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第21話 悪魔の見積書


 ヴァルガは、用意された椅子に座っていなかった。


 境界の外にある平たい岩へ腰を下ろし、片膝を立てている。


 監視所の兵が椅子を指すと、彼は岩を指した。


「こっちのほうが高い」

「話をするときは、決められた場所で」

「声は届くだろう」


 ナギは机へ記録用の紙を置いた。


「こちらから、あなたの手元が見えません」

「見えたら安心するのか」

「少なくとも、見えないことを気にせずに済みます」


 ヴァルガはナギを見た。


 それから面倒そうに立ち、椅子へ移った。


 椅子の脚が土へ沈む。


「低いな」

「座れています」

「お前は、いつもそういう答え方か」

「質問によります」


 監視所長が咳払いをした。


 境界を挟んで、双方の距離が確認される。


 ヴァルガは入境しない。


 試料を直接渡さない。


 力を使う場合は事前に告げ、許可がなければ接触を打ち切る。


 ナギは条件を一つずつ読み上げた。


 ヴァルガは途中で口を挟まなかった。


 読み終わると、指を二本立てた。


「追加がある」

「どうぞ」

「俺の言ったことを、途中で都合よく削るな」

「記録に、ですか」

「お前たちは、聞きたかったところだけ持ち帰る」

「こちらも、同じ条件を求めます」

「好きにしろ」


 もう一本の指が残った。


「その瓶を、光の当たる場所へ置け」


     *


 瓶は二つあった。


 還流槽から採ったものと、負傷者の衣服から採ったもの。


 どちらも密閉し、採取日と場所を書いた札を結んでいる。


 ヴァルガは机の端から身を乗り出した。


「左を回せ」

「こちらですか」

「そう。底を向けるな。横から見せろ」


 ナギは瓶をゆっくり回した。


 黒い糸のような沈殿が、ガラスの内側へ張りついていた。


 ヴァルガは笑った。


「ずいぶん、きれいに集めたな」

「何か分かりますか」

「俺たちが使う固定材に似ている」

「あなた方が撒いた?」

「今の言い方だと、俺がここで撒いたことになる」


 ナギは紙へ目を落とした。


「あなたの所属する側で使われる材料、と記録します」

「似ている、も残せ」

「残します」


 ヴァルガは満足したように背を戻した。


「古い術式の燃え残りと混ざると、そうなることがある。動かなくなった力を絡め取る。便利だぞ。使う場所が正しければ」

「還流の途中にあれば」

「戻したいものまで引っかかる」


 ナギの筆が止まった。


「除去できますか」

「お前たちは、何をしている」

「濾過して、濃度を測ります」

「それで?」

「必要なときだけ、私が浄化と還流を補います」


 ヴァルガの視線が、瓶からナギへ移った。


 そこで初めて、興味の対象が変わったことが分かった。


     *


「必要なとき、とは」


「設備だけでは安全に処理できないときです」

「触るのか」

「場合によります」

「距離は」

「今日は実演しません」

「聞いているだけだ」


 ナギは筆を置いた。


「あなたが知りたいのは、沈殿の処理ですか。私のスキルですか」

「両方だ。今は後者のほうが面白い」


 返事に迷いがなかった。


 監視所長が、ナギの横でわずかに姿勢を変えた。


 ヴァルガは気にせず続ける。


「お前たちの力は、同じ形にならない。同じ言葉で説明しても、別のことが起きる。なのに、本人はその違いを分かっていない」

「あなたは、分かるんですか」

「分からないから聞いている」


 ナギは少し黙った。


 その答えだけは、理解できた。


「私の身体を調べる条件は受けません」

「まだ出していない」

「先に伝えます」

「記録だけなら?」

「内容を確認して、個人や設備の弱点を含まない範囲で」

「面倒だな」

「こちらも、そう思っています」


 ヴァルガは声を出して笑った。


     *


 交渉には、思ったより時間が掛かった。


 ヴァルガは還流の前後で変化した量と、ナギ本人の疲労の出方を求めた。


 ナギは量の比率だけを渡すと答えた。


 具体的な設備容量、稼働時間、結界が弱まる時刻は知らせない。


 ヴァルガは不満そうだった。


「それでは、器の大きさが分からない」

「処理方法の説明に、必要ですか」

「俺の興味には必要だ」

「それなら、今回はお断りします」


 沈黙した。


 風で紙の端が持ち上がり、ナギは文鎮を置き直した。


 ヴァルガが言った。


「比率を二回分。処理前と処理後。失敗した場合も渡す」

「失敗の内容によります」

「成功しか教えないなら、意味がない」

「危険な手順は実施しません。そのために試さなかった場合は、そう記録します」


 ヴァルガは椅子の背へもたれた。


「いい。そこまででいい」


 監視所長が、条件を復唱した。


 ナギは同じ内容を紙へ書いた。


 ヴァルガはそれを見て、指先で自分の膝を叩いた。


「まるで、物を買う相談だな」

「対価を決めているので」

「では、見積もってやろう」


     *


 処理法の説明は、簡単ではなかった。


 ヴァルガが使う言葉のいくつかは、人間の術式の分類と合わなかった。


 ナギは三度、説明を止めた。


「その『死んだ流れ』は、力がないという意味ですか」

「動かないという意味だ」

「では、残っている」

「そう言っただろう」

「言葉を揃えています」


 ヴァルガは露骨に退屈そうな顔をした。


 だが、説明はやめなかった。


 黒い沈殿は、一度に強い力を通すと細かく裂ける。


 裂けたものは、粗い濾材を抜ける。


 先に流れを弱めて沈ませ、上澄みを分け、段階を変えて処理する必要がある。


「全部を一度に戻そうとするから、余計なものまで運ぶ」

「それで、使える分も捨てていた可能性がある」

「ようやく話が早くなったな」

「まだ、あなたの説明が正しいとは確認していません」

「最後まで可愛げがない」


 ナギはその言葉を記録しなかった。


 ヴァルガが机を指した。


「今のは書かないのか」

「処理に必要ありません」

「都合よく削るなと言った」

「では、余白に」


 ナギが本当に書くと、監視所長が横を向いた。


 笑ったのかもしれなかった。


     *


 帰り際、ヴァルガが尋ねた。


「なぜ、そこまで戻したい」

「必要だからです」

「どこへ」

「それは答えません」


 ヴァルガはナギの顔を見た。


「中央の眠っている人間か」


 ナギの指が止まった。


 監視所長が、交渉終了を告げようとした。


 その前に、ナギが答えた。


「あなたが知っていることを、私の反応で確かめる必要はありません」

「今ので、少し確かめられた」

「次からは気をつけます」


 ヴァルガは愉快そうだった。


 ナギには、それが腹立たしかった。


 相手は助けたいから話しているわけではない。


 結果を見たいのだ。


 人間がどこまでできるか。何を代わりに失うか。その違いを、外側から眺めている。


「記録は、監視所を通して渡します」

「待っている」

「同じ条件で、です」

「分かっている。お前は何度でも言うんだな」

「忘れられるより、ましです」


 ナギは瓶を箱へ収めた。


 ヴァルガは見送る言葉を言わず、机に残った空の場所を見ていた。


     *


 治療院へ戻ると、マーヤが説明を最後まで聞いた。


 そのあと、開口一番に言った。


「生きた人には使わない」

「同意します」

「結界の本流にも、いきなり混ぜない」

「そのつもりです」

「よろしい。では、小さく失敗できる場所を用意しましょう」


 試験は、夕方から始まった。


 同じ槽から採ったものを分ける。


 一つは今までの方法。


 一つは沈ませる時間だけを長くする。


 もう一つは、沈ませた上澄みをさらに段階的に通す。


 テオが札を書き、ユナが取り違えのないよう読み上げた。


「これ、薬を分けるときと同じね」

「間違えた時の困り方も、似ています」


 ナギが答える。


 リュシエルのように、遠くから数字を見ただけで理解できる存在ではない。


 自分たちは、瓶を並べ、札を書き、洗い直し、一つずつ確かめるしかなかった。


 夜の仕事が増えるため、交代の順番も決めた。


 マーヤはナギの名前を、最初の組にだけ入れた。


     *


 一度目の結果は、はっきりしなかった。


 流れはよくなったが、処理に時間が掛かりすぎた。


 戻せる量が増えても、その間に別の場所へ溜まるなら使い方を考える必要がある。


 テオが肩を落とした。


「駄目ですか」

「まだ、そこまでは分かりません」


 ナギは記録を見た。


「流れを弱める時間が長すぎたかもしれません。沈殿を確認した時点で分けて、もう一度」

「今から?」

「私は交代です。続きは、手順を確認してから次の人へ渡します」


 自分で言うと、少し悔しかった。


 ユナが顔を覗き込む。


「残りたい?」

「はい」

「分かりやすくなったね」


 ナギは返事をせず、次の担当者へ紙を渡した。


     *


 二日目、差が出た。


 使える形で残る量が、同じ試料の通常処理より増えた。


 ただし、すべてを戻したわけではない。


 黒い沈殿と、その周囲に絡んだ一部は、切り離して保管した。


 ナギは必要な最終処理だけを補った。


 還流を行った時間と、その後の疲労も記録する。


 マーヤが数字を見て、頷いた。


「あなたが余計に消耗して増やした量ではない?」

「少なくとも、今日の感覚では。もう一度、同じ条件で確かめます」

「ええ」


 嬉しい、と言うには早かった。


 それでも、ナギは紙へ数字を書くとき、少しだけ手が軽くなった。


     *


 中央への報告には、慎重な言葉を使った。


 南側の還流処理で、損失の一部を減らせる可能性がある。


 短期間の測定では改善を認めた。


 継続性と、別条件での安全性は未確認。


 リシェルの寿命が何日延びたかという換算は、まだできない。


 最後の一文を書いたあと、ナギは筆を置いた。


 マーヤが覗く。


「もっと嬉しそうな報告にしたかった?」

「少し」

「数字が続けば、次は少し書ける」


 ナギは頷いた。


 封をする前に、別紙を一枚足した。


 処理のために、患者の治療を遅らせていないこと。


 作業者の交代を設け、夜通しの対応を常態化させないこと。


 それも、この方法を続けられるかどうかに関わる。


     *


 ヴァルガへ渡す記録は、約束した範囲だけに整えた。


 失敗した一度目も含める。


 監視所から戻った返事には、短い追記があった。


『分けた沈殿は、燃やすな』


 ナギはその紙をマーヤへ見せた。


「先に言ってほしかったですね」

「本当にね」


 二人は保管庫へ向かった。


 沈殿は、まだ密閉したままだった。


 マーヤが棚を確かめ、ナギは瓶の数を数える。


 全部ある。


 そのことを確認してから、ナギは返事を書いた。


『次回は、危険事項を最初に提示してください。追加の対価は認めません』


 筆を止め、少し考える。


 それから一行、足した。


『処理量の改善は確認しました。情報の一部は有用でした』


 封を閉じると、廊下でソウが看護係へ文句を言っていた。


 歩く練習が短すぎるという。


 ナギは紙を預け、そちらへ向かった。


 今日は昨日より、少し遠くまで歩けるかもしれなかった。

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