帰り道
第18話 帰り道を数える
野営地に選んだ場所には、屋根が半分だけ残っていた。
街道沿いの古い荷捌き場だった。石の壁は腰ほどの高さまでしかなく、雨を避けられる場所に荷物を寄せると、人間の寝る場所は自然と狭くなる。
カイルは、壁から突き出した梁を見上げた。
「これ、夜中に落ちてこないか」
「気になるなら、その下を避けて」
ミレイは答えながら、槍の石突きで地面を確かめていた。
「そこは水が流れた跡がある。雨が降ったら濡れる」
「屋根の下は潰されるかもしれなくて、外は濡れるのか」
「まだ降ってないでしょう」
「励まし方が雑なんだよな」
ピノが荷袋を下ろし、崩れた壁の陰へ入った。
「ここなら風が弱いです。あと、寝る前に靴を逆さにしてください」
「何で」
「虫が入ります」
「聞かなきゃよかった」
カイルは今まで平気で見ていた地面を、少し慎重に見直した。
三人のほかに、荷車が一台あった。
乾燥豆と塩を西へ運ぶ親子の車だった。日暮れ前に追いつき、次の宿場までは間に合わないと聞いて、同じ場所に留まることにしたのである。
父親のベックは車輪に石を噛ませ、娘のイナは鍋に水を注いでいた。
「火はこっちでいい?」
「壁際へ寄せすぎないで。上の木が乾いてるから」
ミレイが答えると、イナは鍋を半歩動かした。
カイルがその隣へ腰を下ろす。
「何か手伝う?」
「豆を見てて。焦げそうだったら混ぜる」
「大事な仕事だ」
「さっきから何でも大事って言ってない?」
「旅に出てから、飯を作ってくれる人への感謝が深まったんだよ」
イナは十四、五歳ほどに見えた。カイルを一度見て、木匙を渡した。
「じゃあ、感謝しながら混ぜて」
*
夕食の豆は、思ったより柔らかかった。
塩漬け肉の脂が浮き、薄く切った玉葱が底に沈んでいる。カイルが二杯目を受け取ると、ベックは満足そうにうなずいた。
「西まで行くのか」
「要のある砦まで」
「兵になる?」
「まだ、そういう話じゃない」
言いながら、自分でも曖昧な答えだと思った。
ベックは追及しなかった。
「あそこは朝が早いぞ。外へ出る荷車に合わせて店を開ける。昼に着いて、朝飯を頼むと嫌な顔をされる」
「朝に頼めばいいんだろ」
「昼まで寝てるつもりの顔をしてた」
「顔で分かるのかよ」
ピノが笑った。
ミレイは笑わず、膝の上で槍の穂先を布で拭いていた。けれど口元だけは、少し緩んでいる。
カイルは椀を持ったまま尋ねた。
「ここから、あとどのくらいだ」
「明日の昼過ぎ。門が混むと夕方」
「混むのか」
「帰ってくる人数を確かめるから」
その言葉に、イナが鍋へ伸ばしかけた手を止めた。
「父さん、明日は私が札を持つからね」
「ああ」
「この前みたいに、財布と一緒に荷物の底へ入れないで」
「分かった」
「探してる間、後ろの人にずっと見られたんだから」
「あれは、荷崩れを直すために」
「分かったって言ったばっかり」
ベックは黙って豆を食べた。
ピノが自分の鞄を叩く。
「通行札は、すぐ出る場所がいいです。手紙も。頼まれて預かったものを、底に入れると忘れます」
「お前でも忘れる?」
「最初の頃は。だから今は、渡す順番に分けてます」
「俺の荷物も分けてくれないか」
「カイルさん、自分で戻す場所を変えるでしょう」
「何で知ってるんだ」
「昨日、塩が包帯の袋に入ってました」
ミレイが顔を上げた。
「だから見つからなかったの」
「濡れない場所を探して」
「包帯まで塩漬けにするつもり?」
カイルは椀の底を見た。
「あとで直す」
言い終える前に、ピノが小さな紙を差し出した。
袋の中身を書くための紙だった。
*
見張りは二人ずつ交代することになった。
ベックは夜明け前に馬の世話をするため、最初に休んだ。イナも荷車の下へ敷いた毛布に潜り、ピノは手紙の束を抱くようにして眠った。
残った火を小さくすると、街道の向こうにある木々の輪郭が見えた。
カイルは石に座り、靴紐を結び直していた。
「明日、着くんだな」
「そうね」
「着いてから、思ってたのと違ったらどうする」
「何が?」
「俺にできることが、何もなかったら」
ミレイはすぐには答えなかった。
焚き火へ細い枝を一本入れ、その先が燃えるのを見てから言った。
「調べに来たんでしょう」
「そうだけど」
「何もできないと分かるのも、調べた結果よ。そこを隠して役に立つふりをされるほうが困る」
カイルは結び目を引っ張った。
「城で言われたのと似てる」
「なら、城にはまともな人がいるのね」
「俺もいた」
「知ってる」
返事が早すぎたので、カイルは顔を上げた。
ミレイは火を見ていた。
「あなたの力が役に立たないとは思ってない。ただ、使い方を決めるのは、場所を見てからでいい」
「契約の紙は読んだ」
「紙に書いてない階段も、井戸も、人もいるでしょう」
カイルは黙った。
王城の廊下を思い出した。
地図に描けば線一本で済む場所に、朝は洗濯籠が置かれ、夕方には厨房の匂いが流れた。リシェルは日当たりのいい窓辺を選んで立ち、邪魔だと言われると、相手のほうを避けさせた。
西の要にも、そういう場所があるのだろうか。
「……まず歩いてみるか」
「そうして」
ミレイが顔を上げた。
同時に、馬が鼻を鳴らした。
*
物音は、道の正面からではなかった。
屋根のない壁の向こうで、小石が転がった。
ミレイが立ち、槍を握る。
カイルも腰を上げた。火の届かない場所に、低い影が一つ見えた。犬に似ているが、背が高すぎる。肩のあたりに硬い瘤があり、足を引きずるように動いていた。
もう一つ、左の木陰が動く。
「ピノ。起きて」
ミレイの声は小さかった。
ピノは二度目に名前を呼ばれる前に、身体を起こした。
「荷車の裏へ。二人も起こして。馬の前に立たないで」
「はい」
カイルの周囲に剣が三本現れた。
影の一つがそれを見て、横へ回った。
「何匹いる」
「見えるのは三。右は見えない」
「火を強くするか」
「その間に来る。今の明かりで合わせる」
カイルは呼吸を整えた。
剣を増やすことはできる。
そのぶん、暗闇の中で追うものも増える。仲間も、馬も、壁もある。
ミレイが槍の柄で地面を叩いた。
「正面、私。左を見て」
「分かった」
最初の獣が飛び込んだ。
槍の穂先が胸を捉えた。けれど獣は止まらず、柄へ爪を掛けたまま押し寄せる。
ミレイは踏ん張らなかった。
半歩横へ抜け、柄を回して獣の頭を石壁へ打ちつけた。
同時に左の影が走った。
カイルの一本目が進路へ突き立つ。獣は避けた。避けた先へ二本目を向けると、低く唸って後ろ足を滑らせる。
そこへ三本目を振り下ろそうとして、馬の悲鳴が上がった。
右だ。
カイルは首だけを向けかけた。
「左を見て!」
ミレイの声が飛ぶ。
彼は視線を戻した。
目の前の獣が、跳ぶ寸前だった。
剣を引き戻し、鼻先を叩き落とす。刃が浅く肩へ入り、獣は石の上を転がった。
右では、ピノが荷車の板を持ち上げていた。
馬と獣の間に立てた板へ、爪が食い込む。
「これ、長くは!」
「押さえなくていい、離して!」
ミレイが叫んだ。
ピノが手を放す。板ごと突っ込んだ獣の足が、車輪止めの石に掛かった。
その一瞬に、ミレイの槍が届いた。
*
残った一匹は、すぐには近づかなかった。
火の向こうを歩き、隙間を探している。
ベックが馬を押さえ、イナが荷車の陰で毛布を握っていた。カイルには、二人が息を止めているのが分かった。
追えば倒せるかもしれない。
ただ、追った先は暗い。
カイルは手を下ろし、剣を低い位置へ並べた。
「ピノ。俺の袋の横、縄」
「どれですか」
「塩が入ってないほう」
「今、冗談いります?」
「分かるだろ」
ピノが縄を投げた。
カイルはその端を剣の鍔へ引っかけ、一本を壁際へ動かした。縄が低く張る。
獣が足を止めた。
退路を塞がず、荷車へ回り込む隙間だけを狭める。
ミレイが一歩出た。
槍先が火を映す。
獣は口を開き、しばらく二人を見ていた。それから木々の間へ下がった。
カイルは追わなかった。
枝が揺れる音が遠ざかっても、しばらく剣を消さずにいた。
「……終わり?」
イナが尋ねた。
「戻ってこないか、もう少し見る」
ミレイが答えた。
カイルはようやく、自分の背中に汗が流れているのを感じた。
*
荷車の板には、三本の深い傷が残った。
ピノの掌も擦りむけていた。
カイルが水を注ぐと、ピノは歯を食いしばった。
「痛いか」
「痛くないように見えます?」
「悪かった」
「そこは、見えないって言ってください」
ミレイが布を裂いて渡した。
「よく離せたわね」
「持ってろって言われてたら、持ってたと思います」
「次も、無理になったら言って」
「無理になる前でも?」
「そのほうがいい」
ピノはうなずいた。
カイルは剣で張った縄を解いた。獣の血がついた部分を土で拭き、袋へ戻そうとする。
「それ、食べ物の袋です」
「……そうだった」
ピノが、怪我をしていない手で別の袋を指した。
ベックは荷車を確かめてから、三人へ頭を下げた。
「助かった」
「板、割れかけてる」
「板なら替えられる」
ベックは言い、イナの肩へ手を置いた。
娘は父の手を払いのけなかった。
その夜は、もう誰も深くは眠れなかった。
*
翌朝、ミレイはカイルの剣を見せるように言った。
彼が一本を出すと、彼女は穂先ではなく、柄の近くを指した。
「昨夜、三本目を振る前に右を見たでしょう」
「ああ」
「あれで左が空いた」
「馬が鳴いたから」
「聞くのはいい。全部、自分で確かめようとしないで」
カイルは少し黙った。
「任せろってことか」
「任せた場所を、途中で取り上げないでってこと」
言い方が違うだけのようで、少し違った。
カイルは剣を消した。
「お前が間に合わなかったら?」
「呼ぶ。昨夜のピノみたいに」
先を歩いていたピノが振り返る。
「僕、例えにされるほど立派じゃなかったですよ」
「ちゃんと声が出たでしょう」
「声だけは」
「それが出ない人もいるの」
ミレイはそこで話を切った。
道が丘の上へ出る。
西の砦が見えた。
高い石壁の内側に、煙が何本も上がっている。塔だけの場所だと思っていたカイルは、足を止めた。
屋根が多かった。
物干し竿が見えた。壁の近くに畑があり、門へ続く道には、荷車と歩く人の列ができていた。
「あそこ、全部?」
「砦町はもっと奥まである。要の敷地は、その内側」
ミレイが指を上げた。
奥に、色の違う壁が見えた。
カイルはその幅を目で測ろうとして、やめた。
まだ、何も歩いていない。
*
門番は人数を数え、札を確かめた。
イナが胸を張って通行札を出すと、ベックは何も言わずに横へ立った。
ピノも書類を出した。
門番はそこに押された印を見て、顔を上げる。
「中央からの?」
「カイルです」
「聞いている。守備隊長を呼ぶから、脇で待ってくれ」
カイルは門を見上げた。
外側には深い傷がいくつもあった。内側には、小さな字で数字が並んでいる。何かを数えた跡らしかった。
「出た人数と、帰った人数」
ミレイが言った。
カイルが尋ねる前だった。
やがて、革の上着を着た大柄な男が歩いてきた。胸当ては着けておらず、片手にパンを持っている。
「ダリオだ。待たせたな」
「いえ」
「まず、寝床へ案内する。話は飯のあとだ」
「先に設備を見なくていいんですか」
「眠そうな顔で重大な話をするな。昨夜、何かあったんだろう」
カイルはミレイを見た。
彼女は肩をすくめただけだった。
ダリオはパンをかじり、門の内側へ歩きだす。
「帰る道は見てきたか」
「今、通ってきました」
「ならいい。ここへ来る奴には、最初にそれを聞く」
カイルはもう一度、開いた門を振り返った。
門番が板に数字を書き足していた。
三人分の線が、帰ってきた者の側へ加えられた。




