第14話 ヴィンセントの選択
ヴィンセントの店に着いたのは、昼前だった。
扉を開けると、書物の埃と古い紙の匂いが来た。ヴィンセントは奥の椅子に座って何かを読んでいた。クラリスが入ってきたのに気づくと、本を伏せた。立ち上がりかけて、クラリスの顔を見て、止まった。
「戦闘がありましたか?」
「少し」とクラリスは言った。「ご心配なく」
ヴィンセントが椅子に戻った。セラがクラリスの後ろから入ってきた。前回と同じ椅子に座った。ヴィンセントがセラを一度見て、視線をクラリスに戻した。
「昨日お伝えしたかったことがありました」ヴィンセントが言った。「時計の文字のことです」
「私もそれを聞きに来ました」
ヴィンセントは棚から一冊を取り出した。
薄い書物だった。表紙に文字はなかった。開くと、図と文字が混在したページが続いていた。古い紙の質だった。印刷ではなく手書きだった。
「帝国建国期の魔法言語です」ヴィンセントが言った。「今は使われていない。読める者がほとんどいない理由は、聖典騎士団が体系的に資料を回収したからです」
「なぜ回収したのですか?」
「この言語で書かれたものが、組織にとって都合の悪い事実を記録しているからです」ヴィンセントは書物のあるページを開いた。「具体的に言えば、建国の経緯と、ある家系が抹消された理由が、公式記録と食い違う形で残っています」
クラリスは懐中時計を取り出した。
テーブルの上に置いた。蓋を開いたまま、文字が見える向きでヴィンセントの方へ向けた。ヴィンセントが身を乗り出した。書物のページと、懐中時計の内側を交互に見た。
「やはり」と小さく言った。
「読めますか?」
「全部ではない」ヴィンセントが書物を脇に置いて、指を懐中時計の蓋の縁に近づけた。触れなかった。ただ、輪郭を目で追った。「ここと、この部分は読めます」
指が止まった場所を、クラリスは目で追った。
「次に目覚める者へ」ヴィンセントが静かに言った。「それだけではない。その後に続きがある。『石はいつか刃になる。器が満ちる時を待て』」
声が、止まった。
クラリスは懐中時計を見たままだった。
処刑前夜のことを、クラリッサの記憶が持っていた。
しかしその夜の記憶は、他の断片より薄かった。牢の壁を見ていた、という事実だけが残っていて、その夜に何が起きたかの詳細が、霧をかけたように滲んでいた。
父がそこにいたのか。
時計を渡したのか。
それとも別の誰かが届けたのか。
問いが来た。答えが来なかった。来ないまま、意識の深いところで揺れていた。揺れているという感触だけがあった。
クラリスは時計を取り上げた。
胸元に戻した。
「100年前の真相を」ヴィンセントが言った。「私の家系は代々語り継いできました」
「語り継ぐ理由は?」
「あなたが何者かは、その時計が語っています」ヴィンセントが続けた。「王太子の家系が語り継いできた話の中心に、常に侯爵家がいました。冤罪だったと。真相を知る者が消され、記録が書き換えられ、それでも語り継がれてきた話が」
「それを、私に話す理由は?」
ヴィンセントが少し間を置いた。
「あなたが現れたからです」
答えが短かった。クラリスはその短さの意味を、すぐには処理しなかった。
セラが椅子から少し身を乗り出していた。テーブルの上を見ていた。懐中時計はもうそこにないが、置いてあった場所を見ていた。
「その時計は」セラが言った。
声が出たことに、クラリスは少し驚いた。セラが店の中で声を出したのは、初めてだった。
「その時計は、大切なものですね」
問いかけではなかった。確認でもなかった。ただ言った、という感じの言葉だった。何かを感じて、それを声にしたような。
ヴィンセントがセラを見た。
クラリスもセラを見た。セラは懐中時計があった場所から視線を上げなかった。自分が何を言ったのか、気づいていないような顔だった。
ヴィンセントが話を続けた。
「私にできることを申し出たいと思っています」ヴィンセントが言った。「魔法文字の解読を続けます。帝都の中で動きがあれば伝えます。あなたが得た情報のうち、私が知るべきものがあれば教えていただきたい」
「代わりに何を求めますか?」
「組織の動きを察知されたら、教えてほしい」ヴィンセントの声は平静だったが、その奥に何かある感触がした。「私の家系は長い間、彼らの動きから身を隠してきました。しかし今は、こちらから動く時が来ているかもしれない」
クラリスはしばらく考えた。
考えながら、目録を視界の端で確認した。店の中に魔素の動きはない。ヴィンセントの話に、今のところ矛盾する点はない。ただし全てを信じる根拠もない。
「それは、互いに都合のいい取引ですね」
皮肉ではなかった。確認だった。
ヴィンセントが静かにうなずいた。「そう思っていただければ」
店を出る前に、クラリスは帝都を出る判断を固めた。
ヴィンセントに告げた。
「しばらく帝都を離れます。王国方面へ向かいます」
「急ですね」
「今朝の戦闘の後では、ここにいる理由より、出る理由の方が多い」
ヴィンセントは何も言わなかった。代わりに、棚から薄い紙を取り出した。王国方面への街道の概略が描かれた簡素な地図だった。「これを」と差し出した。
クラリスは受け取った。
「ありがとうございます」
「また来てください」ヴィンセントが言った。「時計の残りの文字が、いつか読めるかもしれません」
「そうなれば、また伺います」
セラが先に扉を出た。クラリスが続いた。
扉を閉める直前、背後でヴィンセントの声がした。
「あなたが彼女の……」
そこで途切れた。
クラリスは振り返らなかった。
聞こえなかったふりをした。
扉が閉まった。石畳の通りに出ると、帝都の昼の光が眩しかった。セラが隣に立っていた。クラリスは地図を懐に収め、南の方角を見た。
帝都から出る道は、一本ではない。
どの道を選ぶかを、歩きながら考えることにした。




