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西

第24話 西の朝食


 カイルは、卵を二つ割った。


 一つ目は皿へ入った。


 二つ目は、殻の欠片まで入った。


「お前、厨房に出入りしてたんじゃなかったのか」


 食堂の主人、ボルが言った。


「食べるほうでな」

「そういう奴は多い。殻を出せ」

「分かってる」


 指を入れると、欠片が逃げた。


 ボルは無言で半分の殻を渡した。


 カイルがそれで掬うと、簡単に取れた。


「先に教えてくれよ」

「一回やったほうが覚える」


 窓の外で、訓練の掛け声が聞こえた。


 昨夜から雨が降っている。


 砦の庭はぬかるみ、入口には泥を落とす板が並べられていた。


 カイルは鍋を見た。


「火、強くないか」

「弱めろ」

「弱めていい?」

「お前が焼いてるんだろう」


 トーマなら、もう少しうまくやる。


 そう思ったら、妙に腹が立った。


 今、東で何をしているのだろう。


 こちらが卵の殻と戦っている間に、大きな成果を出しているかもしれない。


「難しい顔で焼くと、うまくなるのか」

「考え事だ」

「卵のことを考えろ」


 ボルに言われ、カイルは慌てて鍋を持ち上げた。


     *


 朝食の席で、ミレイは皿をしばらく見ていた。


 ピノはもっと長く見ていた。


「何だよ」

「いただきます」


 ピノが言った。


「何か言え」

「いただきますって」

「味の感想を」

「まだ食べてません」


 ダリオは先に食べた。


 二度噛んで、パンを取る。


「食える」

「もう少し、何かないのか」

「腹が減ってるときに、余計な話をするな」


 カイルは自分の皿へ目を落とした。


 端が焦げ、真ん中が少し固い。


 リシェルなら、きっと鍋の扱いから説教を始める。


 そのくせ、食べ終えてから翌朝の注文をつける。


 ミレイが言った。


「明日は、火を少し弱くして」

「明日も俺なのか」

「もうやめる?」

「……やるけど」


 ピノが笑いを堪えた。


     *


 午前の訓練で、カイルは三度、地面へ転がされた。


 一度目は、槍先を剣で追った。


 二度目は、後ろへ下がりすぎた。


 三度目は、二本目の剣を出そうとしたところで、腹へ柄が入った。


「待て。今の、出すところだった」

「出るまで待つ相手なら、お願いしてみたら」


 ミレイは槍を下げなかった。


 カイルは泥のついた肘を見た。


「お前、昨日より厳しくないか」

「昨日は怪我人を運んでたでしょう」

「今日も運ばれるかもしれない」

「口が動くなら、立てる」


 見物していた兵が笑った。


 カイルは立ち上がる。


 剣を一本、手に持った。


 宙へ浮かせない。


 ミレイの眉がわずかに上がった。


「そのほうがいいかもな」


 カイルは言い、踏み込んだ。


 槍の間合いへ入る前に剣を振らない。


 穂先が来る。


 刃の腹で受け流し、前へ。


 今度は届く。


 そう思ったところで、ミレイの左手が柄を滑った。


 槍が短くなる。


 石突きが、カイルの膝裏へ掛かった。


 身体が傾いた。


 彼は倒れながら剣を手放し、空中で止めた。


 ミレイの首元へ、刃先が向く。


 同時に、彼女の穂先が喉の前へ来た。


 二人とも止まった。


「……相打ち?」


 カイルが言った。


「実戦なら、あなたは首を刺されてから剣が届く」

「厳しいな」

「でも、今のは嫌だった」


 ミレイが槍を引く。


 カイルは差し出された手を取り、立ち上がった。


「じゃあ、覚えておく」

「覚えるのは、転ぶ前の足の位置も」

「全部、反省になるな」

「生きてたらね」


     *


 昼の配達先で、ピノはしばらく扉を叩き続けた。


 返事がなかった。


 隣家の女が顔を出す。


「あの人なら、外へ出てる」

「帰りは?」

「夕方か、明日か。娘さんが来てるって聞いて、会いに行ったから」


 ピノは手紙を鞄へ戻した。


 カイルは閉じた扉を見ていた。


「娘が来てるのに、外へ?」

「砦町まで入れなかったのかもしれません。荷の検査とか、宿の都合とか」


 二人は軒下を歩いた。


 雨樋から落ちる水が、道を細く削っている。


「ここに残ると、そういう時も出られないんだな」


 ピノが足を止めた。


 カイルは歩いたまま言った。


「会いに来た奴が、あと少しのところにいる。なのに、俺は行けない」

「中へ入れるよう、頼むことは」

「できるだろうな。でも、来られない理由があるかもしれない」


 ピノは返事をしなかった。


 カイルも、答えを求めてはいなかった。


 雨が少し強くなった。


 二人は同じ軒の下へ入った。


     *


「僕は、外へ行きますよ」


 ピノが言った。


「知ってる」

「手紙も運べます。会いに来る人へ、道も教えられます」

「お前の仕事を全部、俺に使うなよ」

「全部とは言ってません」


 ピノは鞄の留め具を直した。


「でも、行けないところの話を持ってくるくらいなら、できます」

「旅の話?」

「はい」

「それ、俺が羨ましがったら?」

「羨ましがってください。僕だって、カイルさんの剣は羨ましいです」

「こんなもの、便利なばかりじゃ」

「旅も、雨に降られます」


 カイルは少年を見た。


 ピノは濡れた前髪を拭っていた。


「そういう話で、いいんだと思います。何でも、つらいところまで同じにしなくても」


 カイルは軒から落ちる水へ手を出した。


 冷たかった。


「お前、時々、妙なことを言うな」

「今のは、悪かったですか」

「いや」


 彼は手を引っ込めた。


「たぶん、助かった」


     *


 午後、ダリオに呼ばれた。


 執務室には、中央から届いた短い便りがあった。


 オルドの字だった。


 南で還流処理の改善が確認されたこと。


 北でも、小結界による限定的な保護を継続していること。


 東の試験は、まだ評価の途中であること。


 西については、結論を急がせない。


 カイルは最後の一文を二度読んだ。


「俺が、もたもたしてるって?」

「そうは書いてない」

「分かってる」


 ダリオは椅子へ座った。


「ほかが進んでいると聞くと、焦るか」

「ああ」

「それで決めるなら、俺は承認しない」

「俺のスキルだろ」

「この場所を預かるのは俺たちだ。お前一人に背負わせて、知らん顔はできん」


 カイルは便りを机へ戻した。


 窓の外で、雨が止みかけていた。


「俺は、あいつを助けたい」

「聞いている」

「眠る前に、何も言えなかった。何をしてもらったか考えると、返せるものが何もなくて」

「借りを返すつもりなら、命を値札にするな」


 カイルは顔を上げた。


 ダリオは目を逸らさなかった。


「お前の姫は、お前をここへ売ったのか」

「違う」

「なら、そこは間違えるな」


 しばらく、言葉が出なかった。


     *


 夕方、カイルは一人で外門を出た。


 許可は取った。


 遠くへは行かないと伝えた。


 砦町から伸びる道を歩く。


 雨上がりの土は柔らかく、靴へまとわりついた。低い丘の上まで行くと、砦の壁が見えた。


 町には、夕食の煙が上がっている。


 あの内側へ残る。


 まだ実感は薄かった。


 王城の庭を、もう一度歩きたい。


 トーマと顔を合わせて、どちらが先に成果を出すか言い合いたい。


 リシェルが目を覚ましたら、その場にいたい。


 願いは、一つではなかった。


 西へ残ると決めても、それらが消えてくれるわけではない。


 足音がした。


 ミレイだった。


「一人で考える時間も、監視つきか」

「戻る予定の時刻を過ぎた」

「少しだろ」

「少しだから、私だけで来た」


 彼女は隣へ立った。


 しばらく二人で砦を見た。


「嫌になったら、どうする」


 カイルが尋ねた。


「ここにいるのが?」

「ああ」

「まず、私に文句を言えば」

「毎日かもしれない」

「毎日は、ダリオと交代」

「迷惑だろ」

「今だって、訓練のたびに言ってるでしょう」


 カイルは笑った。


 笑い終えると、少し胸が痛くなった。


「嫌だと思ってても、選んでいいのかな」

「全部好きになってからでないと選べないなら、何も決められないわよ」


 ミレイは言った。


「ただ、嫌なところを知ったまま選んで。あとで誰かに騙されたことにしないように」


     *


 帰り道、二人は小さな石橋を渡った。


 川は雨で増えていた。


 カイルは橋の真ん中で足を止め、下を見た。


「これも、見納めになるかもしれないな」

「また来ればいい。まだ決まってない」

「決めるつもりだ」


 ミレイも止まった。


 カイルは川から顔を上げた。


「今日、ここで勢いで言うんじゃない。明日、ダリオに話す。範囲も、設備も、できないことも、もう一度聞く」

「……そう」


 彼女の声は、少し低かった。


「止めないのか」

「止めたい気持ちはある」

「あるんだ」

「あるわよ」


 初めて、彼女が少し怒った顔をした。


「あなたが自分で決めたら、周りは全部平気になると思わないで」

「そういうつもりじゃ」

「知ってる。でも、言っておく」


 カイルは頷いた。


 ミレイが先に歩きだす。


 彼も続いた。


     *


 その夜、カイルは二通の手紙を書いた。


 一通はトーマへ。


 西の要に着いたこと。


 ミレイに何度も転がされていること。


 卵は、自分で焼くと面倒だということ。


 契約については、まだ成立させていないと書いた。


 もう一通は、リシェルへ。


 最初の一行で止まった。


 眠っている相手へ、何から話せばいい。


 長く考え、結局、こう書いた。


『卵を焼いた。お前なら怒る出来だった』


 それを書いたら、次の言葉は出てきた。


 西の朝は早い。


 砦にも洗濯物がある。


 手紙を運ぶ少年と知り合った。


 ここへ残ることを考えている。


 帰ると言い切れなくなることも。


 許してくれ、とは書かなかった。


 怒るなら、起きてから直接言ってほしかった。


     *


 翌朝、カイルは昨日より火を弱めた。


 白身の端が固まるのを待つ。


 焦げる前に皿へ移した。


 食堂へ運ぶと、ダリオが顔を上げた。


「今日は、少しまともだな」

「食ってから言えよ」


 カイルは皿を置いた。


 椅子には座らなかった。


「飯のあと、話がある」

「契約か」

「ああ」


 ダリオはしばらく彼を見た。


「分かった。まず食え」


 カイルは座った。


 今朝の卵は、焦げていなかった。


 それを誰かに見せたくなって、彼は一瞬、いつもの窓辺を探した。

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