第九章 最も普通な、特別な朝 後篇――西岡
入学手続きの列は、ゆっくりと進んだ。
周囲では、第一印象という名の社会的な機械が即座に動き始めていた。
前に並んでいた男子ふたりが、カイトを値踏みする目で見た。新入り。脅威度。カテゴリ分け。それは計算された注意だった。
何人かの女子は、違う見方をしていた。もっと温かく。もっと直接的に。
ヨルはその視線の変化を、気圧の変化みたいに感じた。
気づかないふりをしたまま、三センチ、彼の方へ寄った。
「見てる」と彼女は囁いた。
「いつもそうだ」
「あなたを」
「お前も見られてる」
彼女は瞬きした。「私?」
カイトは、彼女の驚きが本気で不思議そうな顔をして見返した。「みんなが見てる男と一緒に入ってきた子だろ。見られないはずがない」
彼女は自分の靴を見た。「嫌だ」
「慣れる」
「慣れたくない」
ふたつ前に並んでいた男子が、慣れた動作で振り返った。
よく使い込まれた笑顔。男女比を計算して育ってきた男の、あの種の自信だった。「ね、新入生? 俺、林。三年。もしキャンパス案内が必要なら――」視線がちらとヨルを見た。「ふたりとも、どうぞ」
「ふたりとも」の音に、何かが乗っていた。
ヨルがさらに二センチ、寄った。
「ありがとう」カイトは気持ちよく言った。「大丈夫です」
声のなかに何かがあった――冷たくもなく、攻撃的でもなく、ただ、提示されたサブテキストに一切興味を持っていない、という感じの何かが。
林は少し顔の表情を組み直した。言語を期待していたのに単語帳が空だった人間の顔をした。「そっか」と言って、前に向き直った。
ヨルが息を吐いた。
「気づいてたんだ」と彼女は小さく言った。
「うん」
「それで、ただ――」
「大丈夫だ」と彼は言った。簡単に。「俺がいる」
彼女はまた靴を見た。
すでに掴んでいた袖を、もう少しだけ強く握った。
書類には二十分かかった。
カイトは、事務仕事が小さな障害でしかない人間の効率で自分の分を書き終えた。
ヨルの欄に参照が必要な箇所は、記憶から書き込んだ――生年月日、前の学校、この一週間でふたりが少しずつ知り合いになっていく過程で、普通に教えてもらっていた細かいこと。
ヨルはそれを、予想外に胸を動かされているものを観察する顔で見ていた。
経費申告の欄に差し掛かったとき、彼女はペンが項目を埋めていくのを眺めながら、通帳と計算機と、あの非常識な数字のことを思った。
何も言わなかった。
フォルダに入れた。
「終わった」と彼は言った。
「終わった」と彼女も確認した。
カイトが立ち上がった。「建物を探す前に、一か所寄るところがある」
「どこ?」
「ついてきて」
校長室は三階にあった。
西岡文彦・校長、と書かれた表札のついたドアの向こう。
カイトは二回ノックして、以前も来たことのある人間の気軽さでドアを開けた。
ヨルは彼のあとに続いて入り、止まった。
広い部屋だった。本棚。小さな国ほどの大きさの机。中庭が見渡せる窓。
机の向こうに、五十代後半の男性が座っていた。これを予想していて、ちょうど期待通りの面白さだと感じている人間の顔で、視線を上げた。
立ち上がった。机を回り込んできた。両手でカイトの手を握った。
「カイトくん。本当に来たんだね」
「来ると言いました」
「顧問の件も、考えてくれると言っていたね」笑い声が上がった――温かく、豊かで、部屋の空気を心地よく満たす笑い方だった。それからその目がヨルを見た。
ヨルの脳みそは新しい情報の処理を停止して、既存の情報を高速で再生していた。
――この人が校長だ。県内最大の大学の。カイトを旧知みたいに出迎えている。両手で握手した。カイトくんって呼んだ。なぜ。どういうこと。いったい誰が――
「紫咲ヨルです」カイトが言った。「文系学部。学費は俺が持ちます」
「責任を持って、か」校長はその言葉を口のなかで確かめるように繰り返した。「それで、あなたは彼女の――」
「知人です」カイトは付け加えた。
ドアから二歩入ったところで、ヨルの表情が〈思考停止〉から、もっとずっと表情豊かな何かへと変わった。
唇が軽く引き結ばれた。自分に使われた言葉が不正確で腹も立つけれど、今はどうにも反論できない、という人間の顔だった。
校長はそのヨルの表情を見た。カイトを見た。またヨルを見た。
その目が、技術的には笑顔ではない何かをしていた。「ああ」と彼は言った。「なるほど」
「先生」カイトが言った。その呼びかけには、穏やかな〈やめてください〉が含まれていた。
「ただの感想だよ」校長は温かく手を招いた。「座って。ようこそ、紫咲さん。カイトくんの知人なら――まあ」また笑った。「それに関係なく、歓迎します」
ふたりは腰を下ろした。
校長は、好きな話をしている人間の落ち着きで背もたれに寄りかかった。
「不動産のコンサルだけで、事務所に頼んだ場合の三倍の価値があった。それから投資の組み替えも――」首を振る。「理事会はいまだに、十九歳の子にアドバイスをもらったなんて知らない」
「結果が証明しています」カイトは言った。
「そうだね」校長はカイトを、本当に珍しいものを見つけた人間の、特別な優しさを込めた目で見た。「だからこそ、話は変わらない。顧問職。自分の時間で動ける。ほかでは見つからない待遇で。」少し間があった。「もう二度と働かなくていい」
カイトは微笑んだ。「ありがとうございます。でも――」
「普通の生活」校長は、何度も聞いたことのあるオチを繰り返す人間の声で言った。面白さはまだ消えていなかった。「そうか、そうか。君と君の普通の生活」温かく笑う。「日本最大の大学のオファーを断ってカフェのシフトに入るとは。たいしたものだ」
「経営学部に入学しました。ちゃんと学びたいんです」
「君が学部を教えられる側だろうに」校長は愉快そうに両手を広げた。「わかった、わかった。もうは言わない」その目がヨルに向いた。「ちなみに、一年生の半分がもう君のことを話題にしているそうだよ」
カイトがわずかに困った顔をした。
「ただ歩いてただけなのに、ね」校長は言った。「ええ、とても説得力のある歩き方で」また笑い声。立ち上がる。「建物まで案内しよう」
校長と一緒に本棟の廊下を歩くのは、ひとつの体験だった。
教員が文の途中で止まった。学生が道を空けた。教授が三人、下の名前で紹介された。廊下というのは、校長が歩くと、そういう振る舞いをするものだった――開き、観察し、記憶する。
ヨルはカイトの反対側を歩きながら、バックグラウンドで次のことを処理していた。
立ち止まる学生。二度見する教授。
三年生が、あまり抑えきれていない声で「あれって――なんで校長が――」と言っているのが聞こえた。
そしてすれ違うどの顔にも、表現は違えど同じ問いが浮かんでいた。
――この人は、何者なんだ。
ヨルは通帳が出てきた日から、その問いを問い続けていた。
握手。そしてすでに歴史を前提にしていた笑い方。
〈あとで〉のフォルダはとっくにいっぱいで、二冊目が始まっていた。
廊下の分岐点で、校長が止まった。
「経営学部はあちら。文系はこちら」ふたりを交互に見る。「別の建物とは。残念だね」
ヨルは、ふたつに分かれる廊下を見た。
胸の中を、小さくて冷たい何かが通り過ぎた。
「大丈夫です」カイトが言った。ヨルを見る。「正門で四時に?」
「四時に」と彼女は言った。
カイトが彼女を見た――直接的で、急いでいない、その場にいる一番大切なものを見るときのあの目で。「大丈夫だ」と言った。静かに。彼女だけに届くように。「わかってるよな」
ヨルは唇を押し合わせた。うなずいた。
カイトは校長に向き直った。「ありがとうございました、先生」
「礼はいい。四年後に、ほら見たことと言わせてくれ」校長は笑った。「紫咲さん――彼のことを頼んだよ」
「彼は誰かに頼まれなくても大丈夫です」ヨルは言った。そしてすぐに「あ、その、――頑張ります」と続けた。
校長はヨルを見た。二十分間最前列で観戦してきた男の、温かく、何もかもわかっているような顔で。「ええ」と彼は穏やかに言った。「きっとそうなると思うよ」
笑いながら去っていった。
ふたりは分岐点に立った。
「ただの知人、か」ヨルは廊下の中ほどに向かって言った。
「ヨル――」
「授業に行く」彼女は鞄の紐を持ち直した。カイトを一度だけ見た。いくつかのものが入っているのに、何一つまだ形になっていない、そういう目だった。「四時」
「四時」と彼は確認した。
彼女は文系の廊下を歩いていった。紫の髪。新しい青いトップス。新しいものの中に入っていくときに、勇気を持って背筋を伸ばす人間の、丁寧な歩き方で。
カイトは廊下が曲がって彼女が見えなくなるまで、見ていた。
新しい章だ、と彼は思った。
そして自分の教室を探しに行った。




