訓練
第五話 足りないものの名前
朝の鐘が鳴る前に、二人はオルドの執務室へ入った。
窓の外はまだ青かった。
卓には地図と帳簿、紐で綴じた報告書が積まれている。ナギはすでに席につき、紙の角を揃えていた。
オルドが二人の報告を受け取る。
トーマの紙は一枚。カイルの紙は三枚あった。
「書いた量は、評価いたしません」
「まだ何も言ってません」
カイルが答えた。
老人は椅子を示す。
「まず、何を求めているか確認しましょう」
トーマが息を吸った。
「リシェルが、少しでも長く生きられるようにしたい」
「目覚めさせたい、ではなく?」
言葉に詰まった。
そうしたいに決まっていた。けれどナギから聞いた話を、都合よく変えるわけにはいかなかった。
「今、できる方法があるなら聞きたい。でも、分かっている方法で時間を増やせるなら、まずそれを」
オルドはうなずいた。
「では、その目的についてお話しします」
地図を開いた。
中央の王国と四つの王国が描かれていた。外側の境界は滑らかな円ではなく、山や古い要に沿って歪んでいる。
北には天使の軍の記号。南には悪魔の勢力の印。結界の東西を回り込むように、何本もの矢印が引かれていた。
「この矢印が、今の軍?」
カイルが尋ねる。
「いえ。確認済みのものと、過去の進軍路です。今どこにいるか、すべてが分かるわけではありません」
老人はまず、その区別をした。
*
「五つの国は、別の国です」
オルドが言った。
「王家が中央を支えているからといって、すべての人員と財を自由にできるわけではない」
北の術師、東の技師、西の守備隊、南の治療院。それぞれが、結界を維持する仕事を持つ。
四方が止まれば、その不足は中央へ集まる。
「今も、誰かが働いているんだな」
トーマの問いに、ナギが答えた。
「はい。皆さんの代わりに空席を埋めるのではありません。その人たちだけでは足りない分を、どう補うかという話です」
東の要の報告書が置かれた。
設備の損耗。交換部品の遅れ。接続できる守護系統の力を持つ担い手の不足。
トーマは文字を追った。
「俺の力を使えるのか」
「可能性があります。装置を介して、守護の働きを結界へ伝える試験をする。ただし、接続に耐えられるかは現地で確かめる必要がある」
「直接、結界を守れば」
「あなたは今、人や物へ力を残せますか」
トーマは首を振った。
自分が前に立つことしかできない。それが答えだった。
オルドは紙を裏返さず、彼の前へ残した。
「できないことを分かっておくのも、大切です」
次に西の報告書を開く。
砦の名と町の人口、食料の必要量、守備隊の勤務表まであった。カイルは兵の人数の横に、休養が必要な者の数が書かれているのを見た。
「西には、複数の防衛点へ力を分配する設備があります。召喚した剣を一定の位置に保つあなたの力は、相性がよいかもしれない」
「戦うのにも使う?」
「当然、襲撃はあり得ます」
守る力と、敵を退ける力。同じ剣を、どちらへどれだけ回すか。
カイルは報告書をめくった。
「足りなかったら、制約を強くする」
オルドの手が、その頁を押さえた。
「それを、ここで約束しないでいただきたい」
*
古い記録が出された。
西に滞在した、別の制約の使い手についてだった。同じスキル名ではないが、条件を課して力を得る性質が似ているという。
カイルは線の引かれた箇所を読んだ。
一定の土地から離れないこと。
移動の自由を、維持する力へ変える契約だった。
「命を懸けるものもあります」
ナギが言った。
「破った瞬間、必ず死ぬわけではありません。境界の外へ出ると、まず強い精神的苦痛が生じる。短時間で戻った例はありますが、外へ留まり続けて亡くなった記録もあります」
トーマは隣を見た。
カイルはまだ紙を読んでいた。
「どれくらいなら」
「安全な時間は分かりません」
ナギが先に答えた。
「試してよいものではありません。身体が持つかどうかだけでなく、戻る判断ができなくなるほどの苦痛が記されています」
カイルは口を閉じた。
旅先の絵を机に立てていたことが、ふと頭へ戻ってきた。
崖の家と、細い橋。
まだ見たこともない土地を、一つずつ数えるような気持ちになった。
「これを選ばないと、役に立たない?」
トーマが尋ねた。
「そうは申しておりません」
オルドは記録を閉じた。
「通常の制約で何ができるかを先に確かめる。現地の管理者と守備隊の説明を聞く。その土地に暮らす人間を知る。今日の感情だけで、生涯の条件を決めてはならない」
カイルはしばらく考え、うなずいた。
「今は、決めない」
トーマも、ようやく息を吐いた。
*
話は、想像していたより細かかった。
剣を何本出せるかだけでなく、濡れた寝具をどう乾かすか、所持金を失ったとき誰へ連絡するか、相手国の役人にどう身分を示すかまで聞かれた。
「行けば働けます、では、着く前に困ります」
オルドは宿代と食費の表を出した。
トーマは、一泊の値段が季節で変わることを知らなかった。
カイルは数字を見て、城下で買った絵の値段を思い出した。
「護送はつくんですか」
「全行程に大部隊をつければ、別の場所の守りが薄くなる。定期の輸送隊や街道警備を使い、必要な同行者を選びます」
東には、設備を知る技師と道を知る者。
西には、剣を動かすカイルのそばで足を使える者。
具体的な人選は、まだ確定していなかった。
オルドは輸送の予定表へ指を置いた。
「東へ向かう部品の一部は、すでに二度遅れています。道の故障だけか、盗難も含むのか、まだ確認中です」
「護衛がいないんですか」
「います。それでも、橋の修理と車輪の修理は同時には終わりません」
カイルは、町で見た荷車を思い出した。トーマが押して動いたのは、軽い荷車一台だった。部品を満載した大きな車や、川へ落ちた橋まで同じようには扱えない。
「金があれば、早くなる?」
「早くできる仕事もあります。ですが金だけで増えない職人も、運べる数に限りのある道もあります」
机の端には、すでに却下された修理案も積まれていた。カイルは理由を一枚だけ読んだ。費用ではなく、工事中に井戸を使えなくなることが問題だった。強い力を送れば済むと思っていた場所に、水を汲む人の都合があった。
老人は西の砦の図面を広げた。
城壁の内側に、兵舎だけでなく井戸と洗濯場、粉挽き場がある。小さく書き込まれた一角には、教室とあった。
「子どもも住んでるのか」
「働く者に家族がいて、その家族も暮らしています」
カイルは教室の印から目を離せなかった。制約を結ぶ場所として考えたとき、浮かんだのは無人の塔や石の祭壇だった。ここには、朝食を作り、靴を直し、眠る人がいる。
まだ誰の顔も知らないのに、図面の見え方が変わった。
「俺が行ったら、誰の命令を聞くんです」
「防衛は守備隊長、要への接続は管理責任者。意見が割れた場合の窓口も、事前に決めます」
「王女の友人だと言って、勝手に動くなってことか」
「その通りです」
オルドは迷わず答えた。
「あなた方の身分を示す書状は用意します。しかし、それは何でも命じてよい紙ではありません」
トーマは、自分の報告の空いたところへ担当者の役職を書いた。初めて聞くことばかりだった。幼馴染のために剣を持つ覚悟と、よその国で働けるかどうかは、同じではない。
カイルも紙を引き寄せ、読める字で西の窓口を書いた。
ナギが一枚の表を寄せた。
「毎日、休んだ時間も書いてください」
「成果じゃなくて?」
「倒れて休んだ日も、結界の負担は続きます」
トーマは、その言葉を報告用の紙の端へ書いた。
自分の身体を保つことも、仕事に含まれていた。
カイルはオルドへ尋ねた。
「こんな話をしてくれるなら、行く許可は」
「まだです。私は事情を説明しています。王家の承認と、受け入れ先の同意が必要です」
老人は机の端の鐘を一度鳴らした。
隣室へ通じる扉が開いた。
*
国王アルベルトと王妃クラリスが入ってきた。
二人は立ち上がった。
王は普段の執務服だった。王冠はなく、髪の片側が少し乱れている。王妃は卓の資料を一目見てから、二人へ座るよう言った。
「オルドから聞きました。リシェルには、話していないそうね」
トーマがうなずいた。
「何も分からないまま、言えなくて」
「あの子は、止めるでしょうね」
王妃は責める調子ではなかった。
そのため、トーマはかえって答えに困った。
国王が尋ねた。
「二人とも、姫の命令で行くのではないな」
「はい」
「私の命令を求めているのか」
カイルが首を振った。
「自分で行きたいんです。ただ、勝手に行って現地の邪魔をするわけにはいかないので」
王はしばらく二人を見た。
昔、厨房で豆を拾わせた子どもたちの顔を知っている。剣を持つようになった姿も見ていた。けれど、こうして国の外へ出る相談をするのは初めてだった。
「承認するとしても、無期限の献身は求めない。適性がなければ戻ること。現地で無理な条件を突きつけられたら、相談すること」
トーマは、戻るという言葉に顔を上げた。
「成果が出なくても?」
「そうだ」
王の返事は短かった。
クラリスが続けた。
「私たちの娘のために行くからといって、帰れなくなる旅にしてはいけません」
カイルは閉じられた古い記録を見た。
王妃はその視線に気づいたが、ここでは問いたださなかった。
「準備を進めることは認めます。受け入れ先へは、こちらから連絡します。ただ、出発は継承の儀を終えてから」
リシェルが眠るところまで、そばにいられる。
その安堵が先に来たことを、トーマは恥じなかった。
カイルも、同じようにうなずいた。
*
会合のあと、王妃が二人を窓辺へ呼んだ。
「あの子が怖がっていることは、分かる?」
二人とも答えなかった。
分かると言い切ることはできない。眠るのは自分ではないからだ。
クラリスはそれ以上、答えを求めなかった。
「最近、部屋の物の場所を何度も確かめているの。捨てないで、動かさないで、と。それは聞いているでしょう」
「はい」
「あなたたちも、そこにいるものの一つになっているかもしれません」
トーマは目を伏せた。
カイルが唇を噛む。
「知らないままでよい、と私からは言えません。でも、教えれば必ずよいとも言えない。隠したことの責任まで、誰かのせいにはしないでね」
トーマが顔を上げた。
「いつか、怒られても」
途中で止まる。
目覚める保証はない。その続きを簡単には言えなかった。
クラリスは二人を見て、かすかに笑った。
「怒られたら、逃げずに聞きなさい」
王は扉のそばで待っていた。
二人が頭を下げると、彼は少し迷ってから言った。
「今朝も、あの子と食べるのか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
廊下へ出る直前、トーマが振り返った。
「陛下も、いらっしゃいませんか」
王は、すぐには返事をしなかった。
王妃が袖へ軽く触れる。
「予定を確かめよう」
答えた声は、会合のときより低かった。
*
厨房へ戻ると、料理長のバスが腕を組んでいた。
「遅い」
「すみません」
「卵はここ。鍋は温めてある」
トーマは上着を脱いだ。
カイルが横でパンを切る。机へ積まれた報告書の数字が、頭に残っていた。刃を入れる幅が狭くなり、バスに止められる。
「それじゃ食べた気がしないだろ」
「薄いほうが上品かと」
「殿下は、よく召し上がる」
トーマが笑った。
卵を割る。黄身を崩さず、火を少し弱める。
国を越えることも、命を延ばすことも、まだ実感は薄い。それでも今、焼きすぎないように気をつけることはできた。
皿へ移し、二人で運ぶ。
リシェルは窓辺で本を読んでいた。
「遅かったですわね」
「まだ時間前だよ」
「今日は早く目が覚めたんです」
カイルはいつもの椅子へ座った。
彼女は二人の顔を順に見る。
「何かありました?」
トーマの手が止まった。
「朝から歩き回ってた」
カイルが答えた。
リシェルは目を細めたが、追及しなかった。
「でしたら、たくさん食べなさい。昨日のお兄様との訓練で疲れたのではなくて?」
「それもある」
トーマは座った。
窓の外で、継承式の鐘を試す音がした。
リシェルは本を閉じ、卵へナイフを入れた。柔らかな黄身が広がる。
「合格です」
短い言葉だった。
トーマが笑うと、彼女は満足そうにパンを取った。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
エネが顔を出す。
「陛下がお越しです。お席を一つ、追加してもよろしいでしょうか」
リシェルの手が止まった。
二人の顔を見たが、トーマもカイルも何も言わなかった。
彼女は自分の皿を少し横へ寄せた。
「卵が足りませんわね」
「焼いてくる」
トーマが立った。
リシェルは、開いた扉の向こうへ向き直った。
「お父様。お茶が冷める前に、お掛けくださいな」




