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地図

第三話 姫君の買い物


「お支払いは、こちらでよろしいでしょうか」


 門番が差し出した紙には、花鉢二つの値段が書かれていた。

 リシェルは紙を見て、相手の顔を見た。


「二つ?」

「先日の飾り柱の件です。ニコが、殿下が買ってくださると」

「ええ、申し上げましたわね」

「高いほうも含めてよいか、親方が確認をと」


 カイルが後ろで笑った。

 リシェルは振り返らずに言った。


「笑っていないで、お財布を」

「俺の?」

「あなたが持っている、わたくしのです」


 革袋を受け取り、必要な硬貨を出す。門番が数える間、トーマは開いた門の先を見ていた。

 城下へ出るのは久しぶりではない。それでも今日は、門がいつもより高く感じられた。

 継承まで、あと五日。

 朝、オルドから返事が来た。話を聞く時間は二日後の早朝。それまで二人には、使える力と経験を紙にまとめておくよう求められている。

 リシェルには、訓練の報告だと答えた。

 間違いではない。正確でもなかった。


「置いていきますわよ」


 姫が先に歩きだした。

 今日の外出は、許可された二時間だけだった。マルタが戻る時刻を何度も念押しし、護衛のベルクが少し離れてついている。

 リシェルは外套の留め具を直した。


「あまり大げさにしないでくださいな。買い物ですから」

「殿下が目立たない努力をしてくだされば」


 ベルクが答えた。

 リシェルは聞こえなかったふりをした。


     *


 通りには継承を祝う白い旗が増えていた。

 肉屋の入口には姫の横顔を模した木札があり、向かいの店では記念の菓子を売っている。似ているものも、似ていないものもあった。

 カイルが菓子の型を見て言った。


「こっちはおとなしく見えるな」

「食べてしまえば、どちらも同じです」


 香辛料の店の前で、リシェルは足を止めた。

 小袋を二つ取り、匂いを確かめる。眠る前に気に入った茶を揃えるのだと、トーマは聞いていた。

 けれど購入したのは、マルタの喉に良いと言われている薬草だった。


「最近、お説教が長いですもの」

「それを飲ませたら、もっと長くなるぞ」


 カイルが言うと、リシェルは袋を戻しかけた。

 店主が笑ったので、結局買った。

 支払いの最中、路地から小さな荷車が出てきた。車輪が溝に落ち、積んだ紙包みが崩れかける。

 トーマが押さえた。


「ありがとう!」


 引いていた少年は、額の汗を袖で拭いた。

 細い身体に、肩掛け鞄だけが大きい。荷札が何枚もぶら下がっている。


「どこまで?」

「角の焼き物屋。押してもらっていいですか」


 トーマが手を添えると、少年は迷わず引いた。

 石畳へ戻ったところで、カイルが荷札の一枚を拾う。


「落とした」

「あ、それ大事なやつ。助かります。受け取りの印がないと、帰っても終わりにならないんで」


 少年は笑い、荷車を引いていった。

 リシェルが眉を上げる。


「お礼は上手ですわね」

「仕事を頼むのもな」


 トーマは手についた粉を払った。荷車の荷は皿と紙だった。強い腕より、包み方のほうが大事な荷物もある。


     *


 パン屋の前には列ができていた。

 エダの店だった。三人は子どものころ、窓に並ぶ蜜パンを眺めてよく立ち止まった。今も看板の隅に、古い鳥の絵が残っている。

 リシェルが扉の前へ進むと、列に並んでいた人たちが気づいた。

 道が開く。

 彼女はそのまま中へ入ろうとし、後ろで子どもの声がした。


「お母さん、また後?」


 若い母親が、慌てて子の口元へ手を当てた。

 リシェルが振り返る。

 店主のエダも窓口へ出てきた。


「殿下。すみません、今日は粉の到着が遅れて、焼き上がりが」

「蜜パンを三つ。いつものもので結構です」


 エダは一瞬、棚を見た。

 残りは四つだった。

 リシェルもその数を見た。列の先頭の女性が、手に持つ硬貨を握り直した。

 トーマが口を開きかけた。

 その前に、リシェルが尋ねた。


「次は、いつ焼けますの」

「半刻ほどで」


 彼女は振り返り、列の最後を見た。

 自分のために開いた通路が、まだ残っている。


「……並びます」


 エダが驚いた。


「よろしいのですか」

「よいかどうか、わたくしが決めることではありませんでしたわね」


 リシェルは母親へ向いた。


「先に入ってしまいました。失礼しました」


 母親が、何度も頭を下げた。

 リシェルは居心地悪そうに外套を直し、列の後ろへ歩いた。

 カイルがついてくる。


「別の店でもよかったんじゃないか」

「ここのパンを食べたいんです」

「じゃあ、待つか」


 トーマがうなずいた。

 ベルクは道の向こうで、何も言わず壁に寄りかかった。

 列は少しずつ進んだ。リシェルは最初のうち背筋を伸ばしていたが、しばらくすると片方の足へ体重を移した。


「普段から、こんなに?」

「継承のお祝いが近いので。家族に食べさせたいって人が多くてね」


 前に並ぶ老人が答えた。

 リシェルは一度、口を閉じた。


「そうですの」


 老人は、孫が四人来るのだと話した。普段は東で働く息子が、祝日の休みに帰省するらしい。

 姫が眠る日を楽しみにしている言葉を、トーマはどう聞けばいいのか分からなかった。

 リシェルは、孫はいくつなのかと尋ねた。

 老人は指を折って、一人ずつ答えた。


     *


 焼きたての蜜パンを買えたのは、予定より随分遅くなってからだった。

 エダが店の脇の小さな卓を貸した。立派な椅子はなく、木箱に布を掛けて座る。

 リシェルは不安そうに箱を押した。


「壊れませんわね」

「粉袋三つ載せてる箱です。大丈夫」


 エダが答えた。

 パンを割ると、湯気が上がった。

 トーマは指を少し火傷し、リシェルから呆れられた。


「昨日、柱を受け止めていた方とは思えません」

「今はパンを守る必要ないから」

「自分の指を守れよ」


 カイルが笑った。

 リシェルのパンから蜜が垂れたので、トーマは紙を差し出した。彼女は当然のように受け取る。

 エダは夫へ窯を任せ、一度だけ卓へ来た。


「今日は、ごめんなさいね」

「あなたが謝ることではありません」

「焼き上がりが遅れて」

「粉が来なかったのでしょう。何かありましたの?」


 エダは少し声を落とした。

 南から来る街道で、車軸を折った荷車が道を塞いだ。運び手が足りず、城向けの荷を先に回したという。

 リシェルは手元の薬草の袋を見た。


「城は、先に届いたのね」

「まあ、大事な支度ですから」


 エダは笑った。皮肉ではなかった。

 そのことが、リシェルには少し難しかった。


「お祝い用に、小さいパンも作ってるんです。子どもに配る分。殿下のお名前をつけていいか、申請してあって」

「どんな名前ですの」

「リシェル様の夢、と」


 カイルが顔を伏せた。

 リシェルは彼を睨み、それからエダへ戻った。


「夢は食べられませんわ。蜜パンで十分です」

「では、王女様の蜜パン」

「それも長い」


 結局、名前は決まらなかった。

 追加で六つ買った。マルタ、エネ、台所への分だった。エダは包みの一つへ、割れて売れない焼き菓子を入れた。


「これはおまけ。三人でどうぞ」


 リシェルは包みを受け取り、今度は自分から礼を言った。


     *


 パン屋を出たあと、三人は小さな水路を渡った。

 橋の脇で、女が革靴の修理をしていた。足元には子ども用の靴が二足あり、片方だけ色が違う。針を引く手を止めず、彼女は通る人へ品物を示した。


「踵の張り直し、今日中に返すよ」


 リシェルの足が止まった。橋の欄干に掛けた敷物には、見慣れない鳥の模様があった。


「その鳥、どちらのものですの?」

「西の、ロカ川の上流。今は地図に村の名前も残ってないけどね」


 女は顔を上げ、王女だと気づいて立とうとした。リシェルが手で止める。


「座っていてくださいな。針が危ないわ」

「失礼しました。この敷物も売り物です。よければ」


 女は値段を告げた。リシェルが財布へ手を伸ばしたところで、敷物の端を、小さな子どもがつかんだ。

 店の裏で眠っていたらしい。目を擦り、何も言わずに布を握っている。

 女が困ったように笑った。


「まだ、これがないと寝つかなくて」


 リシェルは財布から手を離した。


「では、靴紐を。丈夫なものを見せてください」


 机には何種類もの紐が並んでいた。女は編み方と長さを説明する。トーマが自分の靴を見下ろした。右の紐が、何度も結び直したせいで擦れていた。


「これにしようかな」

「そっちなら、雨に濡れたあと乾かしやすいよ」


 リシェルは彼の分と、ガレスに渡す少し長いものを買った。北から戻ったら、また靴を壊している気がした。

 カイルは代金を渡しながら、女へ川のことを尋ねた。どれくらい広いのか。冬も渡れるのか。女は二本の橋があったと話し、途中で一本に言い直した。

 もう一本は、逃げるときに落ちたのだという。


「こっちへ来て長いんですか」

「七年。下の子は、こっちの生まれ」


 布をつかむ子どもは、話の途中でまた座り込んでいた。

 別れ際、リシェルは次の市にも来るのかと尋ねた。


「ええ。雨がひどくなければ」

「お仕事の場所を変えるときは、パン屋へ伝えておいてくださいな。探すのに困りますから」


 自分が次に来られるか、口にしてから気づいた。

 トーマが、買った靴紐を自分の袋へ入れた。


「俺たちも場所を覚えたよ」


 リシェルはうなずき、橋を渡った。

 残り時間は少なかったが、リシェルは文具屋へ寄ると言った。

 トーマが荷物を持ち直す。その隙に、カイルは隣の露店で足を止めた。

 古い地図と旅の見聞録が並んでいた。

 西の峡谷を描いた小さな絵に、目が留まる。崖に沿って家が並び、その下を細い橋が渡っていた。


「行ったことは?」


 店主が尋ねた。


「ない」

「橋を渡るときは、下を見ないほうがいい。絵では分からんが、ずっと深い」


 カイルは絵を持ち上げた。

 子どものころなら、行きたいとすぐ言っただろう。西の古い砦も、東の動く水車も、南の大きな湯治場も。三人で場所を選び、順番を決め、翌日には違う順番にした。

 実際に行ったのは、城から半日の丘までだった。

 それでも楽しかった。


「買わないの?」


 トーマが来ていた。

 カイルは値段を確かめ、銅貨を出した。


「買うよ」


 絵を折らずに鞄へ収める。

 リシェルが文具屋から出てきた。


「何を買いましたの」

「絵」

「また地図のようなもの?」

「似てる」


 彼女はそれ以上聞かなかった。

 代わりに小さな紙包みを、二人へ一つずつ渡した。

 中には新しいペン先が入っていた。


「カイルの字は、道具が悪いせいかもしれませんもの」

「俺の字、読めるだろ」

「努力すれば。トーマは、すぐ先を曲げるから」


 トーマは包みを持ったまま、言葉を探した。

 部屋で書きかけている能力の報告を思い出す。彼女の知らない相談に、このペンを使うのかもしれない。


「ありがとう」


 ようやく言うと、リシェルは満足そうにうなずいた。


「お礼は、読める字で結構です」


     *


 城門へ戻ったのは、約束より少し遅い時刻だった。

 マルタが待っていた。

 リシェルは、最初にパンの袋を差し出した。


「お土産です」

「ありがとうございます。お時間は?」

「パンの焼き上がりが」

「お時間は」


 トーマが口を開きかけた。自分が荷車を手伝ったからだと言おうとした。

 リシェルは彼を見ずに答えた。


「わたくしが待つと決めました。遅くなって、ごめんなさい」


 マルタは彼女を見た。

 それから袋を受け取り、次の検査までに着替えるよう告げた。

 廊下へ入ると、リシェルがトーマの袖を引いた。


「何でも自分のせいにしなくて結構ですわ」

「まだ何も言ってない」

「言う顔でした」


 トーマは返せなかった。

 彼女は二人に荷物を頼み、マルタと歩いていった。

 カイルが肩をすくめる。


「顔に出るんだよ、お前」

「お前も出てたよ。ペン、もらったとき」


 カイルは鞄の紐を握り直した。


     *


 夕刻、リシェルは一枚の紙をモーリスへ渡した。

 城へ届く物資のうち、祝宴用の余分な菓子と飾りについて、市場向けの輸送を妨げないようにしてほしいと書いてあった。

 命令にする前に、担当者へ確認すること。必要な医療用品や結界の部品は遅らせないこと。その二行は、ベルクに話を聞いてから付け足した。

 モーリスは紙を読み、顔を上げた。


「すべてを止める、ということではありませんね」

「お祝いを楽しみにしている方がいましたから」


 リシェルは窓の外を見た。

 老人と、四人の孫のことを考えていた。


「わたくしが気に入らないというだけで、パンを取り上げる必要はありませんわ」


 モーリスは一礼した。

 その夜、トーマは能力の報告を書いた。

 守護。対象を決めたときに働く。剣と槍を召喚できる。身体は強くなるが、どこまで耐えられるかは分からない。

 最後の一行で止まった。

 何でも守れる、と書くことはできなかった。

 今日の荷車も、並ぶ人の順番も、守護だけではどうにもならなかった。

 隣の部屋で、カイルも紙へ向かっていた。

 制約を一つずつ書き出し、途中で手を止める。鞄から西の峡谷の絵を取り出し、机の端へ立てた。

 二人がもらったペン先は、まだ新しかった。

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