下に革の胴当てをつけていた。右手の男の手には、まだ刃物が握られたままだった。
クラリスはグロックを懐に戻した。
2人の前で膝をついた。目を閉じた。短く祈った。
立ち上がった。
路地に風が通った。
倒れた男の上着の内側に、小さな印が縫いつけられていた。刺繍ではなかった。焼き印に近い何かだった。クラリスはそれを見た。クラリッサの記憶が静かに動いた。100年前にも、同じ印を見たことがあった。場所は違った。人物も違った。しかし印は同じだった。
「聖典騎士団」
声に出した。路地に吸われた。
「そうですか、名前がありましたか」
怒りも驚きも表に出なかった。ただ、整理するように。言葉を一度、頭の中に置いた。
教会の扉を押した。
セラが祭壇の前の椅子に座っていた。膝の上に手を置いて、正面を向いていた。クラリスが入ってきた音を聞いて、振り返った。目が合った。
「怪我はありませんか?」
セラは首を横に振った。
クラリスは隣の椅子に腰を下ろした。正面の祭壇を見た。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
教会の中は静かだった。天井の高さが音を吸っていた。光が斜めに続いていた。
クラリスは目を閉じた。
聖典騎士団。
言葉を頭の中で動かした。シスターとして生きてきた。孤児院で育ち、教会に入り、旅に出るまで、信仰の場の中にいた。その信仰の場が、教会の繋がりが、組織の隠れ蓑として使われていた。
知っていた。どこかで、知っていた。気づかないようにしていたわけではなかった。ただ証拠がなかった。疑惑は疑惑のまま、旅の中でずっと一緒に動いていた。
それが今、名前を持った。
祈りの言葉を探した。見つかった。いつもより少し時間がかかった。
「クラリス様は」
セラの声がした。
「何を祈っているんですか?」
クラリスは目を開けた。
セラが少し離れた椅子から、こちらを見ていた。緑の瞳が真っ直ぐだった。
少しの間があった。
「続きを、どうか、と」
それだけ言って、また目を閉じた。
懐中時計の中の言葉が、頭の中で動いていた。
この世界はまだ変われる。どうか、続きを。
父が刻んだ言葉だった。100年前に。処刑の前夜に。牢獄の中で。
その言葉が今、この場所でまだ動いていた。
光が少しずつ動いていた。
教会の中に、2人の他に誰もいなかった。




