第22話 残されたもの
教会から宿に戻ったのは、日が落ちる少し前だった。
リードは外の確認に出たまま戻っていなかった。クラリスとセラの2人だけが、割り当てられた小さな部屋にいた。
窓の外はもう暗かった。通りに人の気配はなかった。街の夜は早かった。
クラリスは荷物を確認した。明日の朝には出る。それだけは決まっていた。
セラは窓際に座っていた。膝の上で両手を組んで、外を見ていた。何かを見ているというより、ただそこに視線を向けているだけのように見えた。
部屋の中が静かだった。
しばらくして、セラが言った。
「お父さん、声が低かった」
クラリスは手を止めた。
続きを待った。続きは来なかった。
セラは窓の外を向いたまま、黙っていた。言い切った、というより、そこで止まってしまった、というのが正しい。
クラリスは荷物から手を離した。椅子を引いて、セラの少し後ろに座った。
「お母さんは?」
静かな問いだった。急かすものではなかった。
セラは少し考えてから答えた。
「料理が得意で。でも、自分ではそう思ってなかったみたいで」
「どうして分かるんですか?」
「できあがるたびに、こうやって」
首を少し傾けるような仕草をした。
「毎回するんです。美味しいのに」
クラリスは何も言わなかった。
それだけで、またしばらく沈黙が来た。外で風が通ったらしく、窓枠がかすかに鳴った。
セラが続けた。
「兄が、いました」
「何人ですか?」
「1人です。年が離れてて、あんまり話さなくて」
そこで止まった。
クラリスは待った。
「夜になると隣に来るんです。何も言わないで。朝になったらいなくなってて」
セラの声は静かだった。震えていなかった。ただ、いつもより少しだけゆっくりだった。言葉を一つずつ、置くような速さだった。
「セラ」
クラリスが口を開いた。
セラが少し体を動かした。振り返ることはしなかった。
「あなたのご家族のことを、もう少しだけ、教えていただけますか」
セラはしばらく動かなかった。
それから、また窓の方を向いたまま、短く答えた。
「お父さんの仕事は、よく分からなかったです」
「どんなことをしていたか、聞いたことはありましたか?」
「古いものを調べてる、って。それだけしか」
「お祖父様は?」
セラの動きが少し止まった。
「……祖父も、同じような仕事をしてたって聞きました。お父さんから」
「代々、ということですか?」
「たぶん」
セラはそこで口を閉じた。もう出てこないようだった。無理に絞り出した、というより、知っていることがそこで終わった、という止まり方だった。
クラリスはそれ以上聞かなかった。
部屋の中が、また静かになった。
しばらくして、セラがぽつりと言った。
「怖かったです」
クラリスは答えなかった。
「戦争が始まって、街が変わって、みんないなくなって」
セラの声は平らだった。感情を乗せようとしていなかった。ただ、起きたことを並べているような話し方だった。
「怖かった。でも、言えなかった」
クラリスはセラの背中を見ていた。
小さな肩だった。その肩が、話しながら少しずつ落ちていくのをクラリスは見ていた。
「言わなくて構いません」
セラは頷かなかった。ただ、少し息をついた。
「でも」
間があった。
「今日は、少しだけ言えた気がします」
クラリスは何も言わなかった。
答える言葉を選ばなかった。選ぶ必要がなかった。
聞きながら、胸元に手をやった。懐中時計を取り出さなかった。シスター服の上から、その重さを確かめるように指を添えた。金属の硬さが、布越しに手の中にあった。
セラはそれ以上何も言わなかった。
窓の外で、どこかの家の灯りがともった。




