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風よ吹け

第十五話 水の上がらない町


 東へ進むにつれ、道端に金属が増えた。


 畑の柵。

 水路に渡された板。

 荷車の軸を覆う補強。


 どれも新しいとは限らなかった。錆びた鉄を継ぎ直し、古い部品へ別の穴を開け、元の用途がわからないものまで使われている。


 トーマが感心して見ていると、リッカが言った。


「あれ、蒸気管の受け金具」


「どれ?」


「あそこの鶏小屋の扉」


「よくわかるな」


「同じのを一日中磨かされたことがあるから」


 リッカは顔をしかめた。


「溝に油が溜まるの。拭いても拭いても出てきて、綺麗になったと思って持ち上げると、裏からまた垂れる」


「それで覚えたのか」


「忘れたくても覚えてるわよ。あれを見るたびに、爪の隙間まで黒くなったのを思い出すんだから」


 前を歩くオルフェが振り返った。


「俺は、君が鶏小屋を嫌ってるのかと思ってた」


「鶏は好きよ」


「食べる方?」


「どっちも」


「その返事、鶏には聞かせない方がいいな」


 トーマが笑うと、リッカは彼の肩の荷物を指した。


「笑ってないで、少し左へ寄せて。工具箱が傾いてる」


「また?」


「重い方が下」


「そうしたはずなんだけど」


「歩くたびに揺らすから」


「歩くなってことか?」


「そこまで言ってない!」


 オルフェは楽しそうに先へ歩いた。


 町の門が見えてきたのは、その少し後だった。


     *


 鐘が鳴っていた。


 時刻を知らせる音にしては、短く、回数も多い。


 門をくぐると、水桶を抱えた人々が同じ方向へ歩いていた。


 トーマたちも、その流れを避けて道の端へ寄る。


「何かあったんですか」


 オルフェが通りかかった女へ尋ねた。


「揚水機が止まったんだよ。上の区画へ水が上がらなくてね。井戸が開いてるうちに汲んでおかないと」


「いつから?」


「昨日の夕方。役所は昼には直るって言ってるけど、昨日も同じこと言ってたからね」


 女は足を止めずに答え、広場へ消えた。


 リッカの歩く速さが落ちた。


 トーマが気づく。


「この町、来たことあるのか」


「……ある」


「知り合いでも?」


「いるけど」


「じゃあ、聞いてみるか。宿も紹介してもらえるかもしれないし」


 リッカは返事をしなかった。


 オルフェが横から口を挟む。


「会いたくない知り合いなら、別に会わなくてもいいぞ」


「会いたくないとは言ってない」


「そうか。なら、知り合いの名前だけでも教えてくれ。町中の扉を叩いて回るのは大変だ」


「……ハイン工房」


 その名を聞いた荷運びの男が、こちらを見た。


「ハインなら、揚水場だよ。昨夜から帰ってない」


 リッカは短く礼を言った。


 その顔を見て、トーマは宿の話を引っ込めた。


     *


 揚水場は町の低い側にあった。


 川から引いた水を、巨大な車輪と歯車で上の貯水槽へ送る。

 その仕組みの大半は、トーマにはわからない。


 わかったのは、本来回っているはずのものが、全部止まっていることだけだった。


 建物の中から、怒鳴り声がした。


「叩くな! そこを叩いて直るなら、昨日のうちに俺が叩いとる!」


 リッカが目を閉じた。


「元気そうだな」


 トーマが言う。


「声だけは、昔から」


「昔って、そんなに前でもないだろ?」


「……入るわよ」


 戸を押すと、油と熱い金属の匂いがした。


 白髪交じりの男が、若い職人の手から槌を取り上げている。


 男は振り向き、リッカを見るなり眉を上げた。


「お前、何しに戻った」


「挨拶くらいないの?」


「あるぞ。久しぶりだな。何しに戻った」


「相変わらずね」


「お前もな。工具箱の帯が緩んどる」


 リッカがトーマを見た。


 トーマは黙って箱を床へ下ろした。


「俺が持ってました」


「なら、お前が直せ。落とすと中身だけで済まんぞ」


「はい」


 ハインはそれだけ言うと、再び機械へ向き直った。


 リッカは腕を組む。


「壊れたの、主軸?」


「主軸なら、ここまで腹は立たん」


「歯車?」


「見ろ」


 差し出された部品を受け取った瞬間、リッカの顔が変わった。


 トーマにも、その変化はわかった。


 宿場で見たものと似ていた。

 新品のように塗装されているのに、歯の根元には古い油が残っている。


「……これ、どこから」


「町の共同調達だ。指定の荷が来たから入れた。半日で軸受けが鳴き始めた」


「合わせたの?」


「合わせたから、腹が立っとるんだ」


 ハインは部品を指で叩いた。


「外の寸法だけは合っとる。中が違う」


     *


 その後の会話は、トーマには半分も理解できなかった。


 歯の角度。

 軸との遊び。

 表面の処理。


 リッカとハインは互いの言葉へかぶせるように話し、ときどき黙って同じ場所を見た。


 喧嘩をしているようにも、息が合っているようにも見える。


「お二人、師弟ですか」


 トーマが若い職人へ尋ねると、男は頷いた。


「元、だけどね。俺はサジ。あの子の二年上」


「揉めて辞めたとか?」


「聞こえるわよ」


 リッカが振り返った。


 サジは肩をすくめる。


「俺はまだ何も言ってない」


「言いそうだった」


「言うほど知らないだろ。お前、最後の日も親方と二人で話してたし」


 トーマは口を閉じた。


 リッカが気まずそうに工具へ手を伸ばす。


 ハインは、その手から大きな締め具を取った。


「そっちじゃない。先に支えろ」


「わかってる」


「わかってる手の動きじゃなかった」


「……はい」


 その返事だけ、いつものリッカより幼く聞こえた。


 オルフェがトーマの袖を引く。


「俺たちは、水運びの方を聞こう」


「手伝わなくていいのか?」


「ここじゃ、立ってるだけで邪魔になりそうだ」


「俺も、そう思ってたところだ」


 二人が出ていくとき、リッカは何も言わなかった。


     *


 上の区画には、共同の洗濯場と、小さな施療所があった。


 水を必要とする場所を聞いて回った結果、トーマたちは桶を二つずつ運ぶことになった。


 坂は長い。


 二往復目で、トーマは早くも後悔し始めた。


「……水って、こんな重かったか」


「重いぞ」


「知ってるけど」


「じゃあ、聞くなよ」


 オルフェは笑い、途中の石段へ桶を置いた。


「ここで休む」


「まだ上まである」


「あるから休むんだ」


 トーマも隣へ座った。


 肩の痛みはかなり引いていたが、桶を持つと、まだ少し響く。


 それを見抜かれたのか、オルフェが彼の腕を見る。


「片方ずつにするか?」


「いや。持てる」


「持てるのは見ればわかる。俺が聞いてるのは、次も同じだけ持って往復するつもりかってこと」


 トーマは坂の上を見た。


 施療所まで、あと半分ほどある。


「……次は片方にする」


「よし。俺もそうする」


「オルフェも?」


「俺だけ二つ持ったら、君、また二つ持つだろ」


 トーマは返事に困った。


 オルフェは、返事を待たずに水筒を渡してきた。


「それに、俺だって疲れる。君と同じ年じゃないんだぞ」


「まだ若いだろ」


「君くらいの頃は、俺もそう言ったなあ」


「急に年寄りみたいなこと言うなよ」


「年寄り扱いするなら、桶を一つ持ってくれ」


「それだと、俺が三つになるだろ!」


 二人の声に、窓辺の老女が笑った。


「若いの。上へ行くなら、ついでにこれも持っておくれ」


 差し出されたのは、空の水差しだった。


 オルフェがトーマを見る。


 トーマは息を吐き、立ち上がった。


「空なら、まだいける」


     *


 昼過ぎ、揚水場へ戻ると、機械はまだ止まっていた。


 ただし、床に並ぶ部品は増えている。


 リッカは頬に油をつけ、図面を睨んでいた。


「どうだ?」


「正しい部品が来るまで、元には戻せない」


「それは……何日くらい?」


「問い合わせてる。けど、同じところから同じ物を送られたら困るでしょ」


 机には、宿場で描いた記録が置かれていた。


 リッカはハインへ、それを見せたらしい。


「応急処置は?」


 オルフェが尋ねる。


「古い方を戻す。ただ、もう摩耗してるから、前と同じ速さでは回せない」


 ハインが答えた。


「水は上がるんですか」


「少しはな。全部の区画へ一度には無理だ。町の連中と、順番を決めなきゃならん」


 それを聞いたトーマは、施療所のことを話した。


 ハインは頷いたが、すぐに別の名前を挙げる。


 共同炊事場。

 家畜の水槽。

 上の区画の井戸を持たない家々。


 どれも後回しにはしづらかった。


「機械だけ直せば終わりじゃないんだな」


 トーマが漏らすと、リッカは疲れた顔で笑った。


「直ったら、みんな自分の蛇口を開けるもの」


 その笑いが、すぐに消えた。


 ハインが図面の一箇所を指したからだった。


「ここ、お前が書いたのか」


「そうだけど」


「荷の固定の跡まで描いたのは、いい」


 リッカが黙った。


「……何よ」


「いいと言った」


「聞こえた」


「なら、返事をしろ」


「ありがとう」


 その声は、ひどく小さかった。


 トーマは聞こえなかったふりをした。


     *


 機械を再び動かしたのは、夕方だった。


 軸が回り始めると、床から低い振動が伝わってきた。


 トーマは思わず身構える。


 ハインが鼻を鳴らした。


「剣は出すなよ。怖がらせるだけだ」


「機械を?」


「働いてる奴をだ」


「ああ……すみません」


 サジが笑いながら、横で水位を見ている。


 リッカは歯車の近くで、音を聞いていた。

 片手を木枠へ当て、振動を確かめる。


 少しして、彼女が親指を立てた。


 上の槽へ向かう管が、ゆっくりと震え始める。


 外から歓声が上がった。


 それを聞いた瞬間、リッカの肩が下がった。


 長く息を止めていた人のようだった。


「直った?」


 トーマが尋ねる。


「仮に動いた」


「……そっか」


「嬉しそうな顔、引っ込めなくていいわよ。私だって嬉しいし」


「じゃあ、よかった」


「うん。今のところは」


 彼女はもう一度、機械へ耳を向けた。


     *


 その夜、ハイン工房の二階を借りることになった。


 食卓には煮込みと、黒いパンが並んだ。

 ハインは食べながらも、リッカの工具の手入れに文句を言っていた。


「小さい方の鋏、刃先をぶつけたな」


「道で使ったの」


「何に」


「車輪止めの縄」


「なら、使った後に研げ」


「帰ったら研ぐつもりだった」


「帰っとるだろうが」


 トーマは匙を止めた。


 リッカも止めた。


 ハインだけが、何も気づいていないように煮込みを食べている。


「……私、ここへ戻ってきたわけじゃないから」


「知っとる。中央から仕事を受けて、東の要へ行くんだろ」


「だったら」


「寝床を貸しただけで、弟子に戻した覚えはない」


 リッカはパンをちぎった。


「そう」


「ただ、鋏は研げ」


「わかったわよ」


 オルフェが水を飲み、さりげなく話を変えた。


「中央への郵便は、どこで出せます?」


「朝に組合の荷が出る。一緒に頼め」


「東西の中継も?」


「大きい便ならな」


 トーマは鞄の中の便箋を思い出した。


 カイルへ書くことが、また増えた。


 水桶二つで息が上がったこと。

 東の機械は大きく、止まると町中が困ること。

 リッカにも、言い返せない相手がいたこと。


 最後の一つは、本人に見られたら怒られそうだった。


     *


 夜更け、階下で紙の擦れる音がした。


 トーマが降りると、リッカとハインが同じ卓を囲んでいた。


「起こした?」


「いや。水を飲みに」


 リッカは書類を寄せた。


 宿場で見た荷の記録。

 この町へ届いた納品書。


 二つの隅に、同じ印があった。


 歯車を三つ重ねた商会印。


「同じところから来たのか」


「途中まではね」


 リッカの指が、さらに下へ滑った。


「でも、この番号は町の揚水機に使うものじゃない」


 ハインが椅子へもたれた。


「北東の中継設備向けだ。本来は、もっと先へ送る荷だったはずだ」


「中継設備って」


 トーマは尋ねかけて、二人の顔を見た。


 リッカが頷く。


「大結界の、東側の設備につながってる」


 卓上の灯りが揺れた。


 上の部屋では、オルフェの足音が止まっていた。

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