中央
第25話 中央へ流れる赤
第三中継所へ向かう荷車の中で、トーマは右腕を動かした。
肩の奥が痛んだ。
「動かすなって言われたでしょう」
リッカが言った。
「動くか確かめてる」
「確かめた結果、痛い?」
「少し」
「今の顔は、少しじゃない」
オルフェが御者台から振り返った。
「着いたら、二人とも後ろにいて。今日は警備隊が先に入る」
「分かってる」
「返事だけなら、二人とも本当に早いね」
前には警備兵の車が二台。
後ろには、セヴランと修理係を乗せた荷車が続いていた。
王都の外壁を離れると、道沿いに太い管が現れた。
東の要から各設備へ力を送り、負荷を分けるためのものだった。
途中の観測柱に、赤い灯が点っていた。
昨日までは、青かったという。
*
中継所の門は、半開きだった。
門番はいなかった。
警備隊長が手を上げ、全員を止めた。
中から金属を打つ音がする。
一定ではない。
何かを直す音にも、壊す音にも聞こえた。
「作業員は、二十人前後のはずです」
セヴランが小声で言った。
隊長が兵を二組に分けた。
正面と、右の通用口。
トーマたちは、外壁の陰へ待機した。
門をくぐった兵の姿が消える。
一拍。
短い笛が鳴った。
次の瞬間、内側で爆ぜるような音がした。
門板が揺れ、兵が一人、転がり出てきた。
「伏兵!」
壁の上へ、人影が現れた。
弩を構えている。
トーマの左手に剣が生まれた。
右腕ではなかった。
弦が鳴る。
彼はセヴランの前へ出た。
矢が刃へ当たって逸れ、二本目が上着の脇を裂いた。
白い光が腹を走った。
痛みは浅い。
だが、壁の上には、もう一人いた。
*
警備兵が盾を上げた。
今度は、盾の後ろから弩を返す。
壁上の男が身を隠した。
隊長が叫ぶ。
「中に作業員がいる! 無差別に撃つな!」
トーマは転がり出てきた兵へ近づいた。
脚から血が出ていた。
兵は歯を食いしばり、門の奥を指す。
「運搬機……改造してる。近づくと、腕が」
リッカが壁の隙間から覗いた。
構内には、低い運搬機が二台あった。
荷台の代わりに鉄板を立て、左右へ刃を取りつけている。
その後ろに、人間がいる。
操縦しているのだ。
「勝手に動いてるんじゃない。後ろに操縦桿がある」
リッカが言った。
トーマは門の幅を見た。
槍を出す。
握った途端、右肩が痛んだ。
片手では、長い柄をうまく扱えない。
彼は一度消し、短い剣へ替えた。
「入るの?」
「中の人を出す」
「肩が使えない」
「左は使える」
リッカは何か言いかけた。
トーマが先に続けた。
「一人じゃ行かない。兵と、同じところへ行く」
彼女は口を閉じた。
それから、隊長へ機械の構造を説明し始めた。
*
門の内側へ、盾を並べた兵が入った。
トーマはその間にいた。
最初の運搬機が近づく。
両側の刃が回っていた。
高くはない。
膝を狙う高さだった。
盾では、受けにくい。
「右を空けろ!」
隊長の声に、兵が道を作る。
トーマは正面へ出た。
左手の剣を、低く構える。
刃同士がぶつかった。
火花が散る。
回転刃が剣を弾こうとする。
トーマは腕だけで止めず、機体の縁へ足を掛けた。
蹴る。
運搬機がわずかに傾いた。
その下へ、兵が長い鉄棒を差し入れた。
三人で押し下げる。
車輪が浮く。
機体の後ろから、操縦していた男が逃げた。
トーマは追わず、運搬機を押さえた。
警備兵が男へ飛びかかる。
もつれ合う二人の横を、もう一台が回り込んだ。
*
速かった。
二台目は壁際を進み、盾の列の横腹へ突っ込んできた。
トーマは飛び移った。
荷台の鉄板へ剣を突き立てる。
足場が滑る。
刃が左の脛を掠めた。
守護が働いても、痛みは消えなかった。
靴の上に血が滲む。
トーマは歯を食いしばり、機体の後ろへ身体を倒した。
操縦していた男と目が合った。
「止めろ!」
男が操縦桿を捨て、短剣を抜いた。
トーマの顔へ突き出す。
左手は剣を握っている。
右肩は上がらない。
彼は額を引き、頬を切らせながら踏み込んだ。
肩ではなく、身体全体でぶつかった。
二人が機体から落ちる。
背中へ男の膝が入り、息が漏れた。
短剣がもう一度振り上がる。
トーマは左手で手首を押さえた。
剣を消す。
指が滑る。
男は必死だった。
歯を剥き、声にならない声を上げて、刃を押し込んでくる。
「どけ!」
警備兵が男の腕を槍の柄で打った。
短剣が落ちる。
トーマは横へ転がり、膝をついた。
無人になった運搬機が壁へぶつかり、回転刃を石に噛ませて止まった。
*
作業員たちは、奥の器材室へ閉じ込められていた。
オルフェが鍵を探し、見つからないと分かると、修理係へ蝶番を外させた。
一人ずつ出てくる。
頭から血を流す男。
手を縛られた女。
靴を片方なくした若者。
リッカは人数を確かめ、歩けない者を壁際へ座らせた。
「ネルスは?」
彼女が尋ねると、白髪の作業員が奥を指した。
「制御室だ。止めようとしたんだが……あいつ、もう戻せないって」
床の下で、低い音がした。
建物全体が、唸る。
セヴランが顔色を変えた。
「切り替えを始めている」
廊下の灯が、赤く変わった。
*
制御室の扉は開いていた。
中にはネルスがいた。
若くはなかった。
頬がこけ、左手に血のついた布を巻いている。
彼はトーマたちを見ると、逃げるより先に机の紙を掴んだ。
炉へ投げ込む。
「やめろ!」
リッカが走り込む。
ネルスは机を蹴り、通路へ倒した。
そのまま奥の扉へ向かう。
トーマが追った。
廊下へ出たところで、建物が大きく揺れた。
壁の管から、赤い光が漏れる。
背後でリッカが叫んだ。
「トーマ、戻って!」
彼は足を止めた。
ネルスは奥へ走っている。
今なら追いつける。
あと十歩ほど。
「接続槽が割れる!」
トーマは振り返った。
制御室の先で、厚い観測窓に亀裂が走っていた。
窓の向こうには、まだ二人の作業員がいた。
弁を閉めようとしている。
赤い光が、その足元まで上がっていた。
トーマはネルスから目を離した。
戻った。
*
観測窓が内側から膨らんだ。
トーマは槍を呼び、枠へ差し込んだ。
割れた窓を支える。
隙間から熱い風が噴き出し、頬の傷を焼いた。
「二人を出して!」
オルフェが脇の扉へ走る。
開かない。
内側の圧に押されている。
リッカが壁の非常弁を回した。
掌の包帯が赤く染まる。
「こっちの流れを落として!」
セヴランと修理係が、別の弁へ取りついた。
赤い光が強くなる。
トーマの槍が軋んだ。
昨日の肩が、今度こそ上がらなくなった。
左腕と背中だけで押さえる。
額から汗が落ちた。
「まだ、か!」
扉が開いた。
作業員が一人、転がり出た。
もう一人は倒れた仲間の工具袋を取ろうとしている。
「置け!」
オルフェが怒鳴った。
男が顔を上げる。
「置いて出ろ!」
今度は従った。
男が敷居を越える。
トーマは槍を引いた。
横へ転がる。
観測窓が砕けた。
熱い破片が廊下を走り、壁へ突き刺さった。
*
中央へ流れる負担を止めるには、接続を切るしかなかった。
だが、急に切れば、東の守りの別の部分が落ちる。
セヴランが怒鳴るように指示を出した。
リッカが図面を広げる。
トーマには、半分も分からなかった。
ただ、床の光が流れる方向は見えた。
東から中央へ。
赤い筋が脈打つたび、眠るリシェルがその向こうにいるような気がした。
「俺を、つなげられる?」
リッカが顔を上げた。
「試験装置じゃない」
「分かってる」
「昨日、短い時間で倒れかけた」
「分かってる!」
声が大きくなった。
リッカも、睨み返した。
「分かってるなら、条件を聞いて!」
トーマは口を閉じた。
「全体は無理。一つだけ切り離す。あなたが支えるのは、その区画。セヴランさんが迂回を終えるまで。それ以上はつながない」
「……何を守ればいい」
「この弁室。ここが持てば、作業を終えられる」
彼女が接続板の覆いを剥がした。
トーマは左手を置いた。
右手に剣を呼ぶ。
握るだけなら、できた。
*
重さが、一度に来た。
試験室で受けたものとは違った。
胸の奥へ、冷たい塊を押し込まれる。
膝が折れた。
床へ座り込む寸前、オルフェが背中を支えた。
「座って! 立たなくていい!」
トーマは息を吐いた。
吐いた分を、吸い戻せない。
弁室の壁に白い光が滲んだ。
赤い亀裂の進みが止まる。
「保持!」
セヴランが叫ぶ。
修理係たちが動く。
リッカは接続板の横で、計器を見ていた。
トーマの指が震えた。
握った剣の輪郭が薄くなる。
中央へ向かう赤い筋は、まだ消えない。
それが腹立たしかった。
こんなに苦しいのに。
まだ、止まらない。
「トーマ、私を見て」
リッカの声がした。
「今、支えてる。できてるから。勝手に増やさないで」
彼は顔を上げた。
彼女の頬にも、血が乾いていた。
掌の包帯は、ほとんど赤い。
トーマは頷いた。
今は、その言葉に従った。
*
迂回が成立したのは、それから間もなくだった。
けれどトーマには、ひどく長く感じられた。
赤い光が弱まる。
接続板から手を離す。
剣が消えた。
身体を支えていた力まで、抜けた。
オルフェの腕の中へ倒れ込み、床の冷たさを頬で感じた。
遠くで、誰かがネルスを取り逃がしたと報告していた。
南側の保守路へ抜けたという。
追跡の兵は出した。
それでも、今は行方が分からない。
トーマは目を閉じた。
捕まえたかった。
殴りたかった。
どうしてこんなことをしたのか、聞きたかった。
けれど、あの時戻ったことは、間違っていないと思いたかった。
*
その晩、中央でリシェルの呼吸が乱れた。
ナギから届いた処理改善の報告を整理していたオルドが、寝室へ呼ばれた。
王妃クラリスは、娘の手を握っていた。
リシェルの眉間に、かすかな皺が寄っている。
眠っていても、苦しさは届くのかもしれなかった。
誰も断言できない。
ただ、測定板に刻まれる数値は、東からの負担が増えたことを示していた。
やがて、上昇が止まった。
下がり始める。
医師が静かに息を吐いた。
クラリスは娘の額に掛かった髪を払った。
「……怒っていいのよ」
小さく言った。
リシェルは答えなかった。
その手は、母親の掌の中で、まだ温かかった。




