↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/25

足りない

第二話 眠る人の部屋


 翌朝の卵は、焦げていなかった。

 リシェルはナイフを入れ、流れた黄身をしばらく見た。それから一口食べ、もう一口食べた。

 トーマは向かいから、そのたびに顔を上げた。


「見られると食べにくいですわ」

「いや、どうかなって」

「昨日、注文は申し上げました」

「それには合ってる?」


 彼女はパンをちぎった。


「明日も同じで結構です」


 カイルが笑い、トーマも少しだけ笑った。

 食後、マルタが上着を持ってきた。墓所は冷えると言って、リシェルの袖口を確かめる。

 昨日まで机に置かれていた儀式の予定表は、今日は伏せられていた。


     *


 地下へ続く石段の前で、老官僚のオルドが待っていた。

 その隣に、灰色の衣を着た若者が立っている。髪を後ろでまとめ、薄い書類鞄を抱えていた。


「南より参りました、ナギと申します。本日はご案内いたします」


 短い礼だった。

 リシェルは、彼の指に残る黒い染みを見た。


「墨?」

「記録を書き写していました。洗ったのですが」

「明日には落ちますわね」

「明日の分を書かなければ」


 カイルが小さく笑った。

 ナギは何か間違えたかと考える顔をしたが、聞き返さなかった。

 石段を下り、壁へ手を当てる。光が溝を伝うと、奥で軸の軋む音がした。


「壊れていません?」

「明日、職人が来ます」

「わたくしが通る前に来てほしかったですわね」

「ごもっともです」


 厚い扉が内側へ開いた。

 トーマは土や黴の匂いを想像していた。実際には、洗った布と薄い薬草の匂いがした。壁に埋め込まれた白い石が、廊下を明るく照らしている。

 入口には靴底を拭く布があった。

 三人が順に踏む間、オルドは杖の先も拭いた。その動きに慣れがあることを、トーマは初めて知った。


     *


 両側に石の扉が並んでいた。

 扉には名前と二つの日付が刻まれている。継承した日と、息を引き取った日。短いものは七年に届かず、長いものでも十数年だった。

 リシェルが一つの名前を見つめた。


「この方、肖像画ではいつも本を持っていますわね」

「歴史書の編纂に携わられました」


 オルドが答える。

 ナギは、嫌っていたそうです、と付け加えた。


「何をです」

「肖像画のために座ることです。腕が痛いので本を台へ置いてほしいと、日誌にありました」

「画家は?」


 カイルが聞いた。


「威厳が失われると」

「ろくでもない画家ですわ」


 リシェルが言うと、トーマは少し笑った。

 名前の列が、今だけ人の顔に近づいた気がした。

 廊下の奥で水を絞る音がする。

 白髪の女性が桶の前に座っていた。膝に布を載せ、別の布を両手で広げている。

 一行に気づき、立とうとした。


「そのままで結構」


 リシェルが先に言った。


「膝を痛めていらっしゃるの?」

「朝のうちは、少々。イネスと申します。こちらの世話をしております」


 壁の棚には櫛と爪を整える道具、畳まれた布、薬の瓶があった。新しいものと、長く使われているものが混じっている。

 リシェルの視線が櫛で止まった。


「眠っていても、髪は伸びますのね」

「はい。お爪も。お声を掛けてから整えております」


 彼女は棚から目を離し、イネスの手元を見た。

 布は柔らかそうだった。

 ここを墓場と呼ぶ声を、トーマはこれまで何度も聞いていた。けれど、誰かの身体を拭く布が毎日洗われていることは、一度も考えたことがなかった。


     *


 祭壇の間は、廊下より暖かかった。

 床の溝を金色の光が流れている。幾筋も合わさって寝台の下へ入り、また分かれて壁の向こうへ消える。

 奥の帳を、イネスが脇へ寄せた。

 女性が眠っていた。

 エルミナ。国王の姉で、リシェルの伯母だった。

 トーマが覚えているのは、城の階段にある肖像画だ。羽根のついた帽子をかぶり、少し横を向いている。その人の頬が、今はひどく痩せていた。

 毛布から出た手に、細い血管が浮いている。

 胸が静かに上下した。


「伯母様。リシェルです」


 リシェルは寝台の脇へ進んだ。

 椅子が一脚置かれていた。肘掛けの表面だけ、よく磨かれたように艶がある。


「お父様は、ここへ?」

「昨日も、日暮れまで」


 イネスが答えた。

 昨夜、国王は夕食へ来なかった。会議が長引いたと聞いていたリシェルは、肘掛けを一度撫でた。


「継承が済めば、伯母様の負担はなくなりますのね」

「中心となる負担は、殿下へ移ります」


 オルドが言った。


「それなら、少しはお身体も戻るのかしら」


 老人が言葉を選ぶ間に、ナギが答えた。


「呼吸が安定した例はあります。冷えが和らいだ記録も。ただ、目を覚まされた例は、確認できていません」


 リシェルの手が止まった。


「役目を終えても?」

「はい」


 部屋の奥で、かすかな水音がした。


「それは、知りませんでしたわ」


 オルドが頭を下げた。


「交代後の状態について、十分なご説明をしておりませんでした」


 カイルが何か言いかけた。リシェルが小さく手を上げたので、やめた。

 カイルは一歩退いた。背後の壁に、小さな棚がある。木彫りの馬と、角の丸くなった手紙の束が置かれていた。


「これは?」


 声を落としてイネスへ聞く。


「面会の方がお持ちになったものです。馬は陛下が子どものころに彫られたと」


 馬の脚は、一本だけ短かった。王が少年だったころに作り、姉へ渡したもの。その形を見ていると、城で式典の書類に署名する姿とは違う人が浮かんだ。

 カイルは触れずに手を引いた。

 イネスは棚の端の埃を布で拭いた。


「場所を変えないようにしております。お持ちになった方が、次に来たときに探されますので」


 トーマはリシェルの部屋を思い出した。昨日、鍵の場所を覚えておくよう言われたばかりだった。途中の刺繍も手紙も、本人にはそれぞれの場所がある。

 ここでも同じだった。

 オルドが、二人の立つ位置を少し空けるよう身振りで示した。イネスが伯母の枕元へ回れるよう、カイルはもう半歩下がった。

 大きなことを考えようとしていたのに、今できるのは、その通り道を塞がないことだった。

 リシェルは伯母の手へ触れた。


「お部屋、使わせていただいています。二階の、庭に面したところです」


 返事はなかった。


「窓の留め金、固かったでしょう。直しましたのよ。今は片手で開きます」


 リシェルは、伯母の爪がきれいに整えられていることに気づいた。

 それからイネスへ目を向けた。


「伯母様は、何をお好きでした?」

「梨を。少し固いものを好まれました。噛む音がするのがよいと」

「わたくしとは違いますのね」


 彼女は椅子に座った。

 トーマとカイルは、後ろに立って待った。


     *


 手前には、まだ誰も使っていない寝台があった。

 ナギが脇の蓋を開けると、銀色の輪と細い管が見えた。輪には小さな刻みがあり、今はすべて同じ方向を向いている。


「ここで流れを調整します。お身体に合う角度を、儀式までに確かめます」

「わたくしが動いたら?」

「眠られたあと、大きくお動きになることはありません」

「説明というものは、安心するように工夫なさい」


 ナギは唇を閉じた。

 リシェルは寝台の縁へ座り、布を触った。


「今のは八つ当たりです。動かないのは、あなたのせいではありませんわね」

「いいえ。言い方は考えます」


 トーマは彼女を見た。

 リシェルはもう枕を押していた。一つ目は低く、二つ目は柔らかすぎた。三つ目を少し薄くすることで話がまとまる。

 イネスは小さな帳面へ書きつけた。

 枕の高さ。布の種類。室温。

 カイルが脇の台へ手を置く。


「ここ、本を置いてもいい?」

「お世話の邪魔にならなければ」

「椅子も」

「お持ちできます」


 リシェルが顔を上げた。


「狭くしないでくださいな」

「座って読めって言うと思ったから」

「まだ言っていません」

「言うだろ」


 彼女は否定しなかった。

 オルドが日程を説明し、リシェルは明日以降の検査の回数を確かめた。トーマには、予定のすべてが寝台へ向かって並んでいるように見えた。

 何か一つ止めれば先へ進まないのではないかと考えたが、目を上げると、奥の帳が見えた。

 伯母が今も負担を引き受けている。

 彼は、拳に入っていた力をゆっくり抜いた。


     *


 地上へ出ると、日差しが眩しかった。

 リシェルは目を細め、二人を振り返った。


「午後は庭でお茶を飲みます」

「昨日も予定変えたばかりだろ」

「今日は空いている時間です。何か問題が?」


 カイルは両手を上げた。


「本を持っていらっしゃい。砂漠を船で走る話があったでしょう」

「どこまで読んだっけ」

「それも調べておいてくださいな」


 最後に、彼女は扉を閉めるために残ったナギを呼んだ。


「あなたも。お茶は飲むでしょう」

「計測を済ませれば」

「では、済ませていらっしゃい」


 午後、四脚の椅子が並んだ。

 本はカイルの部屋で見つかった。栞はなく、余白には三人の幼い字と、歪んだ船が描かれていた。


「帆の数がおかしいから、トーマ」

「お前も描いただろ」

「俺は海だけ」

「砂漠の話ですわよ」


 ナギが覗き込む。


「この線は、砂丘でしょうか」

「そう。それ」


 カイルが即答した。

 リシェルは声を上げて笑った。自分でも驚くほど大きな声になり、咳をして誤魔化した。

 最初から読むことになった。

 船長が砂の海で方角を間違え、料理番が鍋を煮始めるところで、ナギが首をかしげた。


「水を使いすぎでは」

「冒険なんだから、気にするなよ」

「あとで困りませんか」


 次の頁で、水が足りなくなった。

 カイルが黙ったので、リシェルは満足そうに本を持ち直した。

 何頁か進んだところで、衣装合わせの迎えが来た。リシェルは続きを読みたがったが、マルタが待っていると聞いて諦めた。


「本は、わたくしの部屋へ」

「了解」

「勝手に先を読まないこと」


 トーマとカイルへ言い残し、彼女は庭を出ていった。

 ナギも片づけを手伝い、書類鞄を持ち上げた。

 そこでトーマが呼び止めた。


     *


「もっと長く、生きられる方法はないのか」


 ナギは腰を下ろした。

 カイルが庭の入口を見る。リシェルの姿はもうない。


「眠るのをやめさせたいわけじゃない。今すぐできないのは、分かった。でも十年って、そのまま決まってるのか」


 トーマの言葉は少しずつ速くなった。

 ナギは遮らず、最後まで聞いた。


「決まってはいません」


 鞄から紙を出す。

 五つの輪が描かれ、線で結ばれていた。中央の輪に王城の印、周囲に北・東・南・西の文字がある。


「十年というのは、現在の要が通常どおり働き、大きな変動がなかった場合の見込みです。必要な力が増えれば短くなる。減らせれば、その分を残せます」

「減らす方法があるんだな」


 カイルが身を乗り出した。


「あります。私も、そのために南で働きます。結界から漏れた力を回収し、浄化して戻す。新しく使う量を減らす仕事です」

「失った命も戻せる?」


 トーマが尋ねた。

 ナギは首を振った。


「戻せません。これから使う分を減らすだけです」


 紙が風で動き、カイルが端を押さえた。


「ほかの三つは」

「北は術式と防衛、東は設備と守護、西は戦力と力の供給。それぞれ不足しています。ただ、人が行けばすぐ済む話ではありません」

「誰に聞けばいい」


 カイルの問いに、ナギは初めて二人を交互に見た。


「ご自身が関わるおつもりですか」

「何ができるか、聞いてる」


 まだ、旅に出るとは言っていなかった。

 けれどトーマは、紙の東の輪を見ていた。守護という言葉が、自分の手にある力と同じだった。

 ナギは鞄を閉じた。


「管理を取りまとめているオルド様に。資料も許可も、その方を通す必要があります」

「会わせてくれ」

「殿下には」


 トーマとカイルが同時に首を振った。

 ナギの手が止まる。


「何も決まってないのに、期待させたくない」


 トーマが言った。

 カイルは机を見たまま続けた。


「あいつ、俺たちが無茶するって思ったら、話を聞く前に止める」


 ナギはしばらく黙っていた。


「隠すことが、いつも相手のためになるわけではありません」

「分かってる」

「今、分かっているだけでは足りないかもしれません」


 カイルは答えなかった。

 リシェルの怒った顔なら、簡単に思い浮かんだ。自分のことを、自分のいない場所で決めるなと言うだろう。

 それでも、何もしないとは言えなかった。

 ナギは紙を丁寧に畳んだ。


「まず、説明を受けてください。明朝までに時間を確認します」


 トーマが礼を言った。

 ナギは立ち上がり、まだ残っていた菓子を見た。

 二つのうち、一つを取る。


「これ、お借りしても?」

「食えよ。借りなくていい」


 ナギは包み紙でくるんだ。


「イネスさんに。殿下が選んだものだと伝えます」


 二人は彼の背中を見送った。

 庭の卓に残った本を、トーマが持ち上げる。窓際の部屋では、衣装を抱えた侍女が出入りしていた。

 リシェルに返さなければならない。

 東の要の話を聞きに行くとしても、まずは本を返す。それから明日の朝食を用意する。

 そういう順番を変えずに、二人は立ち上がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。