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リッカ

第九話 守れる距離


 トーマは、朝から二度転んだ。


 一度目は、道の端に隠れた石だった。


 二度目は、それを避けようとして踏んだぬかるみだった。


 どちらも怪我はなかった。


 服は汚れた。


「頑丈なのは、よく分かった」


 リッカが言った。


「道も見て」


「見てる」


「じゃあ、もう少し先まで」


 荷車を引く馬が、トーマの脇をゆっくり通り過ぎた。


 昨日の夕方から降った雨は、夜のうちにやんでいた。けれど土は水を含み、車輪が通った跡に細い流れができている。


 オルフェが先を歩いていた。


 時々立ち止まり、地面へ目を落とす。


 トーマが追いつくと、彼は指を一本立てた。


「ちょっと待って」


 静かになる。


 鳥の声。


 水の音。


 遠くの車輪。


 オルフェは目を閉じた。


「この先で、一台止まってる」


「見えたのか?」


「聞こえた」


 リッカが工具袋を押さえた。


「また軸?」


「分からない。今の音じゃなく、少し前のが残ってる」


 残響。


 場所に残る音を拾う、オルフェのスキルだった。


 何があったか、全部分かるわけではない。


 音を立てなかったものは分からず、同じ場所へ多くの音が重なると、区別しにくくなるという。


「人の声も?」


 トーマが聞いた。


「少し。怒ってるようには聞こえた」


「何に?」


「車輪か、天気か、自分の運の悪さか。そこまでは分からないね」


 オルフェは歩きだした。


 トーマも続く。


 曲がり角を越えると、荷車が傾いていた。


     *


 片側の車輪が道の縁へ落ちていた。


 車には穀物の袋と、木箱が積まれている。


 男が一人、車輪の下へ板を差し込もうとしていた。女は馬の手綱を持ち、少年が雨除けの布を引っ張っている。


「助けてもらえますか」


 男が顔を上げた。


 トーマはすぐに荷車へ近づいた。


 リッカがその腕をつかむ。


「待って。持つ場所を見てから」


「上げればいいんだろ」


「箱の下に指を入れたら、外板だけ剥がれる」


 彼女はしゃがみ、車の底を覗いた。


 男が名乗った。


「ダンです。東の宿駅へ麦を。車輪が滑って、それから馬が動けなくなって」


「馬は動かさないで」


 リッカが女へ言った。


 オルフェは自分たちの荷車を少し手前へ止め、車輪に石を噛ませた。


「こっちが動くと面倒だからね」


 トーマは指示された骨組みへ手を掛けた。


 重い。


 少年が期待する目で見ている。


 守る対象を定めれば身体は強くなるが、荷車を運ぶために何でも持ち上げられるわけではない。


 トーマは足を踏ん張った。


 少しだけ浮いた。


「そのまま!」


 リッカとダンが板を入れる。


 車輪が板へ乗り、傾きがわずかに戻った。


 トーマが息を吐いた。


 そのとき、林の奥で枝が折れた。


     *


 最初に顔を上げたのは、馬だった。


 耳が立つ。


 鼻を鳴らし、手綱を持つ女を引いた。


 オルフェの表情が変わった。


「下がって」


 低い声だった。


 林から、黒い獣が出てきた。


 猪に似ていた。


 けれど肩が高く、首の皮膚に硬い瘤が並んでいる。片方の牙は折れ、折れ口から黒いものが滲んでいた。


 リッカが後ろへ下がる。


「黒瘤だ」


 オルフェが言った。


 トーマは意味を聞く前に、少年を背後へ押した。


 光が手へ集まる。


 槍が現れた。


「俺の後ろへ!」


 獣が走った。


 泥が跳ねる。


 トーマは槍を斜めに構え、正面から受けた。


 衝撃で足が滑った。


 折れた牙が腕へ当たり、服が裂けた。皮膚は破れなかったが、骨の奥まで震えるような痛みが走る。


 獣の頭が跳ねた。


 槍の柄で押し返す。


 背後で馬が暴れた。


 トーマが一瞬そちらを見る。


 黒瘤が横へ回った。


「見るな、前!」


 オルフェの声。


 トーマは槍を振り、獣の顔を押しのけた。


 少年の泣く声が聞こえた。


 荷車が軋んだ。


 全部が、違う方向にあった。


     *


 リッカは自分たちの荷車へ走った。


 工具箱を開け、金属の輪を二つ取り出す。


 短い縄でつながった、折り畳み式の車止めだった。


「オルフェ、縄!」


 彼は腰から縄を抜き、投げた。


 リッカが車止めを広げる。


 鋭い突起が地面へ食い込んだ。


 ダンの荷車は、馬が暴れるたびに傾きを増していた。


 リッカは車輪の前へ一つを差し込み、もう一つを下側の骨組みへ掛けた。


 縄を回す。


「そこの棒、こっちへ!」


 ダンが持っていた板を渡した。


「板じゃなくて、細いほう!」


 男が慌てて取り直す。


 リッカは棒を縄へ差し込み、捻って締めた。


 荷車の揺れが止まる。


 オルフェは少年の手を取り、女へ声を掛けた。


「馬の正面に立たない。横から、一緒に来て」


「でも、この子が」


「僕が連れてる。見えるところにいるから」


 女がうなずく。


 オルフェは少しずつ道を下がった。


 トーマは黒瘤を押さえていた。


 槍の穂先で突こうとすると、獣は低く沈み、横へ逃げる。


 後ろへ通してはいけない。


 その考えが強すぎて、足が止まっていた。


 肩へ突進を受ける。


 身体は耐えた。


 足元の土は耐えなかった。


 踵が深く沈む。


 槍を引き戻すのが遅れた。


「トーマ!」


 リッカが叫んだ。


「もう、後ろに誰もいない!」


 彼は息を飲んだ。


 少年も、女も、馬も離れていた。


 残っているのは傾いた荷車と、道の下側にいるリッカだけ。


「右へ流して! そっちは空いてる!」


 ガレスの声を思い出した。


 逃げ道を塞ぐな。


 守る相手の位置を見ろ。


 トーマは槍を握り直した。


     *


 黒瘤が突っ込んでくる。


 今度は受け止めきろうとしなかった。


 穂先を外へずらし、柄を獣の首へ沿わせる。


 半歩、足を引く。


 重さが横へ流れた。


 泥へ沈んだ足が抜け、獣の脇が見える。


 槍を短く持ち、肩の後ろへ突き入れた。


 硬い皮膚を抜けた感触が、両腕へ伝わった。


 黒瘤が鳴いた。


 頭を振る。


 トーマは柄を離さず、押される方向へ一緒に動いた。


 無理に止めれば、また足が埋まる。


 林の縁へ寄ったところで槍を引き、二度目を入れた。


 獣の前脚が崩れた。


 それでも牙が動いた。


 トーマは離れず、息を止めて槍を押さえた。


 やがて、動きが小さくなった。


 静かになったあとも、しばらく柄から手を離せなかった。


 オルフェが近づく。


「もういい」


 トーマは振り返った。


 少年が女に抱きついている。


 ダンは膝へ手をつき、何度も息を吐いていた。


 リッカがしゃがみ、トーマの足を見ている。


「捻ってない?」


「多分」


「多分じゃなくて、立てるか確かめて」


 槍が消えた。


 急に手が空になった。


 掌が震えていた。


     *


 黒瘤は、結界の外から来たわけではなかった。


 この辺りにもともといる獣が、姿を変えることがあるのだとオルフェは説明した。


「昔から出る。最近増えてるって話はあるけど、村によって違うね」


「結界の中なのに?」


 トーマが聞いた。


「中にいるものまでは、いなくならないよ」


 オルフェは獣から距離を取り、道の脇へ目印の布を結んだ。


 あとで警備の巡回へ伝えるためだった。


 リッカは車輪の修理へ戻っていた。


 少年が、トーマのそばへ来た。


「痛くないの?」


 裂けた袖を見ている。


「少し痛い」


「でも、血が出てない」


「そういう力だから」


 少年は考えたあと、自分の膝を見た。


 泥で擦れ、血が滲んでいた。


 トーマは袋から布を出した。


「座って」


 傷の周りを、水で流す。


 少年は顔をしかめたが、我慢した。


「俺も、そういう力があればよかった」


 トーマは布を押さえる手を止めた。


 城の庭で、ニコも似たようなことを言っていた。


 答えを考える。


 黒瘤に耐えた自分の身体。


 暴れる馬。


 横へずれた荷車。


 自分が見ていなかったところを、二人が動いていた。


「俺、車を止められなかった」


 少年が顔を上げた。


「え?」


「獣を押さえてる間、誰かが車を止めて、君を連れていかないと駄目だった。俺一人じゃ、間に合わなかった」


 リッカのほうを見る。


 彼女は車輪の泥を掻き出していた。


「力がなくても、できることはある」


 そう言ってから、トーマは少し言い直した。


「俺にできないことも、ある」


 少年はリッカを見た。


 しばらくして、立ち上がる。


「あの、泥、取ろうか」


 リッカが顔を上げた。


「助かる。手じゃなくて、その枝で」


     *


 車は、日が高くなる前に道へ戻った。


 けれど、そのまま遠くまでは進めなかった。


 車軸の片側に、亀裂が入っていた。


 リッカが木片と金具で補強する。


「次の宿駅まで。荷は減らして」


 ダンは袋を見た。


「遅れると、受け取りを断られるかもしれない」


「途中で折れたら、もっと遅れる」


 彼は唇を噛み、うなずいた。


 自分たちの荷車へ、麦の袋を二つ移すことになった。


 トーマが持ち上げようとすると、リッカに止められた。


「まず、水」


「これを運んでから」


「飲んでから運んで」


 差し出された水袋を受け取る。


 飲むと、思っていたより喉が乾いていた。


 オルフェは道の先を見ていた。


 トーマは彼へ近づいた。


「さっき、逃げるのが早かった」


 言ってから、責めるように聞こえたと気づいた。


 オルフェは気にしなかった。


「早くないと間に合わないから」


「いつも、最初に逃げ道を考えるのか」


「うん」


「戦うより先に?」


「戦う人がいるなら、なおさら」


 オルフェはトーマの裂けた袖を指した。


「君は倒れなかった。でも、道の真ん中に立ったままだと、その後ろの人は動けなくなる」


 トーマはうなずいた。


 ガレスにも教わったことだった。


 教わっただけでは、できるようにならなかった。


     *


 夜、宿駅の灯りの下で、トーマは帳面を開いた。


 守った人数を書こうとして、止まる。


 自分が守ったのは誰なのか。


 少年か。


 家族か。


 荷車か。


 道か。


 全部だと思っていたのに、その全部を自分で見てはいなかった。


 向かいではリッカが金具の数を数えていた。


 オルフェは宿の主人へ、道の目印と黒瘤の場所を説明している。


 トーマは、ナギの帳面へ書いた。


 獣一頭。

 槍を使用。

 右肩に痛み。

 休憩、水を飲むよう指摘された。


 それから、一行足した。


 後ろが見えていなかった。


 リッカが顔を上げた。


「何を書いてるの」


「今日のこと」


「私の車止め、壊れたのも書いといて」


「ごめん」


「謝ってほしいんじゃなくて、部品が減ったってこと。次は同じようにできないから」


 トーマは書き足した。


 リッカは帳面を覗き、うなずいた。


「そう。それが大事」


 トーマはペン先の墨を拭いた。


 リシェルにもらったペンだった。


 彼女がここにいれば、きっと何か言った。


 頑丈なのだから平気、とは言わなかっただろう。


 肩を見せろと言ったはずだった。


 トーマは自分で袖をめくり、痛む場所を確かめた。

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