第九章 最も普通な、特別な朝 前篇
道場は、朝の六時に木蠟と努力の匂いがした。
カイトが来たのは五時四十五分だった。
芳賀師範が無言で鍵を開けた。それは言葉にするまでもない、ふたりのあいだだけの取り決めだった。
早く来る。誰の目もないまま稽古をする。終わったら、来たときより畳をきれいにして出る。
三番の型をやっていた。
外から見ると簡単そうに見えて、内側で嘘をつく型だ。
――今日は入学手続きだ。
動作と動作のあいだに、そう思った。
新しい章が始まる。
最初からもう一度。
七時十五分。日の出カフェ。
ケンジはまだ意識の覚醒を果たしていなかった。
「お前、目が覚めてるな」ケンジは、かすかな恨みを込めてそう言った。
「五時から起きてる」
「なんで」
「稽古」
ケンジは義務だけを燃料にした人間の、うつろな効率でコーヒーを淹れた。カウンター越しに差し出してくる。「夜番?」
「替わってもらった。今朝、手続きがある」
リクが裏口から入ってきた。エプロンを半分しか結ばないまま、すぐに興味を持った顔をする。「お前とあの子、一緒に行くの? 一緒に、って意味?」
「ふたりとも手続きがある。同じ時間に行くってだけだ」
「それがそういう意味じゃないの?」
「違う」
ユキはコーヒーステーションのほうを向いたまま、振り返りもせずに言った。「彼、行くところがあるんだって」
リクは口を閉じた。
カイトはコーヒーを飲み干して、店を出た。
家まであと二本の道というところで、名前を呼ばれた。
「カイトくん」
ナナさんは建物の入り口に立っていた。両手に資源ゴミの袋。この偶然を狙っていたくせに、絶対にそれを認めるつもりのない女性の顔をしていた。
クリーム色の柔らかいカーディガン。髪を下ろしている。いつも逃げ出してしまうあの一筋が、今日も逃げ出していた。
彼女は、いつもそうであるように――どう処理すべきかわからない問題みたいな顔をしていた。
「おはようございます」
カイトは袋を受け取った。「ゴミ捨て場、通り道ですから」
「そんな、悪いですよ――」
「わかってます」
ナナさんが隣に並んで、歩き始める。
資源ゴミ置き場までの短い距離を歩きながら、彼女はサキの学校の課題の話をした。ハナのアニメへの熱狂ぶりの話もした。
カイトはそれを、本当に興味のあるものを聞くときのやり方で聞いていた。どうやら自分は、七歳の子どものアニメへの意見も、そのカテゴリに入るらしかった。
一階の窓から、小さな顔がふたつ、外を覗いていた。
サキが腕を組む。「あの人が来た瞬間に出ていった」
ハナがうなずく。「いつもそうだよね」
「今日、ゴミ出しの日じゃないのに」
「知ってる」
窓の下では、ナナが何かに笑っていた。
空いた手で、髪に触れている――どうしてもそうなってしまうのを、必死に隠そうとしているときの、あの特有の輝き方で。
「また始まった」とサキが結論した。
「いつも始まってる」とハナが同意した。
ふたりは、もう諦めた子どもの達観した知恵を持ったまま、朝ごはんに戻った。
上の部屋では、ヨルが眠っていた。
深く。完璧に。
真夜中まで笑い転げて、そのあとどこにも悪い場所のない人間の安らかな闇へと落ちていった者の眠り方で。
しかもまだあのパーカーを着ていた。パジャマの上から。フードを被って。
カイトはそれをしばらく見た。
「ヨル」
反応なし。
「ヨル」
フードの中から音がした。言葉ではない。
「入学手続きは十時だ。歩いて四十分かかる」
フードから紫色の目が一つ現れた。計算する目だ。「まだ二時間あるじゃん」
「朝ごはんには時間がかかる」
「私、朝ごはんなんて――」
「もう作ってる。起きろ」
フードが言語を使わない形の抗議を、一連の音で表現した。
それからヨルが現れた――寝起きで頬が赤く、髪は創造的な自由を謳歌していて、プログラムがゆっくり立ち上がりつつある人間の顔でカイトを見上げていた。
「稽古、行ったでしょ」彼女は言った。観察の皮を被った告発だった。
「行った」
「カフェにも」
「シフトを替わってもらいに、ちょっとだけ」
彼女はパーカーの内側から、正式な抗議の重みを持って彼に指を向けた。「これについては話し合ったよね」
「寝た。稽古した。コーヒー一杯だけ飲んだ。朝の八時だ」
「無理してる」
「朝ごはんが冷める」
もう一秒、彼女は指を向け続けた。
それから起き上がり、パーカーを持ったまま、まだこの話が終わっていないがいまは卵のために一時停止してもいいという気持ちで洗面所へ消えた。
カイトはキッチンに戻りながら、何もないほうを向いて笑った。
八時四十分に、ふたりは家を出た。
ヨルは新しい服で出てきた。
柔らかい青のトップス、きちんとしたサイズの暗い色のジーンズ。髪はちゃんと梳かされていて、鞄を肩に掛けていた。
彼の大きな服を着ていないときの彼女はいつも、隣に立っている人間とは少し違うカテゴリの人みたいに見えた。
「いい感じだな」とカイトは言った。
「やめてください」と彼女は言い、赤くなり、玄関のドアを開けた。
歩き始める。
いい秋の朝だった。
色がいつもより少しだけ自分らしく見える、そういう質の空気。
たいした話はしなかった――授業がどんな感じかとか、学食は行く価値があるかとか、公園を回る遠回りのルートにするかとか。
ヨルは公園を選んだ。
カイトはそちらへ歩いた。
公園の半ば、彼女は言った。さりげなくではなかった。
「カイトって、本当は何者なの」
カイトは彼女を見た。
ヨルは道を見ていた。ジャケットのポケットに両手を突っ込んでいた。それは、何か勇気がいることをするときの仕草だった。「言わなくていいのはわかってる」と彼女は続けた。「でも。あの書類。通帳。校長先生のこと」
「校長には、まだ紹介してないだろ」
「まだ、って言ったじゃん」と彼女は横目で見た。
カイトは少しのあいだ黙っていた。
公園は彼らの周りで動いていた――犬、ベンチに座る学生ふたり、もっと単純な事情を抱えた人たちの、普通の水曜日の朝の生活。
「長い時間をかけて、懸命に働いた人間だ」とカイトは言った。「自分では選ばなかったけれど、うまくやれたことのために」少し間があった。「それからやり直せるチャンスが来て、今度は自分で選ぼうと思った」ヨルを見る。「カフェ。道場。大学。朝八時の朝ごはん」そして静かに。「お前も」
ヨルが足を止めた。
カイトは二歩進んで、止まった。
彼女は、何かが予想外の場所に着地したときの顔をしてカイトを見ていた。目を見開いて、じっとして、冷気とは関係のない色が頬にあった。
「私も」と彼女は言った。
「お前は居場所が必要だった」とカイトは言った。「俺には居場所があった。今、お前はここにいる」彼女を見る。「それも、選ぶってことだ」
彼女は道を見た。カイトを見た。また道を見た。
「それ、全部の答えじゃないよね」と彼女はやっと言った。
「ない」と彼は認めた。「でも、本当のことだ」
彼女は唇を押し合わせた。一度うなずいた。
あとで、というフォルダに入れた。そのフォルダはかなり分厚くなってきていた。「わかった」と彼女は言った。「今は、それで」
歩き始める。
しばらくして、彼女は彼の袖を見つけた。
二本の指でその端を、そっとつかんだ。手を握るのではなく、かといって何もしないのでもなく。ただ布地だけ、ただそれだけ――
そしてそれについては何も言わなかった。
カイトも何も言わなかった。
公園は静かだった。木々の間を抜ける朝の光、ふたりの影が道の上で長く、近く重なっていた。
袖をつかむ彼女の指。その小さな温もり。
どちらも、動かなかった。
ふたりは最後までそのまま歩いた。
そのあいだの沈黙は、重さと温かさを持っていて、破られることにまったく興味がなかった。




