わがまま無双
第一話 七日分のわがまま
「却下ですわ」
リシェルは書類を机へ戻した。
向かいに立つ式典係のモーリスが、困ったように口を開く。
「しかし殿下、これまでの慣例に従いますと」
「わたくしが眠るのは七日後でしょう」
「左様でございます」
「でしたら、明日の昼食まで取り上げる理由はありませんわね」
書類には、継承の儀までの予定が細かく並んでいた。身を清める儀式、各国使節との面会、衣装の最終調整。その間に、薄い粥と薬湯の時間が挟まっている。
リシェルは一か所を爪で叩いた。
「それから、この自由時間というところ。十五分で、何が自由になりますの?」
窓辺のカイルが吹き出した。
咳に変えるのが遅かった。リシェルの視線を受け、彼は窓の留め金をいじるのをやめた。
「何か意見がおあり?」
「十五分なら、粥に塩を足すくらいは」
「そういう工夫を求めているのではありません」
トーマが書類を覗き込んだ。
「食事は、本当にこれじゃないと駄目なんですか。医師が決めた?」
「身体を清浄に保つため、古くから定められております」
「だから、医師が?」
「……儀礼に関する書に」
リシェルは椅子へ深く座り直した。
「確認なさい。必要なら従います。そうでなければ、昼食を返して。それと、自由時間は二時間」
「殿下」
「三時間でもよろしくてよ」
モーリスは口を閉じ、書類を受け取った。
扉が閉まると、トーマが息を吐いた。
「もう少し優しく言えないのか」
「言えば二時間いただけました?」
「それは分からないけど」
「でしたら、結果を見てからお説教なさい」
カイルは壁の地図を眺めていた。額に入った五王国の地図だ。中央の王城から、四方へ太い線が伸びている。その外側には、地名の代わりに古い街道と廃砦の印があった。
「三時間、何するんだ」
「まだ決めていません」
「暇だったのかよ」
「勝手に埋められるのが嫌なんです」
リシェルは机の書類を引き寄せた。
次の紙には、白い花と祈る少女が描かれていた。継承を祝う催しの図案だ。『清らかなる姫君の、安らかな眠りを』と金色の文字が添えられている。
「似ていませんわ」
「美化しすぎだな」
「絵のことではありません。清らか、ですって。誰に聞いたのかしら」
トーマが笑った。
リシェルは図案を裏返し、その上に別の紙を載せた。
*
朝食は、交渉の結果を待たずに運ばれてきた。
パンとスープと卵。薄い粥は明日からの予定だった。
若い侍女が皿を置いたところで、リシェルの手が止まった。
「こちらも、やり直しですわ」
侍女の肩が跳ねる。
「申し訳ございません。すぐに厨房へ」
「あなたではありません。トーマ」
「俺?」
「この焦げた端に、見覚えはなくて?」
トーマは皿を見た。白身の片側だけが茶色い。
カイルが手を伸ばして自分の皿と比べる。彼の分は、もっと焦げていた。
「選んでそれなら、ひどい出来だな」
「火が強かったんだよ」
「火を扱ったのは、どなたですの」
言い返せなかった。
リシェルは黄身へナイフを入れ、流れたところへパンを浸した。侍女はまだ盆を持って立っている。
「新しいものをお持ちしましょうか」
「必要ありません」
「ですが」
「食べていますでしょう」
侍女は三人を順に見た。王女の食卓で言い争う青年たちを、どう扱ってよいのか分からないらしい。
リシェルは顔を上げた。
「名前は?」
「エネと申します」
「エネ。次から卵への苦情は、そちらへ直接」
「出す前に言ってくれれば助かるよ」
トーマが付け足すと、エネはようやく少し笑った。
カイルが蜂蜜を取ろうとして、袖で匙を落とした。受け止める手が、床すれすれへ伸びる。
「よし」
「洗っていらっしゃい」
「床にはついてない」
「今、床に手をつきましたわよね」
カイルは立ち上がった。
エネが代わろうとするのを、リシェルが止める。
「その方、洗い場の場所はよくご存じですから」
カイルの母は城の洗濯場で長く働いていた。幼い彼が籠に潜り込み、洗いたての布を汚して追い出されるところを、トーマもリシェルも何度か見ている。
トーマの父は台所の納品係だった。二人が城へ出入りしていたころ、退屈した幼い王女が倉庫へ入り込み、三人まとめて叱られた。
最初に命じられた共同作業は、落とした豆を拾うことだった。
カイルが戻ってくると、リシェルは何食わぬ顔で彼のパンを一つ取った。
「何で減ってる」
「手間賃ですわ」
「何の」
「待って差し上げたでしょう」
*
三人が中庭へ出たのは、それから半刻ほど後だった。
リシェルは侍女頭のマルタから日傘を受け取り、そのままトーマへ渡した。
「持って」
「自分で持てるだろ」
「持てるかどうかを聞いているのではありません」
カイルが傘の下へ入ろうとして、追い出された。
庭は継承式の準備で騒がしかった。白い布を広げる者、柱を組む者、鉢植えを運ぶ者。庭師のドルンが頭を下げると、リシェルは薔薇の前に積まれた木箱を指した。
「そこへ置かないでくださいな」
「柱が立ちましたら、すぐに」
「花が日陰になりますわ」
ドルンは白髪の頭を掻き、二人へ助けを求めた。
トーマは傘を姫へ返した。箱には金属の燭台が詰まっていて、二人で抱えても重い。壁際まで一つ運ぶと、リシェルが残りを指した。
「あと三つ」
「数えられるよ」
カイルは取っ手を握った。
「この一往復、左手を使わない」
右の手首に、細い光の輪が浮いた。
箱が右手一本で持ち上がる。近くで縄を集めていた少年が、口を開けて見た。
「それ、スキル?」
「そう。制約」
「俺もできる?」
「出ればな」
「どうしたら出る?」
「俺が知りたい」
箱を置いて戻ると、カイルの手首から光が消えた。
トーマは次の箱を両手で抱えた。
「真似して片手で持つなよ」
「しないよ」
少年は少し残念そうだった。
人間の中には、生まれつきとも修練の成果とも言い切れない力を持つ者がいる。発現の時期も働きも違い、同じ家のきょうだいでも同じ力を得るとは限らなかった。
カイルは、約束どおり嫌いな料理を食べ続けた週に初めて力を使った。本人はその話を嫌っている。リシェルが知っているので、忘れられることもない。
「便利ですわね。残りも全部お願い」
「急に腕が痛くなった」
「繊細なこと」
そのとき、鋭い音が庭を横切った。
柱を支える綱が切れた。
*
白い布が風を受けて膨らんだ。
飾り柱が引かれ、足場が傾く。上の職人が横木へしがみついた。
「下がれ!」
ドルンの声より早く、トーマは走っていた。
落下する先に、さっきの少年がいる。箱に足を引っかけ、起き上がれずにいた。
トーマの手へ光が集まる。長い柄と細い穂先が形になった。
槍を柱の下へ差し入れる。
衝撃に靴が土へ沈んだ。
柄を握る腕に白い光が走り、肩へぶつかった木片が砕けた。
「動けるか!」
少年は答えなかった。
トーマは片手で襟をつかみ、自分の足元へ引き寄せた。
守る相手を定めたとき、彼の身体は人のものとは思えないほど頑丈になる。それでも重さは消えなかった。足が滑り、槍の柄が軋む。
「ドルン! この子を!」
日傘を放ったリシェルが呼ぶ。庭師が走り込み、少年を抱えて離れた。
上から職人の声がする。
「降りられない!」
カイルの周囲に三本の剣が現れた。
一本が宙を滑り、帆のように膨らんだ布を裂く。風を失った布が落ちた。残りの剣で足場の横縄を切り、彼は自分でも板の端を押した。
一段下がった作業板へ、職人が足を移す。
「隣の柱へ! まだそっちは立ってる!」
剣は手から離れていても、カイルの視線と指の動きに従った。ただ、板を押しながら三本を動かすと、一本の先が土に触れた。
トーマが歯を食いしばる。
「もう、いいか!」
「待って! 右側を空けてくださいな!」
リシェルの声に職人たちが退いた。
カイルが片手を上げる。
「いいぞ!」
トーマは槍を押し、身体ごと横へ回した。
柱が滑った。
地面が揺れ、土と木屑が跳ねた。白い布が遅れてその上へ覆いかぶさる。
槍が光になって消えた。
上に残っていた職人が、震える声で尋ねた。
「……降りてもいいか」
「今、降りてくれよ」
カイルが息を吐いた。
*
少年の膝と職人の掌には、擦り傷ができていた。
トーマの服は肩が破れていた。
リシェルは穴を見つめ、襟元を指した。
「見せなさい」
「平気だって」
「見せてから言いなさい」
皮膚には薄い赤い跡があった。彼女が押すと、トーマは少し顔をしかめた。
「痛いのでしょう」
「柱が落ちた割には、平気だよ」
式典係のモーリスが駆けてきた。
壊れた柱を見るなり顔が白くなる。
「明日の検分までに、これを……まず、お怪我は」
「診ていただきます。その次に、何ですの?」
柱には王家の紋章を掲げるはずだった。
モーリスはそれを見て、夜通し作業すれば代わりが間に合うと言った。
「必要ありません」
「ですが、正面の飾りがなくては」
「なくなさい」
リシェルは切れた綱を拾った。切断面の手前も、毛羽立っている。
「新しい綱は?」
「入荷が遅れて、倉庫のものを」
「柱を減らすという考えは?」
「先例がありませんでしたので」
「今日できましたわね」
綱を彼へ渡した。
「わたくしの名前を掲げるために、人を落とさないでくださる?」
モーリスが深く頭を下げる。
リシェルは庭師の腕の中の少年を見た。
「あなた、名前は」
「ニコです」
「ニコ。次は飾りなんて置いて逃げなさい」
「鉢が、高いやつだって」
「割れたら買います」
「でも」
「わたくしが買います。命令ですわよ」
モーリスが片づけの人数を呼びに行くと、リシェルはドルンへ作業を止める時間を尋ねた。日暮れまでと聞き、今日は延ばさないよう言った。
カイルは壊れた燭台を拾い、まだ使えるものを分けた。
「姫様が買うって言ったぞ」
「直せるものまで捨てろとは言っていません」
彼女は即座に答えた。
トーマは笑い、歪んだ箱を起こした。ニコが手を貸そうとして、ドルンに座らされた。
少年はやっと、うなずいた。
*
午後の予定はほとんど消えた。
トーマは薬を塗られ、カイルは切った縄について報告した。リシェルはマルタに叱られた。
「倒れるもののそばへ寄ってはなりません」
「声が届かなければ困るでしょう」
「殿下ご自身が避難することもできました」
「二人がいましたもの」
言ってから、リシェルは黙った。
爪の際に残る綱の汚れを見る。
「……次は気をつけます」
マルタは手洗いの水を用意した。
夕方に戻った予定表では、昼食にパンと肉が復活していた。自由時間は一時間半だった。
「負けたな」
カイルが覗き込む。
「譲ったんです。あなたとの無駄話を減らせば足りますわ」
リシェルは引き出しから小さな鍵を出した。
「これがどこにあるか、覚えておいて。書棚の下の鍵です。手紙と、途中の刺繍を入れています」
「何で?」
トーマが尋ねた。
「マルタが整理したがるの。わたくしが眠ったからといって、捨てられては困ります」
「捨てないだろ」
「枯れた花を片づけられたことがありますわ」
「枯れてたんだろ」
カイルを睨んでから、彼女は鍵を元へ戻した。
「あなたには庭を頼みます。白い薔薇を増やさせないで。ドルンは隙があると挿し木をするの」
「本人に言えよ」
「言っても増えるから頼んでいます」
カイルは笑って、見張っておくと答えた。
リシェルは机を整え始めた。読みかけの本、インク、返事を書いていない手紙。一つずつ場所を確かめるように動かす。
トーマはその手を見ていた。
「ほかには?」
「何がですの」
「頼むこと」
彼女の指が止まった。
窓の外では、ニコがドルンと一緒に水を撒いていた。廊下から夕食の支度をする匂いが入ってくる。
「明日の朝食。卵を焦がさないで」
「分かった」
「二人とも遅れないこと」
「まだ七日あるぞ」
「七回しか朝食がない、とも言えますわね」
カイルが口を閉じた。
リシェルは手紙を引き出しへ収めた。
「冷めると、おいしくありませんもの」
*
部屋を出て廊下の角を曲がると、トーマが立ち止まった。
「お前、納得してる?」
カイルは二歩先から振り返った。
「何に」
「眠ることも。そのまま、十年くらいで……」
最後まで言えなかった。
遠くで、食器を運ぶ音がした。
「納得した顔に見えたか」
「見えない」
「なら聞くなよ」
しばらく二人とも黙った。
やがてカイルが、姫の部屋のあるほうを見た。
「あいつには、まだ言うな」
「何を」
「何も思いついてないから、何も言うなってこと」
トーマはうなずいた。
明日は墓所を見に行く。知っている人に、まず聞く。それだけは決まった。
トーマは柱を支えた手を握った。ニコを引き寄せた重さが、まだ指に残っている。
隣でカイルが歩きだした。
「厨房、寄るぞ」
「何で」
「明日も焦がしたら、お前、七日間それを言われる」
トーマも歩きだした。
今日のうちに教わっておけることが、一つはあった。




