王
第六話 最後の自由時間
国王のための椅子を、カイルが運んだ。
いつもの三人の卓には、少し大きすぎる椅子だった。隣の部屋から持ってきたものなので、背もたれの高さも、木の色も違う。
アルベルトはそれを気にせず腰を下ろした。
リシェルは父の前へカップを置いた。
「お砂糖は」
「いらない」
「昔は、お入れになっていたでしょう」
「最近は入れない」
「そうですの」
彼女は砂糖壺を元へ戻した。
会話が途切れた。
カイルがパン籠を寄せる。王は一つ取り、リシェルも同じものを取った。二人とも、しばらく食べなかった。
厨房へ行ったトーマが、なかなか戻ってこない。
「冷めますわよ」
リシェルが言った。
「そうだな」
王はパンを一口食べた。
また、静かになった。
カイルは自分の皿へ視線を落とした。ここで何か言うべきなのかもしれない。けれど、昨日の剣の訓練について話しても、今朝の会合へつながりそうな気がした。
扉が開いた。
トーマが皿を運んできた。
「お待たせしました」
卵を王の前へ置く。
白身の端が少し欠けていた。鍋から移すときに引っかかったのだろう。トーマの顔を見れば分かった。
アルベルトは皿を眺めた。
「君が作ったのか」
「はい」
「毎朝?」
「このところは」
王がナイフを入れた。
リシェルは父の手元を見た。
「焦げてはいませんわね」
「うん」
「黄身も、今日は問題ありません」
「うん」
アルベルトは一口食べた。
「おいしい」
トーマが、ようやく息を吐いた。
リシェルは自分のパンを小さくちぎる。
「わたくしが、何度も直させましたの」
「それなら、君にも礼を言わなければならないな」
「ええ。どういたしまして」
カイルが笑った。
王も少し笑った。
リシェルは紅茶を飲み、窓の外へ目を向けた。
「庭の飾りは、減らしました」
「聞いている」
「柱の事故のことも?」
「ああ。新しい綱を手配した」
「立て直すためではありませんわよね」
「残っている足場の確認用だ」
彼女はうなずいた。
父が卵を食べるところを、また見た。
「伯母様のお部屋にも、いらしたのでしょう」
アルベルトの手が止まった。
トーマが顔を上げる。
カイルはパン籠から手を離した。
「……ああ」
「窓を直したと、お伝えしました」
「そうか」
「昔から固かったんですの?」
王は少し考えた。
「姉は、開かなければ隣の窓を使っていた」
リシェルが眉を寄せる。
「直せばよろしいのに」
「私が直すと言って、余計に固くしたことがある」
カイルが父親のような顔をした王を見た。
リシェルも見た。
アルベルトはカップを持ち上げた。
「それ以来、触るなと言われていた」
「……では、あの留め金はお父様が」
「全部が私のせいではないと思うが」
リシェルは笑いかけて、やめた。
目を伏せる。
王は何か言おうとしたが、彼女のほうが先だった。
「明日も、いらっしゃれます?」
声は普段と変わらなかった。
アルベルトは、予定を確かめるとは言わなかった。
「ああ」
リシェルはパン籠を父へ押した。
「でしたら、残りは明日のお話にいたしましょう。今日は時間がございませんもの」
*
昼前、トーマとカイルは城の衣装庫の隣へ呼ばれた。
そこには、旅に使う上着と靴が並んでいた。
待っていたのはロゼッタだった。
「採寸から始めます」
彼女は細い紐を持ち上げた。
カイルが一歩引く。
「俺、今の服で」
「雨に濡れた状態で、三日着続けたことは?」
「ない」
「では、こちらへ」
ロゼッタは議論をしなかった。
袖、肩、膝の幅。動いたときに布が引かれる場所を確かめる。トーマには腰を落とさせ、カイルには両腕を上げさせた。
「剣を出すとき、腕はどこまで動かしますか」
カイルが普段の動きをする。
「外套の留め具は、胸の中央を避けます。指が引っかかりますので」
「よく分かるな」
「ガレス様が、同じことをなさいました」
トーマが笑った。
ロゼッタは薄い袋を二つ出した。
針と糸、替えの紐、小さな布切れが入っている。
「これも」
「自分で縫うの?」
「誰かが毎晩、直してくれるとは限りません」
トーマは針をつまんだ。
卵を焼くのとは違う難しさがありそうだった。
カイルは糸を通そうとして、二度失敗した。
「これ、スキルでどうにかならない?」
「私がそばにいれば、どうにかなります」
ロゼッタは淡々と答えた。
「いないときのために、お渡ししています」
小さな従者が一人、彼女の足元に現れた。
布を抱えて机へ上がり、二人の前へ広げる。綺麗に縫った見本と、急いで塞いだだけの見本だった。
「旅先では、まず穴が広がらないように。それから、肌に糸の結び目が当たらないように」
二人は並んで座り、布を縫った。
トーマの縫い目は大きく、カイルの糸は途中で絡まった。
ロゼッタはどちらにも同じだけ教えた。
仕上がりを見て、カイルが尋ねる。
「姫には、何て説明してる?」
「お二人の服を直すと」
「それだけ?」
「今していることは、それだけです」
ロゼッタは見本を畳んだ。
「ただ、質問されたときに何でも説明できるよう、考えすぎないほうがよろしいかと」
「何で」
「覚えることが増えるほど、間違えます」
カイルは返せなかった。
トーマは針先を見た。
誰かを傷つけずに済ませる方法を、準備しているはずだった。
隠すための準備も、一緒に増えていた。
*
次の日の午後、リシェルは書棚を空にし始めた。
マルタが部屋へ入ってきたときには、床に本が十冊以上積まれていた。
「何をなさっているのです」
「整理です」
「動かすなと、あれほど」
「わたくしが動かすのは、よろしいの」
リシェルは脚立へ上がろうとした。
マルタに止められた。
ちょうど来たトーマが代わりに上がり、上段の箱を下ろす。カイルは床の本を拾い、埃を払った。
箱の中から、石が出てきた。
白い石。
赤茶色の石。
何の変哲もない灰色の石。
「まだ持ってたのか」
カイルが一つ取った。
「捨てる理由がありませんでしたもの」
「これ、俺が拾ったやつ」
「違います。あなたのは、こちら」
リシェルは別の石を指した。
「覚えてるのかよ」
「あなたが自慢しましたでしょう。竜の卵だと」
トーマが笑った。
「川で洗ったら、色が落ちたやつだ」
「土が落ちただけだろ」
カイルは石を戻した。
その下には、折り畳んだ紙があった。
開くと、線が何本も走っている。
城。
川。
丘。
大きく描かれた木。
三人で城から抜け出そうとしたときの地図だった。
実際には裏の物置でベルクに見つかり、夕方まで草むしりをさせられた。
「この道、壁ですわね」
今のリシェルが指摘した。
「昔も壁だったよ」
トーマが答える。
「じゃあ、どうやって通るつもりだったんだ」
カイルが言った。
三人で紙を見た。
誰も覚えていなかった。
しばらく笑ったあと、リシェルは地図を畳んだ。
「これは戻して」
「石も?」
「ええ」
「整理になってないぞ」
「場所を確かめたんです」
彼女は箱を閉じた。
それから、積んであった本の一冊を開く。
砂漠の船の話だった。
頁の間から、古い花びらが落ちた。
トーマが拾おうとすると、リシェルが先に手を伸ばした。
乾いて薄くなった花びらは、指に触れただけで少し欠けた。
「これは、もう駄目ですわね」
マルタが小皿を差し出した。
リシェルはそこへ花びらを置いた。
「同じ花、庭にあります?」
「ございます」
「一つ、あとで摘んできてくださいな」
マルタがうなずく。
カイルは閉じた箱を持ち上げた。
重くはなかった。
それでも、さっきまでより慎重に棚へ戻した。
*
午後の自由時間は、庭で過ごすことになった。
リシェルが求めたのは、立派な席ではなかった。
古い水盤のそばにある、長い石の腰掛け。
三人が子どものころ、叱られたあとによく並んで座った場所だった。
ガレスが来ようとして、セラフィナに止められた。
遠くで「俺も座れるぞ」と言っていたが、姉に耳元で何か言われると、すぐ別の方向へ歩いていった。
カイルがその背を見送る。
「分かりやすい人だな」
「何がですの?」
「いや、何でも」
リシェルは真ん中へ座った。
トーマが右、カイルが左。
昔より狭かった。
「少し離れて」
「そっちが真ん中に座るからだろ」
「両端へ座ったら、お話が遠くなります」
彼女は本を膝へ置いた。
読み進めると、船はようやく砂の嵐を抜けた。
行く手に、緑のある街が見える。
カイルが挿絵を覗き込んだ。
「絶対、罠だな」
「どうして」
「いいことが続かない本だから」
「まだ一度も続いていませんわね」
トーマが次の頁をめくった。
街は本当にあった。
船長は大喜びして酒場へ入り、料理番は水を買いに行った。
「また、この方が全部やっていますわ」
「船長は人脈を作ってるんじゃないか」
「酔っています」
「駄目だな」
リシェルが笑った。
水盤へ小鳥が降りてきた。縁を二度つつき、首を傾ける。
三人は少しの間、そちらを見た。
鳥が飛んでいくと、リシェルは本を閉じた。
「続きを読まないのか」
カイルが聞いた。
「今日は、ここまで」
「あと少しなのに」
「着いたところで終わるほうが、よいでしょう」
彼女は表紙の角を撫でた。
トーマは、明日続きを読もうと言いかけた。
儀式の前日の予定は、朝から埋まっている。何度も確認したはずなのに、言葉が先に出そうになった。
リシェルは空を見上げた。
「二人とも、わたくしが眠ったあとまで、毎朝ここへ来なくて結構ですからね」
カイルの手が止まった。
「誰が来るって言ったよ」
「来そうですもの」
彼女は二人の顔を順に見た。
「トーマは、用事もないのにお皿を三枚出しそう。カイルは、暇だと言って椅子を占領しそうです」
「俺のこと、何だと思ってる」
「暇な方」
いつものように言い返した。
少し間を置いて、リシェルは声を落とした。
「お仕事も、遊びも、ちゃんとなさい」
トーマは膝の上で手を組んだ。
「うん」
「おいしいものを食べたら、どんなものだったか覚えておいて」
「それは得意だろ、こいつ」
カイルがトーマを指した。
リシェルはうなずいた。
「あなたは、面白い話を」
「注文、多いな」
「わたくしが退屈したら、困るでしょう」
二人は、返事の代わりに笑った。
聞いてもらえる日があるかどうか、誰も口にしなかった。
*
日暮れ前、リシェルは父の執務室を訪ねた。
扉の前で、侍従が取り次ぎを告げる。
返事を待つ間、彼女は袖口を直した。
父と食事をしてからも、二人きりでは話せていなかった。
中へ入ると、アルベルトはペンを置いた。
「座りなさい」
「すぐ済みます」
そう言いながら、彼女は座った。
机には儀式に関する書類があった。
自分の名前が見える。
父は隠さなかった。
「お父様は」
リシェルはそこで一度止まった。
考えてきた言い方が、どれも気に入らなかった。
「わたくしが眠ったら、少しは休まれますの?」
アルベルトが顔を上げた。
「どういうことだ」
「伯母様のことも、継承のことも、今は全部ございますでしょう」
彼女は机を指した。
「それが一つ終われば、眠れるのかと思って」
王はしばらく黙った。
「分からない」
「そうですの」
リシェルは目を伏せた。
父が、立派な答えを用意していないことに少し驚いた。
アルベルトが尋ねる。
「君は、眠れているか」
「昨日は」
「その前は」
彼女は返事をしなかった。
王は椅子から立ち、窓際の小さな箱を取ってきた。
中には、木彫りの馬が入っていた。
墓所にあったものとよく似ている。ただし、こちらは四本の脚の長さが揃っていた。
「作り直したんですの?」
「ああ。随分前に」
「伯母様へ?」
王はうなずいた。
「でも、あちらのほうがよいと言われた」
リシェルは馬を受け取った。
背を指で撫でる。表面は滑らかだった。
「こちらも悪くありませんわ」
「持っていくか」
「ええ」
彼女は即答した。
父が少し笑ったので、リシェルも笑った。
それから、馬を膝の上へ置いた。
「怖くないと申し上げたら、お父様は安心なさいます?」
アルベルトの表情が変わった。
「安心したいとは、思う」
「では、申し上げません」
声が少し震えた。
リシェルは馬の脚をつかんだ。
折れそうで、すぐ力を緩める。
「怖いです」
父は何も言わなかった。
「目が覚めないかもしれないことも。自分が、どこまで分からなくなるのかも」
アルベルトは椅子を寄せた。
手を伸ばし、娘の手の上へ置いた。
「そうだな」
それだけだった。
怖くないと言わなかった。
誇りに思うとも、国のためだとも言わなかった。
リシェルは唇を結び、目元を押さえた。
「今、どなたか入ってきたら、追い出してくださいな」
「ああ」
「お母様でも」
「それは、難しいかもしれない」
リシェルは泣きながら笑った。
父の手は、思っていたより温かかった。
*
夜、トーマとカイルは衣装庫へ荷物を預けた。
出発用の上着。
替えの靴。
小さな裁縫袋。
まだ中身の少ない鞄。
倉庫番は二人の名前を札へ書き、同じ棚の左右へ分けて置いた。
東と、西。
札には、方角が記されていた。
カイルが自分の鞄を見た。
「軽いな」
「まだ食料が入ってない」
「そういう意味じゃなくて」
トーマはうなずいた。
持っていけるものは、思っていたより少なかった。
部屋へ戻る途中、リシェルの扉の下に灯りが見えた。
カイルが足を止める。
トーマも止まった。
中から、マルタの声がした。
「こちらの馬は、お部屋へ残しますか」
「寝所へ。台の上に置いてくださいな」
「かしこまりました」
「それから、本も」
二人は顔を見合わせた。
カイルが扉を軽く叩いた。
「何ですの?」
「本、勝手に最後まで読むなよ」
間があった。
「あなたこそ。先に読んだら、最初から読み直させますわ」
「長いぞ」
「知っています」
トーマが扉へ向かって言った。
「明日、朝食に来る」
「遅れないで」
「うん」
二人は歩きだした。
背後で、部屋の扉が少しだけ開いた。
リシェルが顔を出した。
「二人とも」
振り返る。
彼女は何か言いかけた。
やがて、小さく顎を上げる。
「明日は、お代わりを用意しておいて」
トーマが笑った。
「分かった」
扉が閉まった。
明日が、儀式前の最後の朝だった。




