第20話 王国の人間
拠点は崖の手前にあった。
崖といっても高さは人の背丈の3倍ほどで、その下に長屋のような木造の建物がいくつか連なっていた。柵があった。見張り台があった。王国軍の旗が、風のない朝の中で垂れていた。
斥候の3名に挟まれながら、クラリスは歩いた。
セラがすぐ後ろにいた。歩幅はいつもより少し狭かった。クラリスは前を向いたまま、それを見ていなかった。足音で分かった。
正門の前で斥候の1人が短く声をかけた。中から別の兵士が出てきた。クラリスをひと目見て、すぐに引っ込んだ。しばらくして、別の人間が出てきた。
30代の男だった。
軍服は着ているが、帯剣していなかった。腰に何もない。その代わり、左の胸元に王国軍の階級章が3つ並んでいた。顔は平凡で、特に印象に残らない作りだった。目だけが違った。じっと見る目だった。けれど怒りや敵意からではなかった。どちらかというと、何かを量っているような目だった。
男はクラリスの全体を一度だけ眺めた。シスター服。背中の膨らみ。それから斥候たちを見た。斥候のうち1人が短く何かを言った。男が頷いた。
「中へどうぞ」
低い声だった。丁寧だったが愛想はなかった。
部屋は狭かった。
窓が1つ、東向きにあった。朝の光が薄く差し込んでいた。机が1つ、椅子が4つ。地図が壁に貼られていた。王国側の前線周辺のものだった。
男はクラリスの向かいに座った。セラのために椅子を1つ引いた。セラは座ったが、背を椅子の背にはつけなかった。少し前に傾いたまま、両手を膝の上で合わせていた。
「名前を伺えますか?」
「クラリスと申します」
「職業は?」
「シスターです」
男は少し間を置いた。
「どこから来ましたか?」
「帝都を経由してきました」
答えた瞬間、男の目が少し変わった。変わったのは一瞬だった。すぐに元の、量るような顔に戻った。
「帝都から、戦線を越えてきた」
「はい」
「シスター服で」
クラリスは答えなかった。
男は続けた。
「越境した理由を聞かせてもらえますか?」
「この子を連れて、帝国側にいることが難しくなりました」
視線でセラを示した。男がセラを見た。セラは男の視線を受けたまま、動かなかった。
「難しくなった、というのは?」
「追われています」
「誰に?」
「帝国軍ではありません」
男は少し黙った。
クラリスも黙った。
部屋の外から、兵士たちの声が聞こえた。朝の交代の時間らしかった。男はその声が遠ざかるのを待ってから、また口を開いた。
「……リードと申します。ゴードン・リード。この拠点の将校です」
「クラリスです」
「斥候の報告に、背中に何かを隠した者がいると書いてあった。見たことのない形のものだと」
クラリスは答えなかった。
「帝国の前線からも、似た話が来ていました。魔素反応のない何かを持つ者がいる、と。そのせいで人が倒れる、と」
「そうですか」
「あなたですか?」
「そうかもしれません」
リードはしばらくクラリスを見ていた。外れなかった。こちらも外さなかった。
「噂を聞いたことがあります。『死神のシスター』という呼び名で」
クラリスは何も言わなかった。
「帝国の生き残りが持ち込んだ話です。魔法が届かない距離から人が倒れる。音がしてから人が倒れる。魔素の反応がない。正直、信じていませんでした」
「今は?」
リードは少し間を置いた。
「本人が目の前にいるかもしれませんから」
「噂のシスターが本当にいるとお思いですか?」
「……そう思っているところです」
リードは立ち上がった。窓の方へ歩き、少し外を見てから戻ってきた。それを、見ていいですか、と言う代わりに、視線だけをクラリスの背中に向けた。
クラリスは少し考えた。
背中から外して、机の上に置いた。
リードは近づいた。手を伸ばしかけて、止まった。
「触っていいですか?」
「どうぞ」
手に取った。重さを確かめるように持ち直した。先端を窓に向けて、すぐに下ろした。もう一度持ち直して、また下ろした。顔が、量るものから少し別のものに変わっていた。好奇心だった。恐怖ではなかった。
「魔素反応が、ない」
「はい」
「魔法で作られたものではない」
「違います」
「なのに、人が倒れる」
クラリスは答えなかった。
リードはもう一度それを眺めてから、机に置き直した。
「しばらくここにいますか?」
「ご迷惑でなければ」
「迷惑かどうかは、これからの話次第です」
昼前になって、拠点の中を少しだけ歩いた。
リードが案内した。案内というより、確認させるという意味合いの方が強かった。拠点の規模、兵士の数、魔力の高い者と低い者の割合。クラリスは歩きながら、自然に読んでいた。
セラは少し遅れてついてきた。
兵士の何人かがセラを見た。子供が来た、という顔だった。珍しがる視線はあった。しかしクラリスが帝都で感じるような種類の視線ではなかった。上から見る目ではなかった。
炊事場の前を通った時、中から出てきた女が立ち止まった。セラを見た。
「子供が来てるのね」と女は言った。「ご飯食べた?」
セラが固まった。
クラリスは横から見ていた。固まったのは警戒ではなかった。別のものだった。女は続けた。
「昼にはまだ早いけど、なんかあると思う。おいで」
セラはクラリスを見上げた。クラリスは小さく頷いた。セラがもう一度女を見て、うなずいた。ゆっくりとした頷きだった。
炊事場の中に入っていった。
リードがその様子を見ていた。クラリスの方を向いた。
「帝国では、魔力のない子供はどう呼ばれますか?」
「石ころと」
「ここでは呼ばれません」
リードの言い方は特に力を入れたものではなかった。ただ、事実を述べるような口調だった。それがかえってはっきりとした重さを持った。
クラリスはしばらく炊事場の入り口を見ていた。
中から、女の声が聞こえた。それからセラの声が続いた。返答ではなく、何か言っていた。短かったが、言葉があった。
クラリスは前を向いた。
午後になってから、リードと2人で話す時間があった。
セラは炊事場の近くに座っていた。女に何か話しかけられていた。声が聞こえた。
「1つ聞いていいですか?」
リードが口を開いた。
「どうぞ」
「あなたを追っている、帝国軍でない者というのは、どういう組織ですか?」
クラリスは少し考えた。何を話すか、ではなく、どこまで話すかを考えた。
「帝国軍の内側にいますが、帝国軍とは別に動いています。記録を操作しています。私が帝都で見たも記録を、いくつか持っています」
「記録の操作、とは?」
「改竄です。帝国の公式記録と、実際に起きたことが、一致していない部分があります」
リードの目が少し変わった。量るものから、何かを確かめるものに。
「……補給の話と、撤退命令の話を聞いたことがありますか?」
クラリスは黙って続きを促した。
「2ヶ月前、前線で情報が届かない期間がありました。届いたと思ったら内容が変わっていた。上からの説明は輸送路の問題でしたが、輸送路に問題があったという報告は私のところには来ていない。先月は、隣の拠点に意味の分からない撤退命令が出た」
「その命令の出どころは?」
「末端には分からない仕組みになっています」
「それが、私の話と繋がるとお思いですか?」
リードはしばらく黙った。
「思い始めています」
「根拠はない」
「ええ。ただ、辻褄が合います」
少し間があった。
クラリスは窓の外を見た。拠点の外に草原が広がっていた。遠くに丘が続いていた。帝都から来た道はもう見えなかった。
「ここには、魔力の低い者が多いですか?」
「私を含めて、半分近く。王国軍はもともとそういう軍です」
「リードさんは?」
「私ですか」リードは少し笑った。笑顔ではなく、苦みを含んだ表情だった。「ほとんどゼロです。詠唱は3節が限界で、使えるのは明かり程度の魔法です。将校になれたのは、算術と地図の読み方が得意だったからです」
クラリスはリードを見た。
「帝国ではそれは」
「石ころです。承知しています」
リードは窓を見た。窓の外の草原を、少しの間見ていた。
「王国で生まれてよかったと思っています。それだけです」
その言葉の後ろに、長い年月があるように聞こえた。クラリスには分からなかった。分かろうとしなかった。ただ、聞いた。
目録が視界の端に薄く広がっていた。戦闘の気配はなかった。
クラリスは少し考えてから、口を開いた。
「魔力がなくとも、人は誇りを持って生きられる。王国は、その証明のように見えます」
リードが、クラリスを見た。
言葉を返すような顔ではなかった。何かを考えている顔でもなかった。ただ、受け取った、という表情だった。
「あなたは、前線で何人かと話してきましたか?帝国の兵士も含めて」
「いくつかの場所で、いくつかの立場の人間と」
「それで、そういう言葉が出るんですね」
クラリスは答えなかった。
クラリッサの記憶が、静かに動いた。父の声だった。「西の端に国がある」という話だった。その時のクラリッサには実感がなかった。実感がなかったのに、父は繰り返し言っていた。「魔力のない者が普通に生きている国が、ある」と。
その国の土の上に、今いる。
記憶が薄れた。クラリスは窓の外を見た。草原。丘。王国の空。
夕方に近くなって、セラが戻ってきた。
手に小さな布の包みを持っていた。クラリスのそばに来て、黙って差し出した。中を開いた。小さなパンが3つ入っていた。
「いただいたんですか?」
セラが頷いた。
「ちゃんとお礼を言いましたか?」
また頷いた。
クラリスは1つ受け取った。セラが残りを持った。2人でしばらく黙って食べた。
夕の光が拠点の中に差し込んでいた。兵士たちが日暮れ前の仕事をしていた。声が飛び交っていた。怒鳴り声ではなかった。確認の声だった。
セラがパンを食べ終えて、少しの間クラリスの横に黙って座っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……怒られなかった」
クラリスは続きを待った。
「何もしてないのに、ご飯くれた。石ころとか言われなかった」
セラはそこで止まった。続きが来なかった。
クラリスは前を向いたまま、答えた。
「ここはそういう場所です」
セラは何も言わなかった。
クラリスはセラの方を向かなかった。ただ、腰に下げた懐中時計の重さを、胸元ではなく手の中に感じた。指先が時計の輪郭をなぞって、離れた。
拠点の外から、夕風が吹いた。
夜になって、リードが部屋に来た。
簡単な食事を持ってきた。クラリスとセラの分だった。
「もう1つだけ」
リードは座った。
「王国内部にも、帝国寄りの貴族がいます。その中に、あなたが言う組織の人間が紛れている可能性はありますか?」
クラリスは少し考えた。
「ゼロではありません」
「根拠は?」
「その組織は教会の繋がりを使って動いています。国境をまたいでも同じ手が使える構造です。ただ、現時点では推測の域を出ません」
リードは黙って聞いた。それから、食事の皿をクラリスたちの方へ押した。
「食べてください。明日また話しましょう」
立ち上がりかけて、止まった。
クラリスを見た。
「あなたは……どこから来た人なんですか?」
クラリスは少しの間考えた。
答えを探したのではなかった。答えが複数あることを、どう渡すかを考えていた。
「いくつかの場所から、来ました」
リードはしばらく、クラリスの顔を見ていた。
それから、部屋を出た。
扉が静かに閉まった。
セラが皿を引き寄せた。クラリスも食事に手を伸ばした。拠点の外で、風が草を揺らしていた。




