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⑦振り返らない理由
ケインは振り返らない。
背後で何かが転がる音がする。
ころ、と。
石に触れて、やわらかく跳ねる。
城門の気配も、
霧の向こうの円環も、
まだ近い。
距離は、たいしたことがない。
数十歩。
戻ろうと思えば、すぐだ。
彼は振り返らない。
理由は、崇高ではない。
決意でもない。
振り返ると、少し食べたくなるからだ。
甘さの匂いは、風に混じっている。
整った形。
均一な艶。
手に取れば、重みがあり、
口に含めば、溶ける。
完成の誘惑。
これ以上、考えなくていいという安心。
世界はすでに整っている、と
身体が納得するあの感触。
円の安心感。
角がないというだけで、
衝突がないというだけで、
こんなにも静かになる。
ケインは乾いている。
だが、無敵ではない。
直線は強いわけではない。
ただ、曲がらないだけだ。
甘さは嫌いではない。
むしろ、少し好きだ。
だから振り返らない。
視界に入れれば、
理屈より先に、舌が思い出す。
柔らかさ。
均一。
溶ける速さ。
足は止めない。
霧の中へ進む。
背後の音は、やがて湿度に吸われる。
振り返らないという選択だけが、
彼の形を保っている。
直線は、誘惑に弱い。
だからこそ、
前だけを見る。




