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帰りたい日

第22話 百本よりも先に


 砦町の朝は、鐘より先に始まった。


 カイルが目を開けたときには、窓の外で車輪が鳴っていた。


 階下では皿が重なり、誰かがパンの数を間違えたと騒いでいる。


 寝台から起き上がると、隣の椅子に座っていたピノが顔を上げた。


「おはようございます」

「何で、もう着替えてるんだ」

「朝だからです」

「そういう答え、最近流行ってるのか」


 ピノは靴の紐を結び終えた。


 擦りむいた掌には、新しい布が巻かれている。


「痛みは?」

「昨日より、ましです」

「今日は荷物、俺が持つ」

「手紙の鞄は自分で持ちます」

「信用ないな」

「渡す順番があるので」


 カイルは反論しかけたが、塩を包帯の袋へ入れたことを思い出し、やめた。


     *


 食堂では、ミレイがもう食べ終えていた。


 向かいのダリオは、大きな椀へパンを浸している。


「よく眠れたか」

「途中で、何度か音が」

「三日で慣れる」

「慣れなかったら?」

「四日目も寝るだろう」


 カイルは椅子を引いた。


 皿が運ばれてくる。


 卵を見て、無意識に焼け具合を確かめた。


 端が少し焦げていた。


 リシェルなら、最初にそこを指す。


 食べながら文句を言うから、厨房へ戻す暇もない。


「嫌いか」

 

 ダリオが尋ねた。


「いや。知ってる奴が、焦げたのにうるさくて」

「ここにはいないんだろう」

「いない」

「なら、お前が食え」


 カイルは笑い、パンを手に取った。


 黄身を崩すと、柔らかく流れた。


     *


 午前は、要の敷地を歩いた。


 外の砦町とは、もう一枚の壁で区切られている。


 兵の詰所、倉庫、炊事場、井戸、訓練場。


 設備のある塔へ向かう道には、思ったより多くの人が行き来していた。


 洗濯籠を抱えた女が、ダリオへ道を空けるよう言った。


「隊長。そこで説明されると通れない」

「悪い」

「昨日も同じところで止まってた」

「覚えてないな」

「私は覚えてる」


 ダリオは素直に脇へ寄った。


 カイルが見ていると、彼は肩をすくめる。


「ここでは、洗濯物が遅れると全員が困る」

「隊長が遅れるより?」

「場合による」


 ミレイが後ろから言った。


「だいたい、洗濯物のほうが困る」

「お前、誰の部下だった」

「だから知ってるんです」


 カイルは笑った。


 塔の入り口で、若い兵が扉を押さえたまま待っていた。


 ダリオは礼を言い、先にカイルを通した。


     *


 要の装置は、砦の中心に据えられていた。


 石と金属を重ねた台座から、薄い光が上へ伸びている。


 外から見た塔の高さほど、装置そのものは大きくなかった。


 カイルは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触らないほうがいい?」

「今はな」


 ダリオの横にいた管理係が頷いた。


「接続の許可と測定の準備が必要です。今日は見学だけで」

「分かった」


 カイルは台座の周囲を歩いた。


 床に継ぎ足された跡があった。


 修理の色が違う。


「何回も直してる」

「一度に全部替えられないので」


 管理係が答えた。


「止めずに直す?」

「止める部分を小さく分けます。それでも、ほかへ負担は移ります」


 中央へも。


 口に出さなくても、分かった。


 カイルは台座の光を見た。


 眠るリシェルの顔とは、似ても似つかない。


 それなのに、目を逸らしにくかった。


     *


 説明の部屋に戻ると、ダリオが契約案を広げた。


 カイルが旅の途中から読んでいたものと、同じ内容だった。


 ただし、ここには敷地の図面が添えられていた。


「今、確認しておく。俺は、これを今日決めさせるつもりはない」

「今日じゃなくても、いずれは」

「いずれの話を、今日の返事に混ぜるな」


 ダリオは図面の上へ指を置いた。


「範囲から出ない。その条件を、自分の命に結びつける。そう理解しているか」

「ああ」

「窮地でも、誰かに押し出されても、同じだ」

「読んだ」


 ダリオはカイルを見た。


「読んだ顔と、分かった顔は違う」

「だったら、どうすれば分かったことになる」

「簡単には、ならないだろうな」


 カイルは椅子へ座り直した。


 ミレイは口を挟まなかった。


 ピノも、鞄を膝へ置いて黙っている。


 ダリオは紙を裏返さず、そのまま置いた。


「俺は反対だ」

「力が足りない?」

「お前がまだ、この場所を知らないからだ」


 カイルは図面を見た。


「歩いた」

「今朝、一度な」


     *


 ダリオは窓の外を指した。


 炊事場の裏で、さっきの洗濯係が若い兵へ布を渡していた。


「あいつは、雨が続くと機嫌が悪い」

「誰でもそうだろ」

「食堂の親父は、塩をけちると怒る。医務室の婆さんは、痛くないと言った奴から診る。倉庫番は左耳が悪い。右から話せ」


 カイルは窓へ顔を向けた。


「それを知ったら、契約していいのか」

「そうは言ってない」

「何を言いたいんだ」

「ここへ残るなら、設備のそばに立つだけじゃ済まないってことだ」


 ダリオの声は大きくなかった。


「毎日、誰かと顔を合わせる。腹も立つ。出ていきたくなる日もある。なのに、お前だけは、腹を立てて門をくぐることもできなくなる」


 カイルは黙った。


 敷地の広さについては考えた。


 歩ける距離や、剣の届く範囲も考えた。


 嫌なことがあって、一人になりたくなる日のことは、考えていなかった。


「短い時間なら、戻ればいいって話は」

「強い精神的苦痛が始まる。短ければ必ず安全だという保証はない。繰り返していい抜け道にもならん」


 ダリオは答えた。


「契約してから、ちょっと散歩する感覚で試すな」


 カイルは図面から手を離した。


     *


 昼前、カイルはピノと砦町へ出た。


 契約の話は、そこでいったん終わった。


 外側の通りには、小さな店が並んでいた。鍛冶屋、靴の修繕屋、豆を売る店。


 ピノは迷わず路地へ入る。


「こっち、知ってるのか」

「配達先の印があります」

「どれ」

「扉の横の、鳥みたいなの」

「あれ、落書きじゃないのか」

「違います。たぶん」

「たぶん?」


 ピノは扉を叩いた。


 中から出てきた老人が、鞄を見るなり顔をほころばせた。


「来たか」

「お待たせしました」

「待ったとも。先月からな」


 ピノは謝り、手紙を渡した。


 老人はその場で封を開けず、両手で包んだ。


「孫ですか」


 カイルが尋ねる。


「娘だ」

「近くに?」

「今は遠い」


 それだけ言って、老人は家へ入った。


 ピノが次の封筒を出す。


 カイルは少し遅れて歩きだした。


「中を読む前から、嬉しそうだったな」

「届いたことが、先に分かりますから」


 ピノは封筒の宛名を見た。


「何が書いてあるかは、そのあとです」


     *


 二軒目では、返事を待たされた。


 三軒目では、宛先の人が仕事へ出ていた。


 四軒目の女は、手紙を受け取るとピノへ干した果物を一つ渡した。


 ピノはそれを半分に割ろうとして、怪我をした掌を気にした。


 カイルが受け取り、割って返す。


「俺の分?」

「半分なら」

「配達、ついてきてよかった」

「荷物、ほとんど持ってませんよ」

「割った」

「それは助かりました」


 二人で噛んでいると、遠くで鐘が鳴った。


 朝の鐘とは違う。


 短く、続けて二度。


 通りの人々が顔を上げた。


 店先の籠が中へ引かれ、荷車が道の端へ寄る。


 カイルは果物を飲み込んだ。


「何だ」

「外の作業班が、予定より早く戻る合図です」


 ピノが答える。


 続けて、もう一度鳴った。


 今度は長かった。


 ピノの顔が変わった。


「追われてます」


     *


 門へ着くと、ダリオはすでに胸当てを着けていた。


 外から荷車が一台、揺れながら近づいてくる。


 車輪が傾いている。


 その後ろで、人が二人、何かを引きずっていた。


 さらに後方、低い斜面を獣の群れが下りてくる。


「作業班、何人だ」

「出たのは十一!」


 門番が叫んだ。


 ダリオは門の脇へ兵を寄せた。


「弓は、道へ射るな。走ってくる人間が先だ。右の斜面を止めろ」


 カイルの周囲に剣が現れた。


 五本。


 ダリオが彼を見る。


「契約はまだだ」

「分かってる」

「ここで勢いで決めるなよ」

「決めてない。今、出ても戻れるだろ」


 ダリオは一瞬、口を閉じた。


 それから、ミレイへ顔を向けた。


「二人で荷車まで。追うな」

「了解」


 ミレイは槍を持ち直した。


 カイルを見た。


「左、お願い」

「ああ」


 二人は門を出た。


     *


 荷車の上には、怪我人がいた。


 御者が必死に手綱を引いているが、傾いた車輪が石へ引っかかり、車体が大きく揺れた。


 カイルは一本の剣を地面すれすれへ走らせた。


 迫る獣の進路を切る。


 別の二本は、荷車の後ろへ置いた。


 残りを振り上げようとすると、引きずられている男が見えた。


 脚を挟まれたのか、自分では立てないらしい。


 両脇の二人も、歩みが揃っていなかった。


「剣を増やすより、こっち!」


 ミレイが叫んだ。


 カイルは歯を食いしばり、走った。


 男の腕を自分の肩へ回す。


「立てるか」

「右が」

「左だけでいい。合わせるぞ」


 重かった。


 剣を動かしながら、人の歩幅へ合わせる。


 一本の刃先が土へ触れた。


 ミレイがその隙間へ槍を突き出す。


「今は運んで!」


 カイルは二本を消した。


 残る三本の位置だけを確かめる。


 背後で獣が唸った。


 門の上から矢が飛び、右の斜面へ刺さる。


 カイルは前を見た。


 開いた門の向こうで、ピノが両腕を振っていた。


     *


 荷車が門を通った。


 怪我人を担いだ兵が続く。


 ピノが一人ずつ指を折り、途中で声を上げた。


「十人です!」

「もう一人は!」


 ダリオが怒鳴る。


 御者が後ろを振り返った。


「溝に! 荷が落ちた時、マルクが!」


 カイルも振り返った。


 斜面の下に、割れた木箱が見えた。


 その陰から、腕が上がった。


 ミレイが先に走った。


 カイルは男を兵へ預け、剣を向ける。


 今度は、全部を追わなかった。


 ミレイの進む道へ二本。


 後ろから来る獣へ一本。


 剣を置く場所を、先に決めた。


 溝の男が這い上がる。


 ミレイが襟を掴み、引いた。


 獣が跳んだ。


 カイルの剣が横からぶつかり、獣の顎を逸らす。


 刃は深く入らなかった。


 それでも、ミレイが男を立たせる時間はできた。


「走って!」


 二人が戻る。


 カイルは剣を一つずつ引いた。


 門の内側へ足が入る。


 ダリオの命令で、厚い扉が動き始めた。


 最後の隙間を通して、獣の肩が見えた。


 カイルは剣を引き抜く。


 扉が閉まった。


     *


「十一!」


 ピノが言った。


 門番が板を確かめ、頷く。


「十一。全員だ」


 カイルは壁へ手をついた。


 肩も腕も重かった。


 たくさん剣を出したわけではない。


 それなのに、訓練より疲れていた。


 ミレイは槍を壁へ立て、助けた男の顔を覗いた。


「名前は」

「マルク」

「分かるわね。歩ける?」

「たぶん」

「たぶんで転ばれると困るから、座って」


 男は素直に座った。


 ダリオがカイルの横へ来た。


「何本使った」

「五本。途中から三本」

「そうか」


 褒めるでも、足りないと言うでもなかった。


 カイルが顔を上げる。


「百本あれば、外で止められたかもしれない」

「そうかもしれんな」

「でも」

「でも?」


 カイルは、怪我人を運ぶ人々を見た。


 ピノは手紙の鞄を肩へ掛けたまま、水を配っている。


 ミレイは兵へ状況を説明していた。


「一人、数え忘れてたら、門を閉めてた」

「だから、数える奴がいる」


 ダリオが答えた。


「百本を考える前に、今日、誰が何をしていたか覚えておけ」


     *


 夕方、カイルは図面をもう一度開いた。


 ピノが隣から覗く。


「契約のですか」

「ああ」


 カイルは紙の端へ、小さく書き足した。


 炊事場。


 洗濯場。


 右耳へ話す倉庫番。


 医務室の入口。


 ピノはしばらく見ていた。


「そういうこと、書くんですね」

「忘れたら困るだろ」

「左耳が悪い人、でしたっけ」

「だから右から話す」

「なるほど」


 カイルは筆を止めた。


 窓から、外の通りが見える。


 今日、配達に歩いた道があった。


 まだ自由に出られる。


 その事実を、初めて少し丁寧に考えた。


 ダリオの言ったとおり、ここを好きになる日ばかりではないだろう。


 帰りたい日もある。


 リシェルが目を覚ましたら、自分の部屋に誰もいないことへ怒るかもしれない。


 その声を聞くために選ぶ道で、その声から遠く離れるかもしれない。


 カイルは紙を畳まなかった。


「ピノ」

「はい」

「明日の配達も、ついていっていいか」

「いいですけど、今日は終わらなかった分もありますよ」

「じゃあ、歩く場所が増えるな」

「荷物も」

「持つよ。手紙以外」

「戻す袋、間違えないでくださいね」


 カイルは笑った。


 翌日の行き先を、紙の裏へ書いた。


 契約の欄には、まだ名前を入れなかった。

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