戻しているもの
第20話 戻せないもの
ナギが朝いちばんに運んだのは、薬でも記録でもなく、濡れた寝具だった。
南の治療院では、夜のうちに患者が三人増えていた。
寝台が足りず、物置から古いものを出したため、廊下の半分が塞がっている。洗濯場へ向かうには、壁と寝台の間を横向きで通らなければならなかった。
「そこ、持ち上げます」
「持ち上げないで。下に水差しがある」
看護係のユナが床を指した。
ナギは足を止めた。
「なぜ、そこに」
「さっき置いたから」
「それは、そうでしょうけど」
「私も今、どかそうとしてたの」
ユナは水差しを拾い、寝台の脇へ戻した。
ナギは通り抜けた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。昨日の分の記録、机に置いたよ」
「見ました」
「読めた?」
「最後の二行は、まだ」
「眠かったから」
「文字に出ています」
ユナは笑い、患者の呼ぶ声へ振り返った。
ナギは濡れた布を抱え直した。
南へ戻ってから、記録を落ち着いて読めた時間は、思っていたより少なかった。
*
治療院長のマーヤは、午前の診察を終えると、自分で椅子を運んできた。
ナギの机の横へ置き、腰を下ろす。
「顔が悪い」
「生まれつきですか」
「寝不足のほう」
「それなら、あとで直します」
「今夜、直しなさい」
ナギは紙を揃えた。
机には、結界の南側で測られた漏出量と、回収した力の記録が並んでいる。
同じ量を流しているはずの日でも、戻せる量が少しずつ減っていた。
「患者の数とは、合いません」
「治療へ使った分では説明できない?」
「はい。途中で失われているか、戻す過程で捨てるものが増えています」
マーヤは一枚を引き寄せた。
「あなたの還流が、弱くなった可能性は」
「あります」
「嫌な顔をしないのね」
「嫌ですが、除外すると間違えます」
マーヤは紙を戻した。
「いい返事。ただし、嫌なら嫌な顔をして構わない」
ナギは少し考えた。
「あとで練習します」
「そこまで真面目に受け取らなくていい」
*
昼前、老人の診察に呼ばれた。
名前はソウといった。
外縁の採石場で働いていたが、足を痛めて運ばれてきた。傷そのものは塞がり始めている。問題は、治るまでの時間と、仕事へ戻ったあとのことだった。
ソウはナギの袖を見た。
「力を戻す人だって聞いた」
「漏れた力を扱うことはあります」
「なら、脚に入れてくれないか」
ナギは椅子へ座った。
立ったまま答えると、早く話を切りたいように聞こえる気がした。
「脚の治療は、今の処置を続けます。私の力で、昔の状態に戻すことはできません」
「少し若い頃の分でも」
「できません」
ソウは布団の上へ手を置いた。
「そうか」
短い沈黙があった。
廊下で誰かが桶を落とし、ユナの声がした。
ソウはそちらを見てから、またナギへ向き直った。
「みんな、戻る、戻すって言うからな」
「紛らわしい言い方だと思います」
「お前さんが悪いわけじゃない」
「それでも、説明は必要です」
ソウが笑った。
「説明の好きな若いのだ」
「嫌がられることもあります」
「分かったふりをして金を取られるより、いい」
ナギは脚の下へ入れた布の高さを直した。
「痛みは、朝と比べてどうですか」
「動かさなけりゃ、ましだ」
「眠れましたか」
「隣がいびきをかく」
「それは薬では」
「治らんだろうな」
今度は、ナギも少し笑った。
*
午後、還流槽へ向かった。
治療院の裏手から坂を下った場所に、低い石造りの建物がある。
結界設備から漏れた力を受け止め、混じったものを分け、使える分だけを戻す。その作業のすべてをナギ一人で行っているわけではない。
槽を洗う者がいる。
濾材を替える者がいる。
流れを止める弁を、一つずつ確かめる者がいる。
ナギが着くと、作業係のテオが靴紐を結び直していた。
「遅かったですね」
「患者と話していました」
「怒ってないですよ」
「言い訳に聞こえましたか」
「少し」
「では、次から短くします」
「そこまでしなくても」
テオは立ち上がり、記録板を渡した。
「朝の槽は、沈殿が多いです。色も違う」
「捨てましたか」
「まだ。触らず取ってあります」
ナギは頷いた。
窓際に置かれた瓶の底に、細い黒いものが沈んでいた。
泥のようにも、焼けた糸のようにも見える。
「いつから」
「はっきり見えたのは三日前。前にもあったかは、分かりません」
「分からないものは、分からないと書いておいてください」
「もう書きました」
「ありがとうございます」
テオは少しだけ、嬉しそうな顔をした。
*
最初の槽は、通常の濾過だけで処理した。
流れが細い。
出口の光が、短く途切れる。
ナギは記録を取り、次の槽と比べた。
黒い沈殿の多いほうが、途中で散る力も多かった。
「詰まってる?」
テオが尋ねた。
「それだけでは、説明しにくいです」
「どうして」
「入口の圧が上がっていない。流れを塞ぐなら、ここが先に変わるはずです」
ナギは計器を指した。
テオが覗き込む。
「じゃあ、吸ってる?」
「その可能性もあります。ただ、今は決めません」
瓶を光に透かした。
黒い糸のようなものは、揺らしてもすぐには広がらなかった。底へ絡まり、細い塊を作っている。
ナギは蓋を閉めた。
「今日は還流を使わず、濾材を替えた分だけ測ります」
「使えば、早く分かるんじゃ」
「私が無理をして押し通したら、設備のどこが悪いのか見えなくなります」
テオは納得したように頷いた。
その直後、外で車輪の跳ねる音がした。
*
運び込まれたのは、外縁の作業場から戻った男だった。
肩へ布が巻かれ、片側の靴が脱げている。
付き添いの二人は、口々に何かを説明していた。
「途中から暴れ始めた」
「熱がある。声を掛けても分からない」
「まず、荷台を止めてください」
ナギが近づくと、男が急に身を起こした。
目の焦点が合っていなかった。
腰の作業刃へ手が伸びる。
付き添いの一人が腕を掴み、振り払われた。
「下がって」
ナギは言った。
男の刃が、空気を切った。
ユナが治療院から走ってくるのが見えた。その前には、水桶を持った少年が立っている。
ナギは男の視線が動くより先に、間へ入った。
刃を持つ手首へ左手を添える。
押し合わず、外へ逸らす。
踏み込んだ右足の上で腰を回し、拳を腹へ入れた。
男の息が詰まった。
膝が折れる。
ナギは腕を放さず、刃を地面へ落とさせた。
「布を。腕を押さえてください。胸は潰さないで」
付き添いが動く。
ナギは男の呼吸を確かめた。
拳を入れた場所が痛むのか、男は身体を丸めようとしていた。
ユナが膝をつく。
「何をしたの」
「刃を止めました。腹を打っています。そちらも診てください」
ナギの指は、少し震えていた。
*
男は治療室へ運ばれた。
傷口の洗浄と処置が始まり、ナギは入り口で手を洗った。
拳の皮が少し剥けていた。
テオが布を差し出す。
「強いんですね」
「さっきは、ほかの方法が間に合いませんでした」
「でも、倒した」
「患者です」
言い方が硬くなった。
テオの顔が変わる。
ナギは手を止めた。
「……すみません。あなたを叱るつもりでは」
「いえ」
しばらく、水の音だけがした。
ナギは布で指を押さえた。
「打たずに済むなら、そのほうがいいです。何が身体に起きているか、まだ分からないので」
テオは頷いた。
治療室の奥で、マーヤが指示を出していた。
ナギは桶を運び、汚れた布を受け取った。
しばらくして男の呼吸が落ち着いてから、ようやく自分も座った。
*
男の衣服についていた粉を調べると、還流槽の沈殿と似た黒い筋が残った。
同じものかは、まだ分からない。
ナギは別の瓶へ入れ、採取した場所を書いた。
マーヤがその手元を見た。
「何でも結びつけたくなる顔をしている」
「似ています」
「似ていることと、同じことは?」
「違います」
「では、そのまま書きなさい」
ナギは記録した。
男の状態が落ち着くまで、還流を使う判断はしなかった。傷の処置や熱への対応で改善するなら、その経過を見なければならない。
夜になっても、院内は静かにならなかった。
誰かが水を欲しがり、誰かが家族を呼んだ。
ソウは隣のいびきについて、今度はユナへ苦情を言っていた。
*
ナギが記録室へ戻ると、机に細長い紙が置かれていた。
南側の境界監視所からだった。
封には、外部接触の記録印がある。
マーヤが扉にもたれた。
「あなた宛てらしい」
「誰から」
「悪魔。名前は、ヴァルガ」
「入境の申請ですか」
「いいえ。境界の外で待つと言っている」
ナギは紙を開いた。
文章は短かった。
黒い沈殿を捨てる前に、乾かしたものを見せてほしい。
人間がそれをどう処理しているか、知りたい。
その代わり、混ざったものの出所について話す。
最後に、妙な一文があった。
『お前が戻しているものと、捨てているものを、同じ名で呼んでいないか』
ナギは読み直した。
「会いますか」
マーヤが尋ねる。
「監視所を通して、条件を決めます。瓶は開けません。実演もしません」
「興味はあるのね」
「あります」
「隠さなくていい。ただ、向こうも興味がある。その向きが同じとは限らない」
ナギは頷いた。
紙を机へ置くと、マーヤが手を差し出した。
「今日は、ここまで」
「返事だけ」
「返事は私が送る。あなたは寝る」
ナギは少し迷い、紙を渡した。
立ち上がると、拳が痛んだ。
戻せないものは、患者の脚だけではなかった。
使った時間も、打った拳も、なかったことにはならない。
ナギは自分の寝台へ向かい、靴を脱いだ。
横になってから、記録していないことを一つ思い出した。
今日はまだ、夕食を食べていなかった。
扉が小さく開いた。
ユナがパンと椀を置く。
「今、思い出した顔」
「……ありがとうございます」
「明日は、自分で思い出して」
ナギは起き上がり、両手で椀を受け取った。




