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墓

第七話 おやすみなさい、姫様


 最後の朝食には、卵が五つ並んだ。


 トーマが三人分と国王の分を焼き終えたところで、リシェルが尋ねたのだ。


「お母様の分は?」


 王妃が来るとは聞いていなかった。


 トーマが振り返ると、クラリスはすでに入口に立っていた。マルタと一緒に、椅子の置き場所を相談している。


「わたくしだけ別のお部屋というのも、寂しいでしょう」


 リシェルと似た口調で言った。


 カイルが椅子を運び、国王が自分の席を少しずらした。卓が狭くなり、パン籠を置く場所がなくなる。


 結局、籠は窓辺へ置いた。


 立たなければ届かない。


 それでも誰も、別の部屋で食べようとは言わなかった。


 トーマが最後の皿を運ぶと、リシェルは白身の端を確かめた。


「今日は少し、焼き方が違いますわね」

「五つ続けて焼いたの、初めてだから」

「練習不足です」

「昨日まで三つでよかったんだよ」


 王妃が笑った。


 国王はもう食べ始めていた。


「私は、ちょうどよいと思うが」


「お父様は何でもおいしいとおっしゃいますもの」


「そうでもない」


 クラリスが夫を見た。


「昨夜の薬湯は残しましたね」


 アルベルトはカップを置いた。


「少しだけだ」


「半分以上です」


 リシェルが顔を上げた。


「わたくしには、お飲みなさいとおっしゃったのに」


 カイルが、堪えきれずに笑った。


 王は居心地悪そうにパンへ手を伸ばし、籠がないことに気づいた。


 トーマが取ってこようとすると、先にリシェルが立った。


 籠を持って戻り、父の前へ差し出す。


「こちらは残さずにどうぞ」


 国王は一つ取った。


 その様子を見て、彼女は満足そうに座り直した。


 儀式は、夜が明ける前に始まる。


 朝食のあとには最後の検査があり、午後には各国の使節が挨拶に来る。それが済めば、白い寝衣へ着替えることになっていた。


 誰も、その予定を口にしなかった。


 リシェルは二枚目のパンを食べた。


 食べ終えたあと、少し迷って、三枚目を取った。


     *


 昼の部屋には、花が増えた。


 北の王国から届いた白い花は、細い硝子の筒に収まっていた。東からは、寝所の温度を測る小さな器具。南からは肌に触れる布と、香りの弱い薬草。西から届いたのは、手のひらほどの磨かれた石だった。


 長く風雨に耐える石だと、使節は説明した。


 リシェルは一つずつ受け取り、礼を述べた。


 立派な挨拶が続いた。


 王家への感謝。

 五王国の平穏。

 歴代の功績。

 姫君の尊い務め。


 トーマは壁際で聞いていた。


 どの言葉も間違いではないのだろう。


 けれど、リシェルが朝、パンを三枚食べたことを知る人はいなかった。


 最後の使節が退室すると、彼女は背もたれへ身体を預けた。


「喉が渇きました」


 エネが水を運んだ。


 リシェルは半分ほど飲み、息を吐く。


「わたくし、そんなに立派な方だったかしら」


「本人が知らないなら、違うんじゃないか」


 カイルが答えた。


 マルタが彼を見る。


 リシェルは笑った。


「そうですわね」


 エネが花瓶を動かそうとして、机の端に肘をぶつけた。小さな音がして、少女は慌てて頭を下げる。


「申し訳ございません」


「壊れていませんでしょう」


「はい」


「でしたら、そんな顔をなさらないで」


 エネの目が赤かった。


 彼女はうつむき、また謝ろうとした。


 リシェルはカップを机へ戻した。


「あなたにお願いがあるの」


「何でしょうか」


「マルタに、お茶を飲ませて。放っておくと、働いてばかりですから」


 マルタが眉を上げた。


「殿下」


「ご自覚がおありでしょう」


 エネは顔を上げた。


 泣くのを堪えるように、唇へ力を入れる。


「承知いたしました」


「声が小さいですわ」


「承知いたしました」


 今度は、ちゃんと聞こえた。


 リシェルはうなずいた。


     *


 夕方になると、部屋へ来る人が途切れた。


 マルタが着替えを広げる。


 白い寝衣の袖は、以前より少し広くなっていた。


 リシェルは腕を通し、手首を回した。


「これなら結構です」


 髪を梳かしてもらう間、鏡の中の自分を見ていた。


 飾りはつけない。


 重い耳飾りも、首飾りも外した。


 顔だけを見ると、朝より幼く見えた。


「……何か、足りませんわね」


 マルタは手を止めた。


「髪留めでしたら」


「いえ。これでよいのでしょう」


 リシェルは自分の膝を見た。


 布の下で、指先が動いた。


 扉が叩かれ、セラフィナが入ってきた。


 妹の姿を見て、一度だけ足を止める。


「袖は、直ったのね」


「ええ」


 姉は隣の椅子へ座った。


 マルタが静かに部屋を出る。


 二人きりになると、リシェルは先に口を開いた。


「お姉様。そのお顔、やめてくださいな」


「どんな顔?」


「ご自分が悪いようなお顔」


 セラフィナは答えなかった。


 妹が姉の手を取った。


 いつもなら、姉のほうから触れる。


 今日は逆だった。


「代わってほしいとは、申し上げていません」


「分かっているわ」


「でしたら、ご自分を責めるのはおやめになって」


 セラフィナの指が、妹の手を握り返した。


「あなたは、最後まで厳しいのね」


「まだ最後ではありませんわ」


 言ったあと、リシェルの声が少し震えた。


 セラフィナは椅子を寄せた。


 妹の肩を抱く。


 リシェルは最初、背筋を伸ばしたままだった。


 やがて、姉の肩へ額をつけた。


 何も言わなかった。


 姉も、何も言わずに髪を撫でた。


     *


 日付が変わるころ、墓所への道が開かれた。


 外では風が吹いていた。


 庭の旗が揺れる音がする。


 儀式に立ち会う人数は、少なかった。国王夫妻、オルド、ナギ、世話をするイネスとマルタ。それから、リシェルが望んだ人たち。


 トーマとカイルは、階段の手前で待っていた。


 リシェルが来る。


 歩く速さは、いつもと変わらなかった。


 ガレスが片手を上げた。


「階段、ゆっくりな」


「分かっています」


 ロゼッタは仮面も楽団も呼ばなかった。


 代わりに、薄い上掛けをリシェルの肩へ掛ける。


「下は冷えますので」


「ありがとう」


 小さな声だった。


 石段には、新しい敷物が敷かれていた。


 リシェルはそれを見て、ナギへうなずいた。


「直してくださったのね」


「はい。扉の軸も」


 彼女は一段下りた。


 トーマとカイルが後ろへ続く。


 前に来たときより、足音が静かだった。


     *


 伯母の寝台には、帳が下りていた。


 手前の寝台には、選んだ布が敷かれている。


 枕は低く直され、小さな台には木彫りの馬が置かれていた。その隣に、砂漠の船の本。


 リシェルは馬へ触れた。


 ちゃんと立っていることを確かめてから、手を離す。


 ナギが床の溝を点検した。


 四方へ向かう光の線に、細い銀の器具が重ねられていく。イネスは寝台の位置を確かめ、毛布の端を折り返した。


 オルドが儀式の文言を読み始めた。


 長くはなかった。


 歴代の名と、引き継ぐ者の名。


 リシェルは自分の名を呼ばれ、答えた。


「はい」


 声が、石の壁へ届いた。


 王妃がそばへ来た。


 娘の襟を整える。


「苦しいところはない?」


「まだ、何も始まっていませんわ」


「そうね」


 クラリスは笑った。


 上手に笑えていなかった。


 リシェルは母の手を取った。


「お母様も、お休みくださいね」


「ええ」


「お返事だけでは駄目ですよ」


「あなたに似たことを、マルタにも言われたわ」


 リシェルは少し笑った。


 国王が、娘の額へ唇を触れさせた。


 何か言おうとして、やめる。


 代わりに、彼女の手を両手で包んだ。


 リシェルはそれを覚えるように、指を動かした。


 やがて父が離れ、姉たちも少し下がった。


 最後に、トーマとカイルが寝台へ近づいた。


「そこで見下ろされると、落ち着きません」


 リシェルが言った。


 カイルが椅子を引いた。


 トーマも反対側へ座る。


「これなら?」


「ええ」


 彼女は枕へ頭を預けた。


 少し動かし、納得したように息を吐いた。


「枕、ちょうどよいですわ」


 イネスがうなずく。


 カイルは本を取った。


「読む?」


「今は結構。あなた、飛ばしそうですもの」


「飛ばさないって」


「難しい字のところで、勝手に変えますでしょう」


 トーマが笑った。


 リシェルも笑った。


 ナギが国王へ目を向ける。


 王が、ゆっくりうなずいた。


     *


 銀の輪が動いた。


 床の光が、一瞬細くなる。


 リシェルの指が、毛布をつかんだ。


 トーマが手を伸ばす。


 彼女はその手を取った。


 反対側では、カイルが椅子を寄せた。


「痛いか」


 トーマが尋ねた。


 リシェルは首を振った。


「少し、寒いです」


 イネスが毛布を上げた。


 けれど、それだけではないことをナギは知っていた。彼は器具から目を離さず、輪の角度をわずかに変える。


 光が寝台の下へ集まった。


 リシェルが息を吸う。


 途中で少し詰まった。


 トーマの手を握る力が強くなった。


 彼は何も召喚できなかった。


 剣も槍も、この場では役に立たない。


 握り返す力を強くしすぎないよう、それだけを考えた。


「……カイル」


「いるよ」


「お庭」


「白い薔薇だろ」


「増やさないで」


「分かってる」


 リシェルの目が、トーマへ動いた。


「書棚の鍵」


「引き出しの奥」


「はい」


 彼女は少し安心したように瞬きをした。


 床の光が強くなる。


 遠くへ向かう線が、一本ずつ明るくなった。


 エルミナの寝台を囲んでいた光が穏やかになり、その分、リシェルの周囲に力が集まっていく。


 姫の呼吸が、少しずつ遅くなった。


「二人とも」


 声が小さかった。


 二人は身を寄せた。


 リシェルは何かを確かめるように、それぞれの顔を見た。


「喧嘩ばかり、しないでくださいな」


「こいつが売らなければ」


 カイルが言った。


「お前だろ」


 トーマが返す。


 彼女の口元が、かすかに動いた。


「ほら」


 目が閉じかける。


 一度だけ、また開いた。


 今度は、不安を隠しきれなかった。


 トーマが名前を呼んだ。


 カイルも、そばにいると言った。


 リシェルの指が、二人の手を探した。


 片方ずつ、握る。


「おやすみなさい」


 それが、最後の言葉だった。


     *


 しばらく、誰も動かなかった。


 眠っただけに見えた。


 いつもの部屋で夜更かしをして、本を膝に載せたまま眠ってしまったときと、よく似ていた。


 違うのは、呼べば起きるとは限らないことだった。


 ナギが呼吸を確かめ、光の流れを測った。


「継承は、安定しています」


 国王が目を閉じた。


 王妃は娘の髪を撫でた。


 セラフィナは唇を結び、ガレスはその隣に立った。ロゼッタが誰にも言われず、椅子をもう一脚運んだ。


 トーマは手を離せなかった。


 イネスが、急がなくてよいと言った。


 その言葉を聞いてから、少し泣いた。


     *


 夜明けが近づくころ、墓所には二人だけが残った。


 ナギとイネスは隣室にいた。何かあれば呼べる距離だった。


 トーマは眠る姫の顔を見た。


 カイルは、机の本を元の場所へ置いた。


「明日、出るんだよな」


「うん」


 姫の前で旅のことを口にしたのは、初めてだった。


 トーマは椅子へ座り直す。


「あのさ。俺、東へ行く」


 眠るリシェルは答えなかった。


「設備に、俺の力が使えるかもしれないって。まだ分からないけど、確かめてくる」


 カイルも言った。


「俺は西。剣を使う仕事がある」


 二人とも、うまく説明できなかった。


 起きていれば、もっと詳しく話せと言われただろう。


 いつまで。

 誰と。

 怪我をしたらどうする。

 なぜ、先に言わなかった。


 聞かれなかったことが、苦しかった。


「部屋と庭は、ちゃんと頼む」


 トーマが続けた。


「俺たちも、忘れない」


 カイルが椅子から立った。


 寝台の脇へ手を置く。


「怒るなら、あとで聞くから」


 声が少し掠れた。


 トーマも立ち上がった。


 二人はしばらく、姫を見ていた。


「俺は西を守る」


 カイルが言った。


「お前は東で、あいつを頼む」


 トーマがうなずいた。


「分かった。お前の分まで守る」


 いつもの約束のように、拳を軽く合わせた。


 音は小さかった。


 寝台の下で、光が静かに流れていた。

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