仮面
第四話 仮面を脱いだあと
裏門から笛の音が聞こえた。
リシェルは本から顔を上げ、カイルは最初から笑った。
「帰ってきたな」
庭の向こうを、子どもたちが走っていく。
トーマが椅子から立ち上がると、赤い外套の男が手を振った。大きな荷袋を肩に担ぎ、腰には剣。銀色の仮面が、顔の上半分を隠している。
「おう、ちょうどよかった! 見てけ、新しいやつだ!」
ガレスだった。
人が増えるのを喜び、荷袋を地面へ下ろす。後ろから追いついたメイドが、その横で足を止めた。
濃紺の服に白い前掛け。髪をまとめたロゼッタは、手にした細い指揮棒をまだ上げなかった。
「到着のご挨拶が先ではございませんか」
「挨拶も兼ねてる」
「ここは荷車の通り道です」
「じゃあ、三歩こっち」
ガレスが移動する。
ロゼッタは軒と足元を確かめ、ニコたちを下がらせた。
「短縮いたします。前奏は最後までお聞きください」
「分かった!」
指揮棒が上がる。
彼女の足元に、小さな靴音が生まれた。
膝ほどの背丈の従者たちが並ぶ。黒い衣装と白い仮面。二人が旗竿を運び、一人がガレスの外套を整えた。その後ろには笛と太鼓と、小さな角笛を持つ楽団が現れる。
リシェルは本を閉じた。
「また人数が増えましたわね」
「前は太鼓が一人だったな」
カイルが答えた。
演奏が始まった。
よく通る音だった。小さな楽団から出ているとは思えない。旗が開き、ガレスが胸を張る。
「北より戻りし――」
「前奏中です」
彼は口を閉じた。
子どもたちが笑い、本人も仮面の下で笑った。
音楽が一拍止まる。
「道を塞ぐものがあれば、俺たちを呼べ! 帰り道まで、まとめて開ける!」
今度は合った。
外套の縁へ光が走った。ガレスの足元の砂が、風もないのに輪を描く。トーマは男の立ち姿から、先ほどとは違う力を感じ取った。
晴れ舞台。
衣装と演出と演奏によって、主役の働きを助けるロゼッタのスキルだった。
拍手が起きる。
ガレスが大きく一礼した、その後ろから声がした。
「でしたら、まず裏門を開けてくださらない?」
セラフィナが立っていた。
両手にガレスの荷物を持ち、涼しい顔で木箱を指す。
「あなたが置いたもので、馬車が通れないのだけれど」
*
木箱はトーマとガレスが運んだ。
カイルは子どもたちを退かせ、ロゼッタは演奏を終えた。従者たちは旗を畳み、最後の一人まで順に消える。
リシェルが姉を迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、リシェル」
セラフィナは妹の顔を見て、頬へ手を伸ばしかけた。途中で肩の糸屑をつまみ、取る。
「ちゃんと食べている?」
「トーマの卵が、少し上達しました」
「それはよかった」
「評価が甘いですわね」
セラフィナは笑い、妹の手元の本に気づいた。
「まだ、その船は着いていないの」
「昨日、最初から読み直しましたの」
「長い航海ね」
戻ってきたガレスは、仮面を外した。
短い髪に汗が光っている。庭師のドルンへ声を掛け、柱の事故の話を聞くと、ニコの膝を見た。
「歩けるか?」
「走れる!」
「走るのは明日にしような。今日の役目は怪我を治すことだ」
ニコが不満そうにうなずく。
ガレスは椅子の脚に片足を載せ、自分の靴底を見せた。
「俺も今日は修理だ。底が剥がれかけてる」
「英雄なのに?」
「英雄だって靴屋に行くぞ」
子どもたちが笑った。
その言い方があまりに自然だったので、リシェルも笑った。
*
増えた茶器で、卓は狭くなった。
ガレスは借りてきた椅子の脚の下へ石を敷き、腰を下ろす。
リシェルは北の話を求めた。
彼は学院の階段が多いこと、食堂の芋が大きいこと、書庫でくしゃみをして三人に睨まれたことを話した。
セラフィナはお茶を飲みながら訂正した。
「くしゃみではなく、そのあとの声です。『埃がすごいな』と」
「すごかっただろ」
「皆さん、知っているのよ」
ロゼッタが菓子を切り分けた。
小さな従者は呼ばなかった。ナイフを扱う指は早く、皿に載る大きさがきれいに揃う。
トーマが尋ねた。
「楽団、ずっと出しておけないの?」
「出しておけば、私が疲れます。それに衣装直しの細かな判断までは任せられません」
「ガレスの破ったところとか?」
「はい。毎回、破り方が違いますので」
ガレスは自分の袖を見た。
新しい糸で繕った箇所があった。
「次は気をつける」
「前回も承りました」
セラフィナは荷物から、細長い箱を取り出した。
中には銀色の縁を持つ仮面と、ガレスの予備が並んでいた。一つはガレスのものより細く、額に小さな石がはめ込まれている。
「お姉様も?」
「試作品よ。向こうの工房で作っていただいたの」
リシェルが持ち上げる。内側には柔らかな布が貼られていた。飾りに見えた線は、細かく枝分かれしながら耳の近くまで伸びている。
「重くありません?」
「長くつけると、少し。だから私の分は削ってもらったわ」
ガレスが横から説明した。
「最初は俺も同じ大きさで作ってもらったら、鼻に当たってな。直してくれた職人が、戦う前に採寸しろって怒るんだ」
「もっともですわね」
リシェルは姉へ仮面を返した。セラフィナが顔へ当てると、ガレスが背筋を伸ばし、先ほどの名乗りの続きをやろうとした。
ロゼッタは指揮棒を出さなかった。
「食卓での演出はいたしません。前回、砂糖が飛びました」
リシェルは笑いながら、姉の仮面の留め紐を見た。昨日買った長い靴紐を思い出し、ガレスへ袋を渡す。
「こちらは壊れる前に替えておきなさい」
「お、丈夫そうだな。ありがとう!」
彼はすぐに片足を上げようとし、セラフィナに止められた。
ロゼッタが袋を預かり、帰室後に取り替えると言った。
ロゼッタは結び方まで確かめてから、袋を衣装箱の隅へ収めた。替えの手袋と留め金も、同じ場所に揃っている。トーマは、格好のよい登場の前に、これだけの支度があるのだと初めて気づいた。
ガレスは苦笑して茶器へ手を戻す。その袖の下から、手首を支える包帯が少し見えた。
トーマが目を留める前に、布はまた袖へ隠れた。
リシェルが本を抱え直したところで、ナギが廊下から現れた。
午後の計測の時間だった。
セラフィナが立ち上がろうとしたが、リシェルは手で止めた。
「いつもの確認です。お姉様は休んでいて」
「でも」
「わたくしが戻るまでに、お菓子を食べ尽くさないでくださいな」
ガレスが胸を叩いた。
「任せろ。守っとく」
「あなたが一番心配です」
リシェルはナギと去った。
足音が聞こえなくなるまで、セラフィナは庭の入口を見ていた。
*
訓練場で、ベルクは割れた木剣を点検していた。
ガレスが二本を借りると言うと、顔も上げずに答えた。
「壊すなよ」
「前のは俺じゃない」
「お前が教えた奴だ」
トーマが目を逸らし、ガレスが笑った。
土に線を引き、木剣を一本渡す。
「まず、俺をここから押し出してみろ。スキルはなし」
トーマが打ち込む。
剣は横へ流れた。足を踏み直す前に、肩へ木剣が触れる。
「一回。もう一度」
二度目は足を止めずに進んだ。
ガレスが下がる。追う。剣がぶつかると、手首が外へ開いた。
「今の、どうやった?」
「お前が押してくれるから、少し借りた」
ガレスは構えを解き、ゆっくり動きを繰り返した。剣の角度、肘、半歩ずらす足。派手なところはなかった。
カイルも覗き込み、同じ動きを試した。
「これ、剣を浮かせてても使えるかな」
「できるなら使える。でも最初は手でやれ。何をしてるのか、腕で覚えたほうが早い」
二人は順に打ち込んだ。
ガレスはよくしゃべり、うまくいけばその場で褒めた。トーマが下がる足を間違えると、笑うより先に止めた。
「守る相手を後ろに置くんだろ。その足だと、相手の道まで塞ぐ」
彼は地面へ小石を置き、避難する人に見立てた。
カイルが横から攻める。トーマは受け流して道を空けたつもりだったが、小石を踏んだ。
「もう一回」
トーマが自分から言った。
カイルも構えた。
木陰で見ていたセラフィナが、やがて口を開いた。
「ガレス。今日は十分よ」
「あと一つだけ。剣じゃなくて、これを」
ガレスが掌を上へ向けた。
短い言葉を唱える。
砂がひと筋浮き、風が木剣の先を撫でた。次の瞬間、外套が後ろから跳ね上がり、頭へかぶさった。
カイルがしゃがみ込んだ。
トーマも笑いを堪えきれなかった。
「今のは違う!」
布の中から声がする。
ロゼッタが外套を外しながら言った。
「留め具を確かめてからと、申し上げました」
「次はそうする」
ガレスは少しも気落ちしていなかった。
「北の学院で教わったんだ。ルカっていう生徒。十六だって。剣に沿わせるのがうまくてな」
「年下に習ったのか」
カイルが尋ねる。
「できないからな、俺。できる人に聞くのが早いだろ」
ベルクが武具庫から顔を出した。
「そいつは最初に手首を返す。お前は最後まで上を向けてる」
「あ、そうなの? 見てくれる?」
「今日はもうやめろ。明日なら」
「助かる!」
ガレスは返した木剣をきちんと拭いた。笑いながら立ち上がり、右足へ体重を移すと、一瞬だけ眉を寄せた。
トーマはその顔を見た。
*
治療室で、ガレスは腰掛けて靴を脱いだ。
膝から脛へ、青黒い痣が広がっていた。
トーマとカイルは扉のそばで足を止める。
「それで、さっき」
「動く分には平気なんだ。座ってると固まる」
ガレスは笑ったが、医師のメルダは笑わなかった。
「平気なら、触りますよ」
「それは、ゆっくり頼む」
指で押されると、彼は天井を見た。
セラフィナが状況を説明する。帰路の国境近くで、崩れた砦から獣が出た。外の力の影響で大きく変わった個体で、最初の突進をガレスが受けた。
「食い縛りを使ったんだな」
カイルが言う。
ガレスはうなずいた。
「一発目は死なない。便利だろ。二発目は普通だから、逃げる道を作る必要はあるけどな」
「その説明で終えないで」
セラフィナの声が硬くなった。
「戦闘が終わってから、立てなくなったでしょう」
トーマは痣を見た。
致命的な傷を消すのではない。最初の一撃で死ぬはずだった分が、戦闘のあとに返ってくる。ガレスから昔聞いた言葉が、初めて目の前の身体と結びついた。
メルダが包帯を用意した。
「次に同じことをしたら、同じ程度で済むとは限りません」
「分かってる」
今度の返事は静かだった。
セラフィナの手が、膝の上で握られている。
ロゼッタは治療のための台を寄せ、濡れた布を取った。楽団はいなかった。部屋には包帯をほどく音だけがした。
*
廊下へ出ると、トーマはセラフィナへ尋ねた。
「姉さんの力でも、傷は」
「治せないわ」
彼女は先に答えた。
「他力本願は、私の力を相手へ注ぐもの。受け取った人の働きは強くなる。でも、起きてしまったことは変えられない」
カイルが壁に背をつけた。
「自分へは使えないんだよな」
「ええ」
セラフィナは自分の掌を見た。
「流す先が必要なの。中央の要は、自分の中に力を保ち、流れを支える人が必要でしょう。私には、それができない」
リシェルの代わりになれない理由だった。
言葉にしたあと、彼女は掌を閉じた。
「だから北で、できることをする。ガレスに注いで、小さな結界を保つ練習をしているわ。まだ長くは続かないけれど」
「俺たちも、話を聞こうと思ってる」
トーマが言った。
セラフィナは二人を見た。
「何の話?」
「要のこと。あいつの負担を減らす方法」
彼女はしばらく黙った。
「リシェルには?」
カイルが首を振る。
セラフィナは眉を寄せたが、ここでは叱らなかった。
「まず、聞いてから決めなさい。あの子のためと言えば、何でも許されるわけではないから」
治療室の扉が開いた。
ガレスが靴を片手に出てくる。
「お、まだいた。さっきの足の運び、もう少し話していい?」
「休みなさい」
「座って話すよ。何もしないで寝てると、話したいこと増えるんだ」
セラフィナは呆れて、椅子を示した。
*
夕方、リシェルがガレスを見舞った。
足を台に載せた姿を見て、腰へ手を当てる。
「わたくしのいないところで、何をなさいましたの」
「北で作った痣を、診てもらっただけ。ちゃんと叱られた」
「自慢になりませんわ」
彼女は見舞いの皿を卓へ置いた。
甘い菓子が二つ。昼間、ガレスが守っておくと言ったものだった。
「食べなかったんですのね」
「守るって言ったろ」
ガレスが笑った。
リシェルは一つ取り、隣へ座った。姉も、ロゼッタもその場にいる。トーマとカイルは、練習で疲れた腕を揉んでいた。
ガレスは明日習う魔法の話をした。
リシェルは、外套を脱いでから行うよう念を押した。全員が同じことを考えていたので、また笑いになった。
窓の外が暗くなるまで、誰も席を立たなかった。
明朝、トーマとカイルはオルドに会う。
リシェルはまだ、その予定を知らなかった。




