疵
第23話 守るための機械
最初に壊れたのは、肉屋の庇だった。
通りを歩いていたトーマの頭上で、赤い布が大きく跳ねた。続いて、布を支えていた鉄棒が壁から抜ける。
何かが庇の向こうを横切った。
人の背丈ほどもある、鉄の腕だった。
「伏せて!」
リッカの声に、トーマは反射的に身を屈めた。
腕が空を切る。
先端に取りつけられた三本の爪が、向かいの壁へ食い込んだ。石が砕け、白い粉が通りへ噴き出す。
悲鳴が上がった。
庇の下にいた肉屋の男が、腰を抜かしたまま後ずさる。その前に、籠を持った子どもが取り残されていた。
トーマの右手に槍が現れた。
走る。
鉄の腕が壁から抜けた。
振り戻される軌道へ槍を差し入れ、子どもとの間へ身体を入れる。
衝突した瞬間、足元の敷石が割れた。
腕の表面を光が走る。
槍は折れなかった。
だが、トーマの身体は靴底を滑らせながら、半歩、さらに半歩と押された。
「この子を!」
肉屋の男が這うように手を伸ばした。
子どもの服を掴み、庇の残骸の下へ引きずり込む。
トーマは槍を斜めに倒した。
爪が穂先から滑り、石畳へ突き刺さる。
その隙に、彼も横へ跳んだ。
通りの中央に、防衛機械が立っていた。
四本の脚を持つ、荷車より大きな機体だった。中央の箱型の胴には都市の紋章が刻まれ、その両側から作業用の腕が伸びている。
片方は三本爪。
もう片方には、短い杭を打ち出す筒があった。
本来は、城門を破ろうとする大型の獣を押し留める機械だと、昨日セヴランから聞いたばかりだった。
その筒が、人々の逃げる方向へ回った。
*
「オルフェ! 路地へ入れて!」
リッカが叫んだ。
オルフェはすでに走っていた。
「真っすぐ逃げないで! 店の中へ! 裏口がある店は開けて!」
菓子屋の扉を叩き、軒先で立ち尽くす女を押し込む。
トーマは槍を消し、剣を呼んだ。
機械へ踏み込む。
杭筒の根元を狙って振り下ろすと、刃が外板を裂いた。
浅い。
中の軸まで届かない。
胴の下で歯車が鳴った。
トーマは逃げる人々を守る対象として捉え、筒の前へ肩を入れた。
発射音は、鐘を近くで殴ったようだった。
短い鉄杭が胸へぶつかった。
白い光が弾けた。
息が止まる。
トーマの身体が後ろへ飛び、菓子屋の階段へ背中から叩きつけられた。
「トーマ!」
リッカの声が遠い。
倒れたまま、彼は胸へ手を当てた。
服は裂けていた。
杭は刺さっていない。
それでも、肺が縮んだように息が吸えなかった。
膝を立てる。
視界の端で、鉄の脚が動いた。
「……来る」
声にならなかった。
トーマは剣を地面へ突き、無理やり身体を起こした。
次の一歩で、機械が菓子屋の入口へ近づく。
子どもの泣く声が、扉の向こうから聞こえた。
*
リッカが投げた工具が、機械の側面へ当たった。
甲高い音がした。
胴が彼女のほうへ向く。
「こっち!」
リッカは露店の台を蹴り倒し、その向こうへ滑り込んだ。
三本爪が台を砕く。
木片が跳ねた。
彼女の頬へ赤い線が走った。
トーマが踏み込んだ。
今度は腕を受けなかった。
地面へ下りた爪の関節へ剣を差し込み、身体ごと捻る。
歯車が軋んだ。
「リッカ、逃げろ!」
「抜かないで! そのまま噛ませて!」
彼女は逃げずに、機体の横へ回った。
小さな点検蓋を開こうとする。
鍵が掛かっていた。
「こんな時だけ、ちゃんと閉めて!」
腰の工具を引き抜く。
トーマの剣が、関節の中で震えた。
持ち手を通して、機械の力が腕へ伝わる。押さえつけられるように肩が下がり、片膝が地面へついた。
「長くは、持たない!」
「分かってる!」
点検蓋が開いた。
リッカの表情が変わった。
中にあるはずの停止環が、見当たらなかった。
切断された線が二本、奥へ押し込まれている。
「……外してある」
機械の脚が一本、持ち上がった。
リッカへ向かう。
トーマは剣を消した。
突然抵抗を失った三本爪が地面を引っ掻く。
彼はリッカの腰を掴み、そのまま横へ倒れ込んだ。
鉄の脚が、二人のいた場所を踏み抜いた。
*
通りの端で笛が鳴った。
警備兵が六人、槍を持って駆けてくる。
先頭の男が機械を見るなり、顔を強張らせた。
「停止符は!」
「停止環を外されてる! 杭筒が生きてるから正面へ立たないで!」
リッカが起き上がりながら叫んだ。
兵たちは散った。
その判断が、半歩遅れた。
機械の胴が回る。
杭筒が、槍を持つ兵へ向いた。
トーマは間へ走ろうとした。
足がもつれた。
胸へ受けた衝撃が、まだ身体に残っている。
間に合わない。
「伏せろ!」
警備兵の一人が仲間を押し倒した。
鉄杭が頭上を抜け、薬屋の壁を貫いた。
棚の崩れる音がする。
トーマは歯を食いしばった。
全員を同時に見ていられない。
機械を追えば、逃げ遅れた人が視界から消える。人を見れば、鉄の腕が動く。
「トーマ、こっちを見て」
リッカが彼の袖を強く引いた。
「全部止めようとしないで。向きを変えさせる」
「どこへ」
「荷捌き場。あそこなら人を退かせられる」
オルフェが路地の入口から叫んだ。
「奥の荷車は動かした! ただ、裏の店に二人いる。出すまで少し!」
リッカは頷いた。
トーマの胸元を見た。
「もう一発、受けられる?」
「分からない」
「だったら、受けない方法にする」
*
機械は、持ち上げられた鉄の鍋へ反応した。
警備兵が店から借りたものだった。
鍋を地面へ叩きつけると、胴がそちらへ回った。
「音じゃない」
リッカが言った。
「大きく動く金属を追ってる。識別の筒を替えられてるんだと思う」
「鍋を敵だと思ってるのか」
「私たちだって、剣と槍を持ってるでしょう!」
トーマは剣を出した。
大きく横へ振る。
機械が向きを変えた。
杭筒が上がる。
トーマはすぐに剣を消し、店の石柱へ身体を隠した。
鉄杭が柱の角を削る。
破片が耳を切った。
次に剣を出したときには、荷捌き場の入口にいた。
機械が追ってくる。
一歩。
もう一歩。
鉄の爪が振り上がった。
トーマは逃げず、懐へ入った。
爪が頭上を通り、後ろの木枠を砕く。
彼は機体の脚を蹴り、横へ抜けた。
「今!」
左右にいた兵が、太い鎖を引いた。
荷車を固定するための鎖だった。
四本脚のうち、前の二本へ絡む。
機械が傾いた。
だが、倒れない。
脚の一本が鎖を持ち上げ、壁の金具ごと引き剥がした。
兵が引きずられる。
トーマは槍を呼び、鎖の輪へ柄を通した。
石畳の隙間へ穂先を打ち込む。
身体を沈めた。
機械の重さが、両腕へ掛かった。
*
リッカが機体の背へ登った。
外板は熱かった。
手をついた掌に痛みが走る。それでも離さず、膝を引き上げる。
「上は動くぞ!」
兵が叫んだ。
胴が回った。
リッカの身体が振られた。
彼女は点検用の取っ手を掴み、片足だけで縁にぶら下がった。
下から鉄の腕が伸びてくる。
トーマは槍を片手で押さえ、もう片方の手で剣を呼んだ。
腕の細い連結部へ投げる。
刃が当たり、逸れた。
切断には届かなかった。
だが、三本爪はリッカの靴底を掠めるだけで空を掴んだ。
その隙に、彼女が身体を引き上げる。
「あと少し!」
「その、少しを、短く!」
トーマの右足が滑った。
槍の穂先が石を割りながら動く。
肩の奥で、嫌な音がした。
リッカは背面の蓋へ工具を差し込んだ。
留め具を一つ外す。
二つ目は潰れていた。
叩く。
動かない。
もう一度、全体重を乗せて叩いた。
蓋が跳ねた。
中の識別筒は、固定帯で無理やり押さえられていた。
正規の部品より短い。
空いた隙間を、革と針金で埋めている。
「これか!」
抜こうとした瞬間、胴が急に反転した。
リッカの身体が浮いた。
指から工具が落ちる。
彼女は固定帯を掴んだ。
帯が裂けた。
識別筒が、腕の中へ抜けた。
機械の動きが止まった。
次の瞬間、膝に当たる関節から蒸気が噴き出し、巨体が前へ崩れた。
「離れろ!」
トーマは槍を消し、鎖から飛び退いた。
地面が揺れた。
リッカが背から転がり落ちる。
トーマは受け止めようとしたが、痛む肩が持ち上がらなかった。
二人で石畳へ倒れた。
*
「……受け止めるなら、ちゃんと」
リッカが呻いた。
「受け止めた」
「床も一緒に」
「文句が言えるなら、よかった」
彼女は返事をしかけ、咳き込んだ。
トーマも笑おうとして、胸を押さえた。
オルフェが駆け寄ってくる。
二人の顔を見て、深く息を吐いた。
「立たないで。今、立てるって証明する必要ないから」
「機械は」
「兵が見てる。店の人も出せた」
リッカは胸へ抱えていた筒を差し出した。
「これ、なくさないで」
「君の工具より大事?」
「今は」
「じゃあ、工具も拾っておく」
オルフェは筒を布へ包んだ。
トーマは仰向けのまま、王都の空を見た。
薄く煙が流れていた。
*
夕方、医務室へセヴランが来た。
トーマの肩は固定され、リッカの掌には軟膏を塗った布が巻かれていた。
セヴランは椅子へ座るなり、深く頭を下げた。
「停止装置の確認が遅れた」
「誰が外したんですか」
リッカが尋ねる。
「整備記録上は、今朝、検査を終えている」
「終えて、あれ?」
「署名した検査員がいない。帰宅先にも戻っていないそうだ」
トーマが身体を起こしかけた。
オルフェに肩を押さえられる。
「今日は聞くだけ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言った」
セヴランは書類を広げた。
消えた検査員の名は、ネルス。
彼が確認印を押した設備の一覧に、東の要へつながる中継所が三つあった。
そのうち一つの名前を見て、リッカの顔が変わった。
「ここ、明日切り替える予定じゃ」
「今、停止を指示している」
セヴランが言ったところで、廊下を走る足音が近づいた。
扉が開く。
入ってきた記録係は、息を整える前に告げた。
「第三中継所が、連絡に応じません」
リッカが寝台から足を下ろした。
オルフェは今度は、止める言葉をすぐには見つけられなかった。




