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余計な

第十七話 荷札の裏側


 朝になっても、歯車の番号は変わらなかった。


 当たり前のことなのに、トーマはもう一度、書類と部品を見比べた。


 東側の中継設備へ送られるはずの品。

 それが、町の揚水場へ届いていた。


 しかも、正常な部品ではない。


「わざと、なのか」


 トーマが尋ねると、リッカは首を振った。


「まだ、そこまではわからない」


「でも、行き先が違うんだろ」


「荷が混ざることはある。番号を間違えることもある。古い部品を、間違って新しい箱へ入れることだって……なくはない」


「なくはない、って顔じゃないな」


「そうね」


 リッカは紙を卓上へ置いた。


「でも、嫌な感じがするから犯人だって言ったら、あとで全部ひっくり返るでしょ」


 ハインが隣で頷いた。


「まず、どこで荷を積み替えたかだ」


 オルフェは椅子へもたれたまま、運送状を見ていた。


「川沿いの荷扱い所。昨日聞いた便も、そこを通ってる」


「行ってみるか」


 トーマが立ち上がりかける。


 リッカが袖を掴んだ。


「朝飯」


「後でも——」


「親方が焼いたパン、冷えると硬いの」


 ハインが顔を上げた。


「焼いたんじゃない。温めたんだ」


「だったら、もう少し上手に温めて」


「文句があるなら自分でやれ」


「次はそうする」


 トーマは椅子へ座り直した。


 パンは、確かに硬かった。


     *


 荷扱い所には、朝から人が集まっていた。


 川船から荷を下ろす者。

 受け取りの札を持って待つ者。

 料金について揉めている者。


 建物の前を荷車が何度も行き来し、足を止める場所さえ選ばなければならない。


「ここで、一つの箱の話を聞くのか」


 トーマが言う。


「箱じゃなくて、番号から」


 オルフェは答えた。


「人の顔より、番号の方が残る仕事もある」


 窓口の男は、三人を見るなり忙しそうに眉を寄せた。


「受け取りか、発送か」


「問い合わせです」


「そっちの列」


「町の揚水場へ届いた荷について。部品の取り違えがあった可能性が——」


「問い合わせは、そっちの列」


 オルフェは素直に移動した。


 トーマも続く。


 リッカだけが少し窓口を見つめていたが、やがて黙って列へ並んだ。


「怒らないんだな」


 トーマが小声で言う。


 オルフェは肩をすくめた。


「怒れば早くなるなら、みんな怒鳴ってる」


「中央の紹介状、使えないのか」


「使えるかもしれない。でも、あれは荷の帳簿を好きに開かせるためのものじゃないだろ」


 トーマは懐へ伸ばしかけた手を戻した。


 列の先では、杖をついた老人が小さな箱を抱えている。


 自分たちの用事だけが急ぎではなかった。


     *


 順番が来るまで、思ったより時間がかかった。


 対応したのは、灰色の髪をきつく結んだ女だった。


 名札には、ネラとある。


 彼女は運送状を見ると、台帳を取り出した。


「この番号なら、四日前ね。荷主の印は?」


 リッカが写しを出す。


 ネラの指が止まった。


「……これは、うちで使う控えと違う」


「どう違います?」


「ここ。発送元の欄が広すぎる。うちの用紙は、この下に検品者の名前が入るの」


 オルフェが身を乗り出した。


「別の場所で写し直したものですか」


「ありえる。ただ、普通は元の番号も添えるわ」


 ネラは台帳をめくり直した。


 数行を指で追い、眉間を寄せる。


「こっちの記録だと、町の揚水場へ送ったのは二箱。あなたたちの紙は三箱になってる」


 トーマはリッカを見た。


 彼女はすぐに別の紙を出した。

 ハインが保管していた受領の控えだった。


「確かに三箱受け取ってる。見習いが数えて、親方も確認してる」


「なら、一箱増えてる」


 ネラは奥の係員を呼んだ。


 声が少し低くなっていた。


     *


 裏の保管庫へ入る許可が出たのは、さらにしばらく後だった。


 ネラ自身が案内する。


「触る前に、声をかけて。所有者が違うから」


「わかりました」


 オルフェが頷いた。


 トーマは、立ち並ぶ木箱を見上げた。


 大きさも形も違う。

 同じ印の箱が、離れた場所に置かれていることもあった。


「これ、よく間違えないな」


「間違えるわよ」


 ネラはあっさり答えた。


「だから数えるし、書くし、受け取った側にも確かめてもらうの。一人が間違えたら終わり、では困るでしょう」


 リッカが低く言った。


「……その確認を、通ったのね」


「そう。だから困ってる」


 問題の荷が置かれていたという区画で、オルフェが立ち止まった。


 床へ片手を当てる。


 《残響》。


 トーマは話しかけずに待った。


 聞こえるものがあるときも、ないときもある。

 前にそれを説明されたときは、もう少し便利な力だと思っていたことを見抜かれ、オルフェに笑われた。


 やがて、彼が顔を上げる。


「車輪。箱を下ろす音。誰かが、急げと言ってる」


 ネラが尋ねた。


「誰か、わかる?」


「いや。ここは音が多い」


「ほかには?」


 オルフェはもう一度、目を閉じた。


 少し長く、黙っていた。


「……鐘が鳴ってる。たぶん、荷揚げの交代の鐘。それから『赤い方は戻せ』」


 リッカが顔を上げた。


「赤い方?」


「それ以上は、わからない。箱か、札か、人の服かもしれない」


 オルフェは立ち上がった。


 少し顔色が悪い。


 トーマが水筒を差し出すと、素直に受け取った。


「声の主を見つけられたりは——」


 ネラが言いかける。


 オルフェは水を飲んでから答えた。


「目の前で同じ言葉を聞いても、断言できるかはわからない。濡れた紙の文字を読むようなものだから」


 ネラは頷いた。


「わかった。じゃあ、台帳と照らすための手掛かりにする」


「それがいい」


     *


 赤い札は、保管庫の奥にあった。


 破損や規格違いで、返送待ちになった荷へつけるものだった。


 リッカは、その一つの前で足を止めた。


「これ、開けていい?」


 ネラが番号を確認する。


「係員を呼ぶわ。返送元の控えと一緒に」


 箱を開くと、中には歯車が入っていた。


 トーマには、昨日のものと似ているように見えた。


 リッカは違った。


 すぐにしゃがみ、歯の根元へ指を近づける。

 触れずに止めた。


「ここ、見て」


 油の下に、細い切り込みがあった。


「古い工房印。塗り潰してあるけど、残ってる」


「同じ物?」


「少なくとも、同じ工房で作られたもの」


 ネラが返送の控えを見る。


「規格不適合。検収で止めた荷ね。三箱」


「三箱?」


 リッカが立ち上がった。


 周囲を見回す。


 赤い札のついた箱は、二つしかなかった。


 ネラの表情が変わった。


「……数え直す」


     *


 それから、保管庫の空気が慌ただしくなった。


 荷の出入りが一度止められ、係員が集められる。


 トーマたちは壁際へ下がった。


「何か、手伝えるか」


 トーマが言うと、ネラは首を振った。


「今は、そこにいて。外の人が触ると、何が動いたかわからなくなる」


 待つしかなかった。


 その時間が、トーマには長く感じられた。


 リッカも落ち着かないのか、工具袋の留め具を触っている。


「……俺たち、今日出るつもりだったよな」


「そうね」


「遅れるな」


「そうね」


「責めてるわけじゃないぞ」


「わかってる」


 少し間が空いた。


 リッカが、彼を見ずに言う。


「でも、考えたでしょ。この町の機械より、要の方が大事なんじゃないかって」


 トーマはすぐに否定できなかった。


「少し」


「私も」


 それは意外な返事だった。


「親方がいるんだから、任せて行けばいいって。機械のことだけなら、私がいなくても、何とかすると思う」


「じゃあ、何で残った?」


 リッカは返事を探すように、保管庫の奥を見た。


「宿場の箱を見てなかったら、行ったかもしれない。ここで同じものを見つけたのに、知らないふりして進むのは……嫌だった」


 トーマは頷いた。


「俺も、今は行きたくない」


「遅れるのに?」


「ああ。何もわからないまま行ったら、先で同じ箱を見ても、また止まるだろ」


 オルフェが壁にもたれたまま言った。


「それなら、中央への報告にそう書こう。勝手に遅れたのを隠すより、理由がわかる方がいい」


 リッカは、ようやく留め具から手を離した。


     *


 騒ぎが起きたのは、その直後だった。


 保管庫の脇の扉で、若い係員が別の男に呼び止められている。


「その紙、どこへ持ってく」


「外の窓口だよ」


「今は動かすなって言われただろ」


「急ぎなんだ」


 若い係員は押し退けるようにして外へ出た。


 ネラが叫ぶ。


「止めて!」


 トーマは走った。


 係員は、荷車の間を抜けていく。

 追えば捕まえられそうだった。


 だが、先には荷を積み上げた狭い通路がある。

 逃げる男が肩で木箱を押した。


 箱が傾いた。


 下にいた荷運びの少年が、顔を上げる。


 トーマは進む向きを変えた。


 槍を出し、床へ突く。

 柄を斜めにして、倒れてくる箱を受けた。


 腕へ重さがかかった。


「離れろ!」


 少年が這うように逃げる。


 箱の角が肩へ当たった。

 痛みはあったが、身体は崩れなかった。


 歯を食いしばり、足を踏み直す。


 誰かが反対側を支えた。


 荷運びの男たちだった。


「そのまま!」


「下へ置くぞ!」


 声に合わせ、箱を降ろす。


 トーマが顔を上げたとき、逃げた係員の姿はもうなかった。


「くそっ」


 思わず言葉が漏れた。


 オルフェが追いついてきた。


「見えたか?」


「奥へ行った。俺が追ってれば——」


「奥の門を閉めてもらった。ネラさんが回してる」


 トーマは息を吐いた。


 守られた少年が、すぐ近くで立ち尽くしていた。


 トーマは顔を向ける。


「怪我は?」


 少年は首を振った。


「よかった」


 今度は、ちゃんと言えた。


     *


 係員は、船着き場へ出る手前で捕まった。


 取り押さえたのは、荷扱い所の古参二人だった。


 トーマたちが戻ると、若い男は椅子へ座らされていた。

 顔は青く、右手には破れた紙が握られている。


 ネラは怒鳴らなかった。


「レンツ。何を動かしたの」


 男は黙っていた。


「さっきの紙だけじゃないでしょう。何を動かしたか、言って」


「……札を」


「どの札」


「返送のやつと、町へ出すやつ」


 リッカが息を吸った。


 ネラは続けた。


「誰に言われたの」


「知らない。名前は、聞いてない」


「金は?」


 レンツは唇を噛んだ。


 それで答えになった。


 リッカが一歩出た。


「何に使う部品か、知ってた?」


「町の機械だって」


「水が上がらなくなった」


「そこまでなるとは——」


「使えないから戻す箱だったんでしょ!」


 男が肩を縮めた。


 リッカの声は、それ以上出なかった。


 拳を握り、何かを堪えている。


 オルフェが、静かに隣へ立った。


 触れはしなかった。


 しばらくして、ネラが衛兵を呼ぶよう係員へ頼んだ。


 この先を聞くのは、自分たちの仕事ではなかった。


     *


 夕方、ハイン工房へ戻ると、親方は三人の顔を見ただけで椅子を出した。


「飯の前に手を洗え」


「報告がある」


 リッカが言った。


「洗ってから聞く」


「親方」


「顔まで真っ黒だ。何をしてきた」


 トーマが自分の肩を見る。

 箱の油がついていた。


 リッカは頬を擦り、さらに汚した。


 ハインは深く息を吐き、布を投げた。


「昔から変わらんな、お前は」


 洗い場で、リッカは乱暴に手を洗った。


 油がなかなか落ちない。


 トーマは隣で待った。


「……言いすぎたかな」


 彼女が呟いた。


「係員に?」


「うん」


「町の水、止まったんだろ」


「そうだけど。あいつ一人が考えたわけじゃない。だからって、悪くないとは思わないけど」


 指の間を擦る。


「怒鳴ったら、ほかのことが聞けなくなった」


 トーマは桶の水を替えた。


「俺は、逃がしかけた」


「箱、倒れたんでしょ」


「ああ」


「だったら、あそこで止まってよかったじゃない」


「俺もそう思う。でも、最初は思えなかった」


 リッカが顔を上げる。


 トーマは少し笑った。


「捕まえ損ねたって、そっちを先に考えた」


「……そう」


「うん」


 二人はしばらく黙って手を洗った。


 先に汚れが落ちたのは、リッカだった。


 彼女は布を取ると、トーマの手元を覗き込んだ。


「そこ。親指の下」


「まだついてる?」


「ついてる。油の仕事、向いてないわね」


「今日、初めてだぞ」


「だったら、もう少し丁寧に洗いなさい」


     *


 食後、ネラから使いが来た。


 荷の照合は続いている。

 レンツの証言も、裏付けを取らなければならない。


 ただ、一つだけわかったことがあった。


 本来そこに残っているはずの、正常な部品の箱がない。


 出荷の控えには、東の中継設備へ向かう便の番号が書かれていた。


「じゃあ、そっちへ本物が行ったのか?」


 トーマが尋ねる。


 ハインは使いの文書を読み、首を振った。


「そうとは限らん。帳面に書いてあるだけだ」


 リッカが目を伏せた。


 町に紛れ込んだのは、不良品。

 消えたのは、使える部品。


 単に金を抜くためだったのか。

 別の場所へ売られたのか。

 それとも、もっと先で何かが起きるのか。


 まだ、わからない。


「受け取る側へ、照合してもらわないと」


 リッカが言った。


 ハインは頷き、別の紙を差し出した。


「紹介状だ。東の都に、昔の仕事仲間がいる。口は悪いが、番号をごまかす奴じゃない」


 オルフェが小さく笑った。


「似た者同士ですね」


「俺は口が悪いんじゃない。言うべきことを言っとる」


 リッカが目を細めた。


「それ、師匠も同じこと言いそう」


「師匠と呼ぶ気があるなら、鋏を出せ。研ぎ方を見てやる」


「自分でできる」


「なら見せろ」


 彼女はしばらく親方を見ていた。

 それから、工具袋を開いた。


     *


 翌朝、出発の支度は早く済んだ。


 揚水機は、まだゆっくりとしか回っていない。

 それでも、上の区画へ水は届いていた。


 町の門へ向かう途中、リッカは一度だけ振り返った。


 ハイン工房の前で、親方が腕を組んでいる。


「また寄れよ」


 大きな声ではなかった。


 リッカは頷いた。


「次は、工具箱の帯、自分で確かめてから来る」


「当たり前だ」


「パンも、私が温める」


「余計な世話だ」


 彼女は笑った。


 歩き出してからも、その顔が少し残っていた。


 トーマは肩の工具箱を持ち直す。


「……そんなに見なくても、今日は締めたぞ」


「見てない」


「今、見た」


「信用の確認」


「信用してない言い方だろ、それ」


 オルフェが前で笑った。


 門を出ると、道は東へ続いていた。


 予定より遅れた。

 荷物も増えた。


 中央へ送った報告には、その理由を全部書いた。


 そしてリッカの鞄には、荷の番号を写した紙と、親方の紹介状が入っている。


 今度は、受け取った側へ確かめに行く番だった。

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