第6章 ― 氷の女王には過去と問題がある
白崎雪について、彼女が絶対に自分では語らないことを、ひとつ教えよう。
彼女は、かつて普通だった。
中学生の頃の雪は、しゃべりすぎるくらいしゃべった。笑いすぎるくらい笑った。何にでも意見を持ち、それを世界中に向けて発信するように、惜しみなく口にした。男子から告白されることもあった――下駄箱に手紙が入っていたり、廊下を赤い顔で走ってきた子がいたり――そのたびに、まだ「優しさ」というものが武器に変わると知らなかった頃の自分なりの誠実さで、ちゃんと向き合ってきた。
世界はこういうものだと、思っていた。
世界は、その認識を丁寧に、三回にわたって訂正した。
一人目は、彼女の身体について嘘をでっちあげ、それを友人たちに吹聴した。しかも彼女が偶然通りかかった廊下で。二人目は、もっとひどかった。三人目については、話さない。
高校に入る頃には、壁が完成していた。
劇的な変化ではなかった。ある朝、目が覚めたら別人になっていた、というような話ではない。ただ静かに、少しずつ、「嫌だ」「やらない」「絶対にやらない」という選択が積み重なっていっただけだ。男子からの告白は消えた。代わりに「高嶺の花」「近寄りがたい」「自分が一番だと思ってる」という評判がついた。
それでいい、と彼女は思った。
「感じ悪い」は、甘んじて受け入れられる代償だった。もう一方の選択肢は、もっとずっとひどいものだったから。
大学一年の春、日の出珈琲に就職した。店主の小川さんは五分で採用を決め、一度も「もっと笑って」と言わなかった。雪はそこに深い敬意を感じた。エスプレッソマシンは、メーカーの人間より詳しくなるまで習得した。後輩スタッフへの指示は、必要最小限の言葉で完結させた。
あらゆる指標において、仕事は完璧だった。
あらゆる指標において、完全にひとりだった。
それでいい、と彼女は決めていた。
自分でも、かなり上手く信じ込めていた。
――彼が来たのは、火曜日だった。
黒髪。落ち着いた目。飾り気のない服なのに、なぜかわざとそうしているように見える。
扉を開けて入ってきた瞬間、雪は気づいた。意志に反して、気づいてしまった。
あの「やつ」をやらなかった。
わかるだろうか、「あのやつ」というのを。入り口付近でうろうろする、あれ。メニューを眺めるふりをしながら「自分がここにいてもいいのか」を測定する、あれ。
彼はただ、まっすぐカウンターに歩いてきた。まともな神経系を持つ人間のように。
……なんだか、むかつく。
「あの、求人を見たんですが」
「申し込み書はカウンターにあります。記入していただければ、店長に渡します」
「ありがとうございます」
お礼の言い方が、妙だった。社交辞令の「ありがとう」ではない。本当に助かった、という意味の「ありがとう」。まるで雪が実際に何かをしてあげたかのような。
雪はそれを認識した。「関係ない」というフォルダに分類した。次の業務に移った。
字が綺麗だ。書き直した跡がない。四分で書き終わった。
ただの男だ、と自分に言い聞かせた。カテゴリは同じ。顔が違うだけ。
私はコーヒーマシンだ。インプットを受けてアウトプットを出す機械だ。彼の顎のラインはインプットではない。気にするな。
翌朝、小川さんは彼を採用した。
水島海斗。二十歳。定刻に出勤し、レジの操作は一度教わっただけで習得した。そして初日から、誰にも教えられていないのに、「白崎さん」と名前で呼んだ。
気づいていない、と雪は自分に言い聞かせた。
三週間、それで押し通した。
事件は、火曜日の夜に起きた。
閉店後の路地。ゴミ出しの作業。百回はやった、何でもない仕事のはずだった。
その客のことは前から目をつけていた――コーヒー一杯で何時間も粘り、女性スタッフを特定の目つきで眺める常連。小川さんに報告しようと思いながら、後回しにしていた。路地は狭かった。男の動きは速かった。片手が肩に置かれ、もう片手が壁について、その体重が雪と壁の間の空間を塞いだ。
「いつも全員のこと嫌いそうな顔してるよな」
男は笑っていた。自分が解決できる問題を見つけた人間の笑顔で。
「それ、俺が変えてあげようか」
やめて、と言った。離して、と言った。名前も呼んだ。
誰かに聞こえる声で。
誰も来なかった。
そして――
手が、男の手首を掴んだ。
宣言もなく。警告もなく。男が動いた次の瞬間には、もうレンガの壁に顔面を押しつけられていた。あの笑顔がどこかへ飛んでいって、最初からそんなものが存在したのかも怪しくなるほど、きれいに消えていた。
海斗が、立っていた。
「大丈夫ですか」
ヒーロー的な登場の言葉はなかった。やってやった、という雰囲気もなかった。状況の後処理が終わっているかどうかを確認する前に。他の何より先に。
彼は振り返った。
雪を見た。
「大丈夫ですか」
俺がやった、ではない。よかった、でもない。彼が手柄を主張できるようなものは、何ひとつなかった。ただ三つの言葉だけが、真っすぐ雪に向かってきた。まるで路地の中で、問いかける価値があるのは雪だけだとでも言うように。
三年間、壁を維持し続けてきた。壁の作り方は熟知していた。壁は構造上重要な役割を果たしていた。壁はここまで機能してきたし、これからも機能するはずだった。なぜなら雪は理性的な人間であり、過去のデータから学習しており――
「……平気です。大丈夫」
「わかりました」
彼はそれだけ言って、残りの処理に戻った。
雪は壁際に立って、その背中を見ていた。急いでもなく、騒ぎもせず、まるで毎週火曜日に路地でこういうことを片付けているかのように動く男の背中を。
絶対に違う。これは絶対にやらない。こんなことには、絶対に、ならない。
それが六週間前のことだった。
残念なことに、なっていた。
月曜日、午前九時〇二分。
二分遅れで出勤してきた。今日は青いシャツ。荷物を置く前に袖をまくり始める――いつもそうだ。雪はそれを記録していない。天気の変化に気づくように気づいただけであって、記録などしていない。
カウンターの向こうで陸が何か言った。海斗が笑った。低くて、乾いた、あの笑い声。雪は自分の位置を、その音の方向へ向けて、〇度も動かさなかった。
私はパラボラアンテナではない。
プロフェッショナルだ。
財産がある、 と脳の静かな区画が、昨日から起動しているらしいファイルを開きながら言った。億単位の。毎月の不労所得だけで生活できる。それでもここで働いているのは、普通の生活を送りたいから。三人にそれを話した、まるで小さくて少し恥ずかしい願いみたいに言いながら、それは実際には――
ミルクをスチームした。
しかも今、女の子を家に住まわせてる、 と脳は続けた。実に親切に。若い子。顔はたぶん、あいつの運の良さから考えると――
「白崎さん」
顔を上げた。
海斗がチケットを持ってカウンターの端に立っていた。「オートミルクラテ、エキストラショット、ノーフォーム。七番テーブル」
「最初から聞こえてました」
「今言ったところです」
「言う前に聞こえてました」
マシンに向き直った。背後で少し間があった。
「……そうですか」
声の中に、笑みが混ざっているのが聞こえた。見なくてもわかった。だから聞こえた笑みに対して胸のどこかが数ミリでも動くことは、絶対に、なかった。
ランチラッシュが来て、去った。
陸がトレーを落として床のせいにした。健司は売るはずだったパイを食べて、素早く証拠を消した。雪だけが見ていた。「後で」のフォルダに追加した。健司関連の案件は、すでに四十項目ほど蓄積されている。勉強グループが帰り、窓際の席がまた埋まった。
普通の、火曜日。
午後一時半、ドアベルが鳴った。
雪はいつも通りの表情で顔を上げた――平静、待機、プロとして存在している状態――そして以下を素早く処理した。
女性。二十代後半。ワインレッドの髪を緩くまとめている。見た目よりかなりの時間をかけて整えたのが、見た目からわかる。ブレザー。ヒール。一度も自分を小さく見せる必要がなかった人間の姿勢。
この人には見覚えがある。何度か来ている。いつも同じ時間帯。いつも同じ席――カウンターの右から三席目。コーヒーステーションと、そこに立っている海斗への視線が最も確保しやすい位置。
三度目の来店以降、雪の中での分類は「常連――要注意」に変わっていた。その評価は、今も更新されていない。
青山颯希、とカード払いのレシートで二度確認している。雪はレシートの名前を覚える記憶力を持っている。
颯希はカフェの中を焦らず見回した。雪を通り過ぎ、陸を通り過ぎ、パイケースの前の健司を通り過ぎた。
サービスウィンドウ越しに、カップを補充している海斗のところで、視線が止まった。
表情の何かが、静かに落ち着いた。知っていた事実を確認した人間の、密やかな満足感。
カウンターへ来た。
「こんにちは」
「こんにちは」と颯希は言った。声の温度は、高級な茶のようだった。「注文をしたいんですが。海斗くんに取ってもらえると嬉しいんですけど、メニューについて聞きたいことがあって」
メニューは四年間変わっていない。扉から読める大きさの文字で黒板に書いてある。
「海斗は今手が離せない状況です」と雪は穏やかに言った。「私でよければ、承ります」
「あら」颯希は微笑んだ。「残念ですね。でも、あなたほどの経験があれば大丈夫でしょうけど」
「できる限り対応いたします。本日のエスプレッソはエチオピア産の新しい豆で、大変まろやかな仕上がりになっています。おすすめです」
「海斗くんがいつも作るのも、それですか?」
「スタッフ全員でローテーションしています」
「ふぅん」颯希は必要のないメニューを眺めた。「彼が空くまで待ちます」
「少し時間がかかるかもしれません」
「急いでいないので」
颯希は何かを待つことが苦ではない人間の余裕でスツールに腰かけた。バッグをカウンターに置いた。意図的な、小さな音を立てて。
二人とも、微笑んでいた。
どちらの笑顔も、完璧だった。
二人の間の空気が、互いを完全に評価し終えて、あとは先に瞬きをする方を待っている二人の人間特有の、あの質感を帯びた。
誰も瞬きをしなかった。
「お待ちの間、お水でもいかがですか」と雪は言った。
「ご親切に」颯希の笑みに新しい層が加わった。「よく気が利きますね。学生さんにしては」
「丁寧に、をモットーにしておりますので」水のグラスを、一種の声明文として置いた。「当店はご利用が初めてでしょうか?」
「いいえ、わりと常連ですよ」一拍。「海斗くんとは――縁があって」そのひと言に、用意されていた重さが全部乗った。「私のコーヒーの好みも、ちゃんと知っていてくれていますよ」
「それは何よりです」
「詳しく」
「素晴らしいですね」
厨房のドアから陸が布巾を持って現れ、カウンターを一秒で見渡し、状況を把握し、音もなく引き返した。
パイケース越しに健司が口を動かした。何事?
陸が口で返した。危険。
サービスウィンドウから、カップの補充を終えた海斗がカウンターを見て、颯希を見て、雪の表情を見た。そして――この四分間の何も読み取っていないエネルギーで――言った。
「颯希さん。いつものですか?」
颯希は彼のほうへ向き直り、初めて勝ち点を関係のないものにすることで勝ち点を得た女の、全力の笑顔を見せた。「海斗くん。元気そうね」
「颯希さんも」彼はもうカップを手にしていた。「どこでもどうぞ」
「ここでいいです」颯希の目が雪に一瞬だけ向いた。一秒の中に、ひとつの文章が丸ごと入っていた。「あなたの同僚が話し相手になってくれていたから」
「彼女、上手いでしょう」海斗はコーヒーだけを見ていた。
雪はマシンに向き直った。
表情:完璧に平静。
内部状況:青山颯希の分類を「常連――要注意」から「常連――重大問題――最優先」へ即時更新。
ミルクをスチームした。
カウンタースツールで颯希は、両手でカップを受け取った。その際、受け渡しの接点に指が約一センチ多く触れた。ちょうど、その一センチ多く触れることに意味があるように。海斗の目を見て、カップの縁越しに笑顔を向けた。
「完璧」颯希は言った。「いつも通り」
雪は視界の端でそれを見た。何も言わなかった。そして、六週間前のある路地で始まった壁のひび割れが、今度は、自分の許可などまったく取らずに、また少し広がるのを感じた。
これは、まずい。そう思った。
海斗を見た。
彼はもう次の注文に移っていた。何も乱れていない。自分が何かの中心にいることを、両側からずっと積み上げられてきた何かの中心にいることを、まったく気づかずに。
かなり、まずい。
雪は次のチケットを取った。
仕事に戻った。




