第25話 鉄の聖女と呼ばれた日
次の街に着いたのは夕方だった。
空が赤く染まり始めている。石畳が夕光を吸って鈍く光っている。その上を、クラリスとセラとリードの三人が歩いた。リードは終始無言だった。朝からずっとそうだった。何かを言おうとするたびに口を閉じる、という動作を繰り返していた。
セラが少しだけクラリスの後ろを歩いていた。
宿に荷を置いて、すぐに街へ出た。
目的があったわけではなかった。ただ、動いていないと情報が集まらない。理沙の思考回路がそう判断した。平時でも目録は視界の端に薄く広がっているが、昨日とは違う感触があった。46cm三連装砲塔の輪郭は灰色に霞んだままだった。充填は尽きていた。次の機会まで、また時間がかかる。
市場を歩いた。食料を買った。
声が聞こえてきたのは、食料品の露店が並ぶ一角だった。
「……空から来たんだと」
「神罰だろう、あれは。魔法じゃない。詠唱も何もなかった」
「帝国の大部隊が丸ごと消えたって聞いた。消えたんだぞ。煙と一緒に」
露店の主人と客が話していた。野菜を手にしたまま、どちらも手を止めていた。クラリスは立ち止まらなかった。歩きながら会話の端を拾った。
リードが隣に並んだ。声を低くした。
「昨日の報告が前線から届いたようです。速い」
「前線にいた人間が街に戻ってきているのでしょう」
「噂の方が速いようですが」
クラリスは答えなかった。
別の露店の前でも声が聞こえた。今度は老人二人が立ち話をしていた。
「魔法でないなら、何だというんだ」
「分からない。分からないから怖いんだ」
一人がそう言って首を振った。もう一人が何か低く呟いたが、そこまでは聞こえなかった。
街の外れに、古老がいると聞いたのはリードからだった。
「話をしておきたい人物がいます。記録師の老人で、戦前からこの街にいます。街に入った時に、前線から戻った兵士と話す機会がありました。その兵士が、老人が何かを言っていたと」
「どんなことを?」
「それが」
リードが少し間を置いた。
「鉄の聖女、という言葉を使ったと」
クラリスの足が、ほんの一拍だけ遅れた。
「……会いに行きましょう」
老人は街の外れ、古い石造りの建物の一室にいた。暖炉に火が入っていた。部屋は狭く、棚に書物が積み上がっていた。
老人は最初、クラリスを見てしばらく動かなかった。シスター服と、それから薄紫の瞳を見た。
「……座りなさい」
クラリスは礼を言って椅子を引いた。セラは入口近くに立ったまま動かなかった。リードが壁際に控えた。
老人は話し始めた。声は低く、ゆっくりとした速さだった。
「100年前に、記録が残っている」
老人は積み上がった書物の一冊を引いた。開くことはしなかった。
「ヴァルシュタイン侯爵家という名前を知っているか?」
クラリスは少し間を置いてから答えた。
「聞いたことがあります」
「帝国の貴族だ。100年前に処刑された。魔力のない一族だった。処刑された令嬢のことを、当時の民衆が呼んだ言葉がある」
老人がクラリスを見た。
「鉄の聖女、だ」
暖炉の音が、しばらく続いた。
クラリッサの記憶が動いた。処刑台の朝だった。冷えた空気。石畳の感触ではなく、その直前に、誰かの声が聞こえた気がした記憶。聴衆の中から上がった声なのか、それとも記憶の中で歪んだものなのか、もう区別がつかなかった。記憶はそこで止まった。
クラリスは老人から目を離さなかった。
「その言葉が、今また出てきたと聞いて」
老人が続けた。
「あの朝、処刑台で立っていた令嬢の話は記録に残っている。泣かなかった。震えなかった。俯かなかった。ただ静かに前を見ていた。詠唱も魔法も何もなかったのに、民衆の中で何かが生まれた。名前を、つけずにはいられなかったんだろう」
「それが昨日のこととどう繋がるのですか?」
「繋がらなくても、人は同じ言葉を選ぶ」
老人は書物を棚に戻した。
「魔法でない力が、魔法使いを超えた。それを見た者は、昔も今も、同じ言葉しか持っていない。鉄の聖女、というのはそういう言葉だ」
クラリスは黙っていた。
クラリッサの記憶が揺れていた。しかし表情には何も出なかった。
宿への帰り道、リードが口を開いた。
「聞かせてください」
クラリスは前を向いたまま待った。
「昨日のことです。あなたは……何のために戦っているんですか」
セラが後ろを歩いていた。風が石畳を渡った。
クラリスは少しの間、答えなかった。答えを探していたわけではなかった。言葉にする順番を整えていた。
「守りたいものがあります」
リードが顔を上げた。
「それだけで、十分だと思っています」
リードは何も言わなかった。問い返さなかった。クラリスの言葉の後ろにあるものを測るように、しばらく前を向いて歩いた。
「……そうですか」
それから、また黙った。
宿に近づいた頃だった。
リードが足を止めた。
「クラリスさん」
静かな声だった。視線が街の壁に向いていた。
クラリスも足を止めた。
壁に、文字があった。石灰のようなもので書かれていた。粗い字だった。しかし読める。
鉄の聖女
どちらが先に書いたのか。今日の話が街に届くよりも、もう先にあったのか。それとも今夜誰かが書いたのか。クラリスには分からなかった。
「死神のシスター」と書かれていた壁を、帝都近郊で見たことがある。あの時と同じ構図で、クラリスは立ち止まっていた。
しかし今度は、少し長く見ていた。
老人の声が頭の中に残っていた。名前を、つけずにはいられなかったんだろう。
「どっちが本当ですか?」
声がした。
セラだった。クラリスの隣から、壁の文字を見上げていた。緑の瞳が文字と、それからクラリスとを交互に見た。
クラリスは答えなかった。
ただ、歩き始めた。
その夜、クラリスは宿の窓から街を見た。
灯りが点いている家がある。消えている家がある。戦争が長引いて、街の人口はもとより少ないのだとリードが言っていた。それでも人がいる。生活がある。昨日のことを話しながら、今日の夕飯を食べた人間がいる。
目録が視界の端に薄く広がっていた。充填の余韻はもう消えていた。46cm三連装砲塔の輪郭は、昨日と同じ——グレーアウトのまま、灰色に霞んでいた。
廊下で音がした。リードの足音だった。遠ざかっていった。
セラが寝返りを打った。毛布の中で規則正しく息をしていた。
クラリスは窓から目を離した。
胸元の懐中時計に触れた。取り出しはしなかった。ただ、指先でその重さを確かめた。蓋の内側に刻まれた言葉が、触れた指先越しに何かを返してくるわけではない。
分かっていて、触れた。
「鉄の聖女」という言葉が、100年前と今の両方にあった。その事実だけが、静かに残っていた。
窓の外で、風が街路を通り過ぎていった。




