第16話 死神のシスター、その名の意味
夜が明ける前に、セラが足を止めた。
今回は足だけではなかった。首が、ゆっくりと街道の右側へ向いた。視線が夜の木立の奥に固定された。クラリスは3歩先で立ち止まり、セラの視線の先を見た。
暗かった。何も見えなかった。
しかし目録の輪郭が、わずかに増した。
人だ、と分かった。木立の向こうに、静止している人間がいる。1人か、2人か。魔素を使っていない。しかし存在している。
「下がっていてください」
セラが半歩引いた。クラリスは街道の外に出た。草むらに入り、木立の方向へ回り込んだ。木の影に入った。目を慣らした。
人影があった。
二人だった。帝国軍の斥候と思われる装備だった。こちらに気づいていない。街道を監視していた。クラリスが木立を回り込んでいることを、知らない。
クラリスは来た道を戻った。セラの隣に立った。
「別の道を行きます」と小さく言った。「急ぎます」
セラがうなずいた。2人は街道を外れた。
夜明け前に廃村の入り口に着いた。
村は静かだった。静かすぎた。人の気配がない。建物の壁が黒ずんでいる。火が入った跡だった。戦争が通り過ぎた後の村だと、すぐに分かった。
クラリッサの記憶が動いた。
「ここに似た場所を知っている」という感触が来た。侯爵家の領地の南の端にあった小さな村だった。川沿いの村で、冬になると雪が多かった。クラリッサが父に連れられて一度だけ行ったことがある。麦の収穫の季節だった。村人が笑っていた。
今、目の前にある廃村に笑っている人間はいない。人間そのものがいない。
記憶が静かに退いた。
クラリスは廃村に入った。崩れていない建物を選んで、中に入った。屋根が残っている。セラが入ってきた。2人で壁に背中をつけた。
夜明けまで、そこで待った。
昼前に斥候が現れた。
村の外れの街道から来た。2人組だった。夜に見た2人と同じかどうかは分からなかった。しかし同じ装備だった。帝国軍の正規の斥候服ではなく、目立たない旅人の格好に帝国の紋章が袖の内側に縫い付けられていた。クラリッサの記憶が帝国の諜報部隊の装備として判断した。
廃村を確認しながら近づいてくる。
クラリスはセラを建物の奥へ押しやった。目録を確認した。バレットM82A1の輪郭がある。帝都での戦闘と充填の積み重ねで、今は使える状態になっていた。
双眼鏡を取り出した。
廃村の外、街道の先を見た。開けた場所がある。1キロを超える距離に、次の見晴らしの良い場所がある。クラリッサの記憶が地形を知っていた。侯爵家の領地に似た地形だった。似た地形の読み方を、記憶が持っていた。
斥候が廃村の中を歩いている。
まだ気づいていない。
クラリスは建物の隙間から外に出た。斥候に気づかれない角度で、廃村を抜けた。街道を横切り、丘の陰に入った。双眼鏡を向けた。
理沙の思考回路が、前に出てきた。
静かに。感情が薄れていく感覚があった。空気の温度。風の向き。湿度。草の揺れ方。それらが全部、数値に変わっていく。距離1,200メートル。風速は弱い。東から西へ、ほぼ無風に近い。気温は低め。弾道への影響は最小限。
目録の中でバレットM82A1の輪郭が鮮明になった。
引き金を引く前の、全てが静止するような一瞬があった。
斥候の一人が廃村の外に出てきた。こちらを見ていない。村を出た安堵か、あるいは別の何かを確認しようとしているのか。立ち止まった。
1発。
音は来なかった。
正確には、音は来たが、相手には届かなかった。音速より速く飛ぶ弾が着弾してから、銃声が届くまでに時間がある。斥候が気づいた時には、もう終わっていた。
もう1人が走った。
双眼鏡で追った。走る方向が、街道から外れた。木立の方へ向かっている。クラリスは動かなかった。追う必要があるかどうかを計算した。木立に入れば狙撃が効かない。距離が縮まれば別の選択肢がある。しかし今のクラリスの位置では距離が縮まらない。
木立に消えた。
クラリスは双眼鏡を下ろした。
静寂だった。
1,200メートル先で起きたことが、ここにはまだ届いていなかった。草が風で揺れていた。鳥の声が遠くにあった。世界が何も知らないような静けさだった。
理沙の思考回路が、静かに引いていく。
感情が戻ってきた。どんな感情かを、名前では言えなかった。
廃村に戻った。
斥候が倒れていた場所の前で、片膝をついた。
目を閉じた。
いつもより長かった。誰も見ていなかった。人の目がないところでは、長くした。
セラが建物の入り口に立っていた。
クラリスが立ち上がるのを待っていた。
「あの人たちは」とセラが言った。「あなたを捕まえに来たのですか」
「そうだと思います」
「それで」
「はい」
セラが少しの間、黙った。何かを考えているのか、何かを受け取っているのか、クラリスには分からなかった。
「死神のシスター、と」セラが言った。「あなたのことを、そう呼ぶ人たちがいます」
「知っています」
「合っていると思いますか」
クラリスは廃村の空を見た。雲が西から来ていた。夕方には雨になるかもしれなかった。
「死神と呼ばれるのが正しいかどうかは、わかりません」
少しの間があった。
クラリスは廃村の地面を見た。斥候が倒れていた場所を、もう一度見た。視線を戻さなかった。
セラがクラリスを見ていた。
長い間、見ていた。
それから、小さくうなずいた。
夕方になった。
雨は来なかった。雲が西に流れて、代わりに夕日が来た。廃村の崩れた屋根の向こうに、橙色の空があった。
クラリスは廃村の外の草むらに腰を下ろした。
帝都で得たものを、頭の中で並べた。
聖典騎士団という名前。アルダー商会という拠点。改竄された公文書という証拠。ヴィンセントという協力者。懐中時計の魔法文字の一部。「石はいつか刃になる。器が満ちる時を待て」という言葉。王国方面への地図。
次に向かう場所がある。
まだ全部ではない。
懐中時計を取り出した。
西日を受けた銀の蓋が、橙色の光を拾っていた。親指で蓋を押し開いた。蓋の内側の魔法文字が、夕日の光の中にある。螺旋状の細い線。ヴィンセントが読んだ部分と、まだ読めていない部分がある。
「次に目覚める者へ」
声に出してから、指先でその線をなぞった。始まりから、読めるところまで。線の形を指先が覚えていく。
終わりまでは届かなかった。
蓋を閉じた。
胸元に戻した。
セラが隣に立っていた。いつの間にか来ていた。2人の影が西日の中で同じ方向へ伸びていた。
クラリスは立ち上がった。
王国へ向かう街道は、まだ先にある。




