境界
第十四話 幕を下ろすまで
翌朝、ガレスは太鼓の音で目を覚ました。
低く、間を置いて、三度。
それから短い連打。
敵襲を知らせる鐘とは違う。だが、寝床の中で聞き流してよい音でもなかった。
跳ね起きて扉を開けると、廊下に小さな太鼓奏者が立っていた。
「……お前か」
奏者は片手を上げた。
「いや、挨拶じゃなくてな。朝から何なんだ」
「起床のお時間です」
階段の下から、ロゼッタの声がした。
「呼びかけました。扉も叩きました。二度、お返事もいただきました」
「返事したなら、起きてたんじゃないか?」
「『俺は右の道を行く』と仰っていましたので」
「夢の続きだな」
「存じております」
ロゼッタは湯の入った桶を置いた。
「お顔を洗って食堂へ。ルカ様が、風の練習を始める前に説明したいそうです」
「朝飯は?」
「説明を聞きながらでも食べられます」
「それならいいか」
「口の中に物を入れたまま質問なさらないでください。昨日はルカ様がお答えになる前に、三度聞き直していました」
ガレスは桶の前にしゃがんだ。
窓から入る朝の光は弱かった。
昨日より、空が白い。
*
ルカの説明は、パン一個分では終わらなかった。
「風を押し返そうとすると、逆に乱れるんです。沢の流れを手で止めようとするのと同じで」
「じゃあ横へ逃がす?」
「それでいいんですが、全部同じ向きに流せばいいわけじゃなくて……」
少年は卓上へ紙を広げ、曲がった矢印を描いた。
ガレスも身を乗り出す。
「こっちから来たのを、ここで曲げる」
「はい」
「なら、こっちにも出せば、両側へ分けられるな」
「できれば、です」
「できれば?」
「今のガレスさんは、一方向を保つだけで手いっぱいです」
「はっきり言うなあ」
「曖昧に言うと、できると思って試すでしょう」
向かいに座るセラフィナが、茶器で口元を隠した。
「よくわかっているわね」
「二人とも、俺を何だと思ってるんだ」
「教えたことを、すぐ実際に使ってくださる方です」
ルカが真面目に答える。
ガレスは少し困った顔になった。
「そう言われると、怒れんな」
「途中を飛ばさなければ、もっといいんですけど」
「最後の一言が余計だ」
そのとき、食堂の扉が開いた。
駆け込んできた兵士の肩には、白い粉のようなものがついていた。
「北東から報告です。沢筋に灰の流れが出ています」
ルカが立ち上がった。
「ミルネは?」
「村にはまだ。水車小屋の上流で、見張りが獣影を確認しました。二頭、あるいは三頭」
セラフィナは茶器を置いた。
「村人は?」
「粉挽きと、その手伝いの男が小屋に。見張りが退避を促したところ、手伝いの男が足を負傷していて、運び出せていないと」
ガレスは残りのパンを口へ放り込み、椅子から立った。
ルカも荷物を取りに走ろうとする。
「ルカ」
セラフィナが呼び止めた。
「昨日と同じ準備で。測定用の重い器具は置いていきなさい。薬と、合図用の灯りを」
「はい」
「それから、食べかけのパンも」
少年は一瞬、卓上を見た。
掴んで外套の袋へ入れる。
ロゼッタは、もう鞄を肩に掛けていた。
*
途中までは馬を使った。
道が狭くなる場所で降り、先行していた兵士と合流する。
空気の中に、焦げた匂いが混じっていた。
木々の向こうで、大結界の光が薄く揺れている。普段は注意しなければ見えない境界が、今日は白く浮かんでいた。
「外で何か燃えてるのか」
ガレスが尋ねると、兵士は首を振った。
「火は見えません。ただ、尾根の向こうから灰が」
ルカが杖の先を上げた。
漂ってきた灰の一粒が、先端の光に触れて弾ける。
「触らないでください。服についた分も、手で払わない方がいいです」
「毒か?」
「まだ、わかりません」
答える声が硬い。
ガレスは少年の肩を軽く叩いた。
「わからん分は、近づかないってことでいいな」
「……はい」
村の家々には、すでに戸が閉められていた。
村長だけが道の分かれ目に立っている。
「小屋にはユラと、甥のテオがいます。テオは足場から落ちたんです。獣にやられたわけではありません」
「わかった。村の人は?」
「全員、こちらに。ですがユラが、私が行くと言っても戻ってこなくて」
「俺たちが行く。村長さんは、ここで待っててくれ」
「私も道くらいは——」
「帰ってきたときに、誰がいるか数えてほしいんだ。知らない顔が混じってても、俺じゃわからん」
村長は口を閉じた。
それから、強く頷いた。
*
水車は止まっていた。
昨日は絶えず聞こえていた石臼の音がなく、代わりに、水が木枠へ打ちつける音だけが響いている。
小屋の戸口に、槍を持った見張りがいた。
もう一人は、少し離れた荷車の陰で膝をついている。
その前を、低い獣影が横切った。
大きな犬に似ていた。
ただし背中の毛がところどころ抜け、皮膚の下に黒い塊が浮いている。沢の水へ足を入れても嫌がらず、浅瀬を回り込もうとしていた。
「二頭見える」
ガレスは剣の柄に手を置いた。
「三頭目は?」
「上流です。さっきから姿が見えなくなって——」
見張りの言葉を遮って、屋根の上で瓦が鳴った。
ガレスが顔を上げる。
小屋の裏手の斜面から飛び移った獣が、軒先へ爪を掛けていた。
「中に入れ!」
見張りを押し込み、ガレスは戸口へ立った。
飛びかかった獣の前脚を、剣の腹で受ける。
重かった。
爪が肩当てを削り、火花が散った。
ガレスは踏みとどまったが、続く噛みつきには付き合わず、身体を横へ逃がした。獣が戸口を通り過ぎる前に、剣を返して首筋へ打ち込む。
獣は土を掻き、動かなくなった。
「ガレス!」
「生きてる。肩もある」
セラフィナへ答えながら、二頭目を見る。
食い縛りがあるからといって、受けてよい攻撃ではない。
今の一撃が防具を抜いていれば、その後に何が残るかもわからなかった。
ガレスは剣先を低く保った。
「ロゼッタ、小屋の横。昨日の場所を使えるか」
「使います。瓦には近づかないでください」
「今日は登らん!」
小さな黒衣の一団が、鞄から飛び出した。
舞台を飾る幕は張らない。
風下へ低い板を置き、足元の石をどけ、演奏者を囲むように配置する。
ロゼッタが指を上げた。
短い前奏。
昨日より速く、けれど急かす音ではなかった。
セラフィナがガレスの背へ触れる。
力が入ってくる。
足元に光が広がり、戸口と、そこから村へ続く細道の一部を包んだ。
「ルカ、中を見て!」
少年が小屋へ駆け込む。
「ユラさん!」
「ここ!」
粉袋の陰で、若い男が座り込んでいた。
足首は大きく腫れ、無理に立とうとした跡なのか、床に引きずった線が残っている。
ユラが男の肩を支えていた。
「置いていけと言うんですよ、この子」
「おばさんが一人で担ごうとするからだろ」
「一人で来たわけじゃないでしょう。見張りの人もいたのに」
「その見張りが獣を止めてたんだろ!」
「喧嘩は後でお願いします!」
ルカの声に、二人が同時に口を閉じた。
少年自身、驚いた顔をした。
それでもすぐに、袋から固定用の布を取り出した。
「歩けるかどうか、試さなくていいです。運びます。痛むところを教えてください」
*
外では、二頭の獣が光の縁を回っていた。
一頭が鼻先を押し込み、嫌がるように退く。
もう一頭は沢へ戻り、距離を取った。
「追わないで」
セラフィナが言った。
「わかってる」
「本当に?」
「昨日も言ったろ。お前、俺への信用が薄くないか」
「あなたの足の速さを信用しているのよ。追いかければ、すぐ届いてしまうでしょう」
「それは褒めてるな」
「今は、そういうことにしておきなさい」
ガレスは笑い、剣を持つ手を緩めた。
握りしめすぎると、次の動きが鈍る。
教わったことを、ひとつずつ思い出す。
沢から、灰を含んだ風が吹いた。
光の右端が大きくへこんだ。
セラフィナの息が詰まる。
ガレスは足元へ風を流した。
押し返さない。
流れてきたものを、少しだけ横へ逃がす。
うまくいったのは、ほんの短い間だった。
次の風に足元の灰が舞い上がり、ガレスは目を細めた。
「今のは、駄目だな」
「喋れるうちは、大丈夫そうね」
「黙ったら心配してくれ」
「黙る前に言いなさい」
小屋から、見張り二人が戸板を運び出した。
その上にテオが寝かされている。
ユラが荷物を取りに戻ろうとした。
「粉は置いていってください」
ルカが腕を掴む。
「今日の分だけでも——」
「また来ます。今日は、人だけです」
ユラは袋を見た。
唇を噛み、手を離した。
そのとき、沢へ退いていた獣が走った。
光の狭い側を狙い、戸板の後ろへ回ろうとする。
ガレスは前へ出かけて、止まった。
代わりに半歩だけ身体を開く。
「ルカ、右!」
少年の杖が振られた。
地面すれすれに走った風が、獣の前脚を崩した。倒れはしない。だが、跳びかかる姿勢が遅れる。
そこへ、ガレスの剣が届いた。
刃を引き抜き、すぐに元の位置へ戻る。
背にあったセラフィナの手が、一度離れていた。
彼女が追いつき、もう一度触れる。
光が薄くなった時間は短かったが、二人とも気づいていた。
「ごめん」
「今はいいわ。次は先に言って」
「わかった」
最後の一頭は、もう近づかなかった。
尾を低くしたまま、灰の向こうへ消えていく。
ガレスは、その姿が見えなくなるまで剣を下ろさなかった。
*
村の内側へ戻ると、村長が一人ずつ顔を確かめた。
テオ。
ユラ。
見張り二人。
最後にガレスまで数えられ、彼は笑った。
「俺も入るのか」
「帰ってきた人を数えろと仰ったのは、あなたでしょう」
「そのとおりだ」
光を解いたセラフィナが、近くの石へ腰を下ろした。
ロゼッタも鞄を置き、指先を揉んでいる。
ガレスは二人を見てから、黙って水筒を差し出した。
「何も言わないのね」
セラフィナが受け取る。
「喋ると、休めって説教されそうだからな」
「もう少し、こちらを労う言葉を期待したのだけれど」
「お疲れさん。助かった」
「……急に素直になるの、やめてちょうだい」
彼女は水筒で顔を隠した。
ロゼッタが、疲れた様子のまま笑った。
テオの足を診ていたルカが戻ってくる。
「村の治療師さんが、砦へ運ぶ準備をするそうです。骨までは、ここではわからないと」
「よし。俺が——」
「担ぐ人は足りています」
三人の声が重なった。
ガレスは両手を上げた。
「わかった。座る」
*
その日の帰り、境界の見張り台で呼び止められた。
外側に、人が立っているという。
近づくにつれ、人ではないことがわかった。
白い外衣。
肩の後ろに、畳まれた翼。
淡い光の境界を隔て、天使が一人、こちらを見ていた。
ガレスは剣の柄へ手を置いた。
天使は動かなかった。
「北方記録官、リュシエル。管理者との対話を求める」
声は静かで、よく通った。
セラフィナが兵士の前へ出た。
「この場では、私が聞きます」
「今朝、上流へ流れた灰について。尾根の北側で、放棄された術式陣が崩壊した。残留物は、少なくとも明朝まで流下する」
「あなたたちの術式?」
「我々の軍が使用したものだ」
ガレスの指に力が入った。
「随分、落ち着いて言うんだな」
リュシエルの視線が向いた。
「どのように伝えればよかった」
「もう少し——」
言いかけて、ガレスは口を閉じた。
腹を立てる言葉はいくらでもあった。
だが、今欲しいのはそれではない。
「まだ、どこに残ってる」
リュシエルは沢の上流を指した。
「分岐の北側。倒木が三本重なった付近で、濃度が高い。水を直接汲まないことを勧める」
セラフィナがルカを見る。
少年はすぐに書き留め始めた。
「なぜ教えるの?」
「流下先の観測が必要だからだ。こちらから見えない場所がある」
「情報を渡す代わりに、報告しろと?」
「可能ならば」
親切という言葉は、似合わなかった。
けれど、村の井戸と沢を調べる理由にはなった。
「確認はします。あなたの言葉が正しいかどうかも含めて」
「それで構わない」
「境界の中へ入ることは認めません」
「申請していない」
天使はわずかに首を傾けた。
「その小規模な防護は、誰が作った」
セラフィナは答えなかった。
リュシエルは少し待ち、それ以上は尋ねずに背を向けた。
白い翼が開く。
ガレスは、姿が尾根の向こうへ消えるまで見送った。
「感じのいい奴じゃなかったな」
「感じのよさを求めていたの?」
「少しくらいはな」
ルカが記録を閉じる。
「……また来るでしょうか」
「来るなら、次はこっちも聞くことを用意する」
セラフィナはそう答えた。
砦へ戻れば、負傷者の確認と装備の点検がある。
沢の水も調べなければならない。
妹への手紙には、今日のことをどこまで書こうか。
考えながら歩いていると、ガレスが肩を並べた。
「俺の出番、少し増やしといてくれよ」
「手紙?」
「昨日の続き。笑われたままで終わるのは、さすがにな」
セラフィナは、泥のついた彼の横顔を見た。
「ええ。今日は、ちゃんと格好よかったと書いておくわ」
ガレスは一度だけ瞬きをした。
それから、照れ隠しのように鼻を擦った。
「……それ、本人に先に言うなよ」




