足りない
第二話 眠る人の部屋
翌朝の卵は、焦げていなかった。
リシェルはナイフを入れ、流れた黄身をしばらく見た。それから一口食べ、もう一口食べた。
トーマは向かいから、そのたびに顔を上げた。
「見られると食べにくいですわ」
「いや、どうかなって」
「昨日、注文は申し上げました」
「それには合ってる?」
彼女はパンをちぎった。
「明日も同じで結構です」
カイルが笑い、トーマも少しだけ笑った。
食後、マルタが上着を持ってきた。墓所は冷えると言って、リシェルの袖口を確かめる。
昨日まで机に置かれていた儀式の予定表は、今日は伏せられていた。
*
地下へ続く石段の前で、老官僚のオルドが待っていた。
その隣に、灰色の衣を着た若者が立っている。髪を後ろでまとめ、薄い書類鞄を抱えていた。
「南より参りました、ナギと申します。本日はご案内いたします」
短い礼だった。
リシェルは、彼の指に残る黒い染みを見た。
「墨?」
「記録を書き写していました。洗ったのですが」
「明日には落ちますわね」
「明日の分を書かなければ」
カイルが小さく笑った。
ナギは何か間違えたかと考える顔をしたが、聞き返さなかった。
石段を下り、壁へ手を当てる。光が溝を伝うと、奥で軸の軋む音がした。
「壊れていません?」
「明日、職人が来ます」
「わたくしが通る前に来てほしかったですわね」
「ごもっともです」
厚い扉が内側へ開いた。
トーマは土や黴の匂いを想像していた。実際には、洗った布と薄い薬草の匂いがした。壁に埋め込まれた白い石が、廊下を明るく照らしている。
入口には靴底を拭く布があった。
三人が順に踏む間、オルドは杖の先も拭いた。その動きに慣れがあることを、トーマは初めて知った。
*
両側に石の扉が並んでいた。
扉には名前と二つの日付が刻まれている。継承した日と、息を引き取った日。短いものは七年に届かず、長いものでも十数年だった。
リシェルが一つの名前を見つめた。
「この方、肖像画ではいつも本を持っていますわね」
「歴史書の編纂に携わられました」
オルドが答える。
ナギは、嫌っていたそうです、と付け加えた。
「何をです」
「肖像画のために座ることです。腕が痛いので本を台へ置いてほしいと、日誌にありました」
「画家は?」
カイルが聞いた。
「威厳が失われると」
「ろくでもない画家ですわ」
リシェルが言うと、トーマは少し笑った。
名前の列が、今だけ人の顔に近づいた気がした。
廊下の奥で水を絞る音がする。
白髪の女性が桶の前に座っていた。膝に布を載せ、別の布を両手で広げている。
一行に気づき、立とうとした。
「そのままで結構」
リシェルが先に言った。
「膝を痛めていらっしゃるの?」
「朝のうちは、少々。イネスと申します。こちらの世話をしております」
壁の棚には櫛と爪を整える道具、畳まれた布、薬の瓶があった。新しいものと、長く使われているものが混じっている。
リシェルの視線が櫛で止まった。
「眠っていても、髪は伸びますのね」
「はい。お爪も。お声を掛けてから整えております」
彼女は棚から目を離し、イネスの手元を見た。
布は柔らかそうだった。
ここを墓場と呼ぶ声を、トーマはこれまで何度も聞いていた。けれど、誰かの身体を拭く布が毎日洗われていることは、一度も考えたことがなかった。
*
祭壇の間は、廊下より暖かかった。
床の溝を金色の光が流れている。幾筋も合わさって寝台の下へ入り、また分かれて壁の向こうへ消える。
奥の帳を、イネスが脇へ寄せた。
女性が眠っていた。
エルミナ。国王の姉で、リシェルの伯母だった。
トーマが覚えているのは、城の階段にある肖像画だ。羽根のついた帽子をかぶり、少し横を向いている。その人の頬が、今はひどく痩せていた。
毛布から出た手に、細い血管が浮いている。
胸が静かに上下した。
「伯母様。リシェルです」
リシェルは寝台の脇へ進んだ。
椅子が一脚置かれていた。肘掛けの表面だけ、よく磨かれたように艶がある。
「お父様は、ここへ?」
「昨日も、日暮れまで」
イネスが答えた。
昨夜、国王は夕食へ来なかった。会議が長引いたと聞いていたリシェルは、肘掛けを一度撫でた。
「継承が済めば、伯母様の負担はなくなりますのね」
「中心となる負担は、殿下へ移ります」
オルドが言った。
「それなら、少しはお身体も戻るのかしら」
老人が言葉を選ぶ間に、ナギが答えた。
「呼吸が安定した例はあります。冷えが和らいだ記録も。ただ、目を覚まされた例は、確認できていません」
リシェルの手が止まった。
「役目を終えても?」
「はい」
部屋の奥で、かすかな水音がした。
「それは、知りませんでしたわ」
オルドが頭を下げた。
「交代後の状態について、十分なご説明をしておりませんでした」
カイルが何か言いかけた。リシェルが小さく手を上げたので、やめた。
カイルは一歩退いた。背後の壁に、小さな棚がある。木彫りの馬と、角の丸くなった手紙の束が置かれていた。
「これは?」
声を落としてイネスへ聞く。
「面会の方がお持ちになったものです。馬は陛下が子どものころに彫られたと」
馬の脚は、一本だけ短かった。王が少年だったころに作り、姉へ渡したもの。その形を見ていると、城で式典の書類に署名する姿とは違う人が浮かんだ。
カイルは触れずに手を引いた。
イネスは棚の端の埃を布で拭いた。
「場所を変えないようにしております。お持ちになった方が、次に来たときに探されますので」
トーマはリシェルの部屋を思い出した。昨日、鍵の場所を覚えておくよう言われたばかりだった。途中の刺繍も手紙も、本人にはそれぞれの場所がある。
ここでも同じだった。
オルドが、二人の立つ位置を少し空けるよう身振りで示した。イネスが伯母の枕元へ回れるよう、カイルはもう半歩下がった。
大きなことを考えようとしていたのに、今できるのは、その通り道を塞がないことだった。
リシェルは伯母の手へ触れた。
「お部屋、使わせていただいています。二階の、庭に面したところです」
返事はなかった。
「窓の留め金、固かったでしょう。直しましたのよ。今は片手で開きます」
リシェルは、伯母の爪がきれいに整えられていることに気づいた。
それからイネスへ目を向けた。
「伯母様は、何をお好きでした?」
「梨を。少し固いものを好まれました。噛む音がするのがよいと」
「わたくしとは違いますのね」
彼女は椅子に座った。
トーマとカイルは、後ろに立って待った。
*
手前には、まだ誰も使っていない寝台があった。
ナギが脇の蓋を開けると、銀色の輪と細い管が見えた。輪には小さな刻みがあり、今はすべて同じ方向を向いている。
「ここで流れを調整します。お身体に合う角度を、儀式までに確かめます」
「わたくしが動いたら?」
「眠られたあと、大きくお動きになることはありません」
「説明というものは、安心するように工夫なさい」
ナギは唇を閉じた。
リシェルは寝台の縁へ座り、布を触った。
「今のは八つ当たりです。動かないのは、あなたのせいではありませんわね」
「いいえ。言い方は考えます」
トーマは彼女を見た。
リシェルはもう枕を押していた。一つ目は低く、二つ目は柔らかすぎた。三つ目を少し薄くすることで話がまとまる。
イネスは小さな帳面へ書きつけた。
枕の高さ。布の種類。室温。
カイルが脇の台へ手を置く。
「ここ、本を置いてもいい?」
「お世話の邪魔にならなければ」
「椅子も」
「お持ちできます」
リシェルが顔を上げた。
「狭くしないでくださいな」
「座って読めって言うと思ったから」
「まだ言っていません」
「言うだろ」
彼女は否定しなかった。
オルドが日程を説明し、リシェルは明日以降の検査の回数を確かめた。トーマには、予定のすべてが寝台へ向かって並んでいるように見えた。
何か一つ止めれば先へ進まないのではないかと考えたが、目を上げると、奥の帳が見えた。
伯母が今も負担を引き受けている。
彼は、拳に入っていた力をゆっくり抜いた。
*
地上へ出ると、日差しが眩しかった。
リシェルは目を細め、二人を振り返った。
「午後は庭でお茶を飲みます」
「昨日も予定変えたばかりだろ」
「今日は空いている時間です。何か問題が?」
カイルは両手を上げた。
「本を持っていらっしゃい。砂漠を船で走る話があったでしょう」
「どこまで読んだっけ」
「それも調べておいてくださいな」
最後に、彼女は扉を閉めるために残ったナギを呼んだ。
「あなたも。お茶は飲むでしょう」
「計測を済ませれば」
「では、済ませていらっしゃい」
午後、四脚の椅子が並んだ。
本はカイルの部屋で見つかった。栞はなく、余白には三人の幼い字と、歪んだ船が描かれていた。
「帆の数がおかしいから、トーマ」
「お前も描いただろ」
「俺は海だけ」
「砂漠の話ですわよ」
ナギが覗き込む。
「この線は、砂丘でしょうか」
「そう。それ」
カイルが即答した。
リシェルは声を上げて笑った。自分でも驚くほど大きな声になり、咳をして誤魔化した。
最初から読むことになった。
船長が砂の海で方角を間違え、料理番が鍋を煮始めるところで、ナギが首をかしげた。
「水を使いすぎでは」
「冒険なんだから、気にするなよ」
「あとで困りませんか」
次の頁で、水が足りなくなった。
カイルが黙ったので、リシェルは満足そうに本を持ち直した。
何頁か進んだところで、衣装合わせの迎えが来た。リシェルは続きを読みたがったが、マルタが待っていると聞いて諦めた。
「本は、わたくしの部屋へ」
「了解」
「勝手に先を読まないこと」
トーマとカイルへ言い残し、彼女は庭を出ていった。
ナギも片づけを手伝い、書類鞄を持ち上げた。
そこでトーマが呼び止めた。
*
「もっと長く、生きられる方法はないのか」
ナギは腰を下ろした。
カイルが庭の入口を見る。リシェルの姿はもうない。
「眠るのをやめさせたいわけじゃない。今すぐできないのは、分かった。でも十年って、そのまま決まってるのか」
トーマの言葉は少しずつ速くなった。
ナギは遮らず、最後まで聞いた。
「決まってはいません」
鞄から紙を出す。
五つの輪が描かれ、線で結ばれていた。中央の輪に王城の印、周囲に北・東・南・西の文字がある。
「十年というのは、現在の要が通常どおり働き、大きな変動がなかった場合の見込みです。必要な力が増えれば短くなる。減らせれば、その分を残せます」
「減らす方法があるんだな」
カイルが身を乗り出した。
「あります。私も、そのために南で働きます。結界から漏れた力を回収し、浄化して戻す。新しく使う量を減らす仕事です」
「失った命も戻せる?」
トーマが尋ねた。
ナギは首を振った。
「戻せません。これから使う分を減らすだけです」
紙が風で動き、カイルが端を押さえた。
「ほかの三つは」
「北は術式と防衛、東は設備と守護、西は戦力と力の供給。それぞれ不足しています。ただ、人が行けばすぐ済む話ではありません」
「誰に聞けばいい」
カイルの問いに、ナギは初めて二人を交互に見た。
「ご自身が関わるおつもりですか」
「何ができるか、聞いてる」
まだ、旅に出るとは言っていなかった。
けれどトーマは、紙の東の輪を見ていた。守護という言葉が、自分の手にある力と同じだった。
ナギは鞄を閉じた。
「管理を取りまとめているオルド様に。資料も許可も、その方を通す必要があります」
「会わせてくれ」
「殿下には」
トーマとカイルが同時に首を振った。
ナギの手が止まる。
「何も決まってないのに、期待させたくない」
トーマが言った。
カイルは机を見たまま続けた。
「あいつ、俺たちが無茶するって思ったら、話を聞く前に止める」
ナギはしばらく黙っていた。
「隠すことが、いつも相手のためになるわけではありません」
「分かってる」
「今、分かっているだけでは足りないかもしれません」
カイルは答えなかった。
リシェルの怒った顔なら、簡単に思い浮かんだ。自分のことを、自分のいない場所で決めるなと言うだろう。
それでも、何もしないとは言えなかった。
ナギは紙を丁寧に畳んだ。
「まず、説明を受けてください。明朝までに時間を確認します」
トーマが礼を言った。
ナギは立ち上がり、まだ残っていた菓子を見た。
二つのうち、一つを取る。
「これ、お借りしても?」
「食えよ。借りなくていい」
ナギは包み紙でくるんだ。
「イネスさんに。殿下が選んだものだと伝えます」
二人は彼の背中を見送った。
庭の卓に残った本を、トーマが持ち上げる。窓際の部屋では、衣装を抱えた侍女が出入りしていた。
リシェルに返さなければならない。
東の要の話を聞きに行くとしても、まずは本を返す。それから明日の朝食を用意する。
そういう順番を変えずに、二人は立ち上がった。




