マルタ
第八話 城門の外側
城の裏門が開く音は、思っていたより小さかった。
トーマは鞄を肩へ掛け直した。
まだ朝の鐘は鳴っていない。空は白み始めたばかりで、門の内側に集まった人々の顔にも、夜の色が残っていた。
マルタが、包みを二つ差し出した。
「昼までに召し上がってください。傷みやすいものは入れていませんが、温かいうちのほうがおいしいので」
トーマとカイルが受け取る。
パンだった。
布越しに、かすかな温もりが伝わってきた。
「自分で作ったのに、自分で持たされるの、変な感じだな」
トーマが言うと、料理長のバスが腕を組んだ。
「お前が作ったのは卵だけだ。パンは俺だ」
「そうでした」
「向こうで鍋を借りても、焦がすなよ。借り物だぞ」
トーマは笑って、頭を下げた。
カイルの母は、少し離れたところに立っていた。
昨夜、息子の荷物を一度すべて出して詰め直し、今朝また開けようとして止められた人だった。
「洗ったものと汚れたものを、同じ袋に入れない」
「分かってる」
「濡れたまましまわない」
「分かってるって」
「分かっているなら、言わせないようにして」
カイルは言い返しかけ、やめた。
母が彼の襟を引き、縫い目を確かめる。
顔を見ないまま、その手がしばらく離れなかった。
「……手紙は書く」
「読める字でね」
「みんな、それ言うな」
母はようやく笑った。
*
オルドが二人を呼んだ。
東へ向かう書状と、西へ向かう書状。
封蝋の紋章は同じだったが、表に記された相手の名は違っていた。
「受け入れ先の窓口は、説明したとおりです。予定外の変更があれば、宿駅から連絡を」
老人はそれぞれの手へ渡した。
「殿下の名を出して、無理を通してはなりません」
「分かっています」
トーマが答える。
カイルも、書状を鞄の内側へ収めた。
ナギは小さな帳面を持っていた。
表紙に、東と西の文字が一つずつ書いてある。
「体調と、使った力と、休んだ時間を」
「毎日だろ」
カイルが受け取った。
「空欄の日があっても、あとから想像で埋めないでください」
「信用ないな」
「分からない記録と、間違った記録では、扱いが違いますので」
トーマは帳面の最初を開いた。
日付を書く欄の下に、出発時の状態を記す場所があった。
眠った時間。
食べたもの。
痛むところ。
記録することは、どれも普通だった。
姫様の命を長く保つ旅に出る朝でも、自分が何時間眠ったかを書くのだ。
ナギが彼の手元を見た。
「今日は、昨夜の分からお願いします」
「……短かった」
「そう書いてください」
トーマはうなずいた。
*
ガレスは門柱へ寄りかかり、二人を見ていた。
今日は仮面をつけていない。
「忘れ物、ないか」
「ないと思う」
「それ、だいたい何かあるやつだな」
カイルが笑う。
セラフィナはガレスの隣に立っていた。手袋をした指で、二人の上着の襟を順に直す。
「困ったら、困ったと書きなさい」
「はい」
「元気です、だけの手紙はいりません。何を食べて、どこで眠って、何に困ったのか。それを書いて」
「姉さん、手紙ってもっと自由じゃない?」
「あなたの自由は、読める字からよ」
カイルは諦めてうなずいた。
ロゼッタが最後に靴を見た。
紐。
底。
踵。
二人とも、もう黙って片足ずつ上げた。
「結構です」
それで検査は終わった。
ガレスがトーマの肩へ手を置いた。
「昨日言った足の向き、忘れるなよ」
「分かってる」
「守る相手の逃げ道を空ける」
「うん」
次に、カイルの肩を叩く。
「お前は、全部を剣で済ませようとしない」
「まだ何もしてないだろ」
「する顔してる」
ガレスは笑った。
いつもの笑い方だった。
そのことに、トーマは少し救われた。
*
出る前に、二人はもう一度だけ西棟へ寄った。
墓所の階段を下りる。
新しい敷物が敷かれていた。リシェルが注文したものだ。靴底が石へ直接触れなくなり、足音が少し柔らかくなっている。
扉の軸も、もう軋まなかった。
イネスが二人を通した。
リシェルは眠っていた。
額にかかる髪は整えられ、手は布の上へ置かれている。寝台の脇には、木彫りの馬と本があった。
昨日まで、物の置き方にいちいち文句を言っていた人だった。
今朝は何も言わない。
トーマは寝台のそばに立った。
「行ってくる」
声が思ったより低くなった。
「卵は、帰ってからまた焼く。バスさんに教わったから、もう焦がさないと思う」
カイルが鼻で笑った。
「思う、かよ」
「絶対って言うと、怒るだろ」
「そうだな」
カイルは本へ目を向けた。
栞が、二人で読んだ場所に挟まっている。
「先は読まないでおく」
返事はない。
「だから、お前も勝手に終わらせるなよ」
言ってから、彼は唇を結んだ。
そんな言葉で止まるものではない。
それでも、言わずには出られなかった。
トーマはイネスへ頭を下げた。
「お願いします」
「ええ」
イネスは、いつもの穏やかな声で答えた。
「こちらのことは、こちらで。皆さんも、お身体を大切に」
二人は寝台へ向き直り、もう一度だけリシェルの顔を見た。
カイルが先に歩きだした。
トーマも、そのあとに続いた。
*
王都の東西へ向かう荷は、城外の集積場で組み直される。
二人はそこまでは、同じ荷車の横を歩いた。
朝の城下は働き始めていた。
戸を開ける音。
井戸から水を引く音。
昨日の継承を祝った白い旗が、まだ軒に残っている。
パン屋のエダが、店先を掃いていた。
「あら。今日は早いね」
「ちょっと遠くまで」
トーマが答えた。
「仕事?」
「うん」
「じゃあ、腹を空かせないように」
彼女は袋から、小さな焼き菓子を二つ出した。
カイルが代金を出そうとすると、手を振る。
「割れた分。売れないから」
どちらも割れていなかった。
トーマは礼を言って受け取った。
通りを曲がると、橋のそばに靴直しの女がいた。まだ店を開ける途中で、敷物を広げている。
リシェルが買った靴紐を、トーマは結んでいた。
女は気づき、足元を見てうなずいた。
「しばらく持つよ。緩んだら、結び目だけ締めるんじゃなく、一度ほどいて締め直しな」
トーマは覚えておくと答えた。
城を出ても、知らないものばかりではなかった。
昨日まで見ていた暮らしが、門の外にも続いていた。
*
集積場は、城の庭より騒がしかった。
荷を数える声が飛び、馬が鼻を鳴らす。大きな車輪が石を踏み、軋んだ。
東行きの荷車の下から、足が二本出ていた。
「そこの人、手を貸して」
足の持ち主が言った。
トーマがしゃがむ。
「何を?」
「その箱。持ち上げないで、右へずらして。違う、あなたの右じゃなくて車の右」
言われたとおりにすると、車の下から若い女性が這い出してきた。
頬に黒い汚れがついている。
髪は短くまとめられ、腰に工具袋を下げていた。
「助かった。揺れるたびに軸受けへ当たってたの」
彼女は荷札とトーマの顔を見比べた。
「守護の人?」
「トーマ」
「リッカ。東まで一緒。あなた、荷物それだけ?」
トーマがうなずくと、彼女は空いた場所へ細長い工具箱を置いた。
「じゃあ、これ見てて。盗まれると困るから」
カイルが笑った。
「もう仕事もらってる」
「お前も手伝えよ」
「俺、西だから」
別の荷車のそばで、槍を持つ女性が姿勢を正した。
「カイル殿ですね」
「殿はいらない」
「ミレイと申します。西の受け入れ先から、途中の護衛を命じられました」
整った声だった。
背筋が伸び、旅装にも乱れがない。槍の穂先は布で包まれているが、柄には使い込んだ跡があった。
「道中の判断は、状況を見て相談します。無理な進行は避けます」
「助かる。俺、道は知らない」
「承知しています」
即答だった。
カイルは、何となく姿勢を正した。
東の荷車へ、別の男が近づいた。
片手にパンを持ち、歩きながら食べている。
「遅れてないよね」
リッカが車輪を指した。
「積み直した。予定より重い」
「じゃあ、川沿いはやめよう。ぬかるんでる」
男はトーマへ笑いかけた。
「オルフェ。道案内だよ。眠そうだけど、昨夜は寝た?」
「少し」
「馬車で揺られると眠くなるけど、歩くときは起きててね」
トーマは、返し方に迷った。
オルフェは自分のパンを食べ終え、指についた粉を払った。
「じゃあ、行こうか」
*
別れは、思っていたより慌ただしかった。
東の荷が先に揃った。
西の車は、樽の数が合わず、まだ荷役が走っている。
トーマはカイルの前へ立った。
「連絡する」
「書けるときでいいよ」
「お前もな」
「分かってる」
カイルはトーマの上着へ手を伸ばした。
襟の裏が、折れていた。
直してやる。
「また言われるぞ」
「今はいないだろ」
「いなくても分かるんだよ、あいつは」
トーマが笑った。
カイルも笑った。
それから、どちらも黙った。
ガレスなら肩を叩いただろう。リシェルなら命令しただろう。
二人は握手をした。
子どものころには、そんな別れ方をしなかった。
「頼む」
カイルが言った。
「そっちも」
トーマが答えた。
荷車が動きだす。
数歩進んで振り返ると、カイルはまだ同じ場所にいた。
片手を上げる。
トーマも上げた。
道が曲がり、荷車が間へ入った。
姿が見えなくなった。
*
昼、トーマは城から持ってきたパンを食べた。
もう温かくはなかった。
リッカは工具箱に腰掛け、硬いパンを小さく割っていた。オルフェは馬に水を飲ませている。
誰も、食べる早さを合わせなかった。
リシェルなら、落とした粉を指さす。
カイルなら、最後の一切れへ手を伸ばす。
トーマは無意識に、パンを三つに分けかけた。
手を止める。
「多かった?」
リッカが聞いた。
「いや」
トーマは一つを口へ入れた。
よく噛んだ。
そのころ、西の道でカイルも包みを開いていた。
ミレイは食事の前に槍を確かめ、商隊の者へ次の休憩場所を聞いている。
カイルはパンを一つ持ち、空いた隣を見た。
誰もいなかった。
鞄からナギの帳面を出す。
昼食の欄に、パンと書いた。
それだけでは足りない気がして、少し考える。
城のパン。
四文字を足して、帳面を閉じた。




