08 :日常2
翌日。その朝は、この季節にしては珍しく雨が降っていなかった。
「ふぁ…」
大きな口を開けて欠伸をする風。その背中には、重いカバンが背負われている。もっともそれは、風の身体能力からすれば誤差みたいな重量なのだが。
「おはよう、風」
虎に呼ばれて振り返った風は、衝撃を感じた。
あの虎が、ここにいる。
それはつまり、俺が遅刻したってことだ!
瞬時にそう判断した風。その見た目に反して虎は遅刻の常習犯であり、先生からの覚えも途轍もなく悪い。まあ、それは万年欠席児の風にも言えることだが。
だがしかし、未だかつて遅刻だけはしたことがないのが風のささやかな自慢であった。いくら護衛任務で欠席しようとも、いくら梨奈姉の無茶な要求のせいで早退させられようとも、遅刻だけはしたくない!
その気持ちが風を突き動かし、学校に向かって駆け出した。
その常人離れしたスピードは虎を置き去りにし、風圧で植木鉢を転がし、店ののぼりを引きちぎる。そして到着した学校。
時計を見るに、いつもよりかなり早く着いてしまったようだ。
「……」
全力疾走で体力を使い果たした風は、その事実にショックを受ける。そしてそのままへたり込み、クラスメイトから怪訝な目で見られる。
「きゃっ! 盗撮狙いの変質者かと思ったわ…。って、草薙1、ホントに生きてる? 信じられないくらい生気が無いよ?」
「大丈夫じゃない…。って、ちょっと待てぇ。生気が、無いのは、認めよう。でも、草薙1って。1って何だ!」
ついさっきまで、このカロリー消費は無駄だった、せっかく父さんからフルコース料理せしめたのに、などと考えていたことはすっかり忘れた様子の風。息も絶え絶えの疲労の中、聞いた(というか、叫んだ)。
「風の方が1。虎が2」
微妙に虎より上と認識されていることに優越感を覚えるが、せめて名前で呼んでほしい風。死にそうな声でお願いする。
「頼む、俺には風という名前がある」
「うん知ってる」
そう言って行ってしまったその背中に、「察することはできないのか…!」と声をかけるも、華麗にスルーされる。
だいぶ呼吸数も落ち着いてきた風は立ち上がり、追いかけようとする。しかし、後ろからやってきた虎につかまり、断念。
「風くん。僕がいない間にあんなかわいい子とお近づきになろうとは、いい度胸じゃないか」
ここまで走って来たようで、ふらふらとした足取りのまま風の首を絞めにかかる。ゾンビのような動きだ。
というより、貧血状態で青白い顔色、乱れた髪、フラフラの足取りに、首めがけて音もなく伸びてくる腕。ゾンビそのものである。これが夜だったら、十人中十三人が悲鳴を上げるだろう。きっと、悲鳴を上げる人たちの中には、本家ゾンビも含まれている。
「虎とゾンビって同族だったのか。それならその運動音痴にも納得だ」
つい呟いてしまった風。虎の殺意が膨れ上がる。
が、虎が口を開く前にチャイムが鳴り始め、走り出す二人。…まあここで走るのは、風にとっても日常茶飯事だ。いつもより早く着いたうえでのこの余裕のなさ。普段遅刻しないでいるのが、どれだけ大変で奇跡的かが覗える。アホである。
ギリギリで教室に滑り込んだ二人は、無事にホームルームを終え、教科書の用意を始めた。
遅刻寸前の登校で担任に睨まれつつ、それを全く意に介していない様子の二人。
ちなみに風は虎にも睨まれている。しかし意にも介さない。その面の皮の厚さたるや、かぼちゃにも負けていないと思えてくる。
そのうちに、先生が先に折れた。虎は粘っている。よくそんなに目力が持続するな、風がかぼちゃなら虎は納豆かな? と先生は思う。諦めて、ため息とともに教室を退室する。
先生の視線に打ち勝って、少し気分がよくなった風。が、そのうちに、虎の視線が鬱陶しくなってくる。
「なんだよ、虎」
流石に耐えられなくなった風は、虎に声をかける。
「自分の心に聞け」
あくまでそっけない虎。風は、「心には耳も口もないから聞けない」と返す。
より険悪な雰囲気になる二人。
風の席の斜め前には、虎の席がある。ぎすぎすした空気が漂う。周りの席のクラスメイトは、その雰囲気に耐えかねてどこかへ消えていった。
その光景を見た風は、ふと思い出した。
とある国のスラム街。
そこを、身なりからしていいカモな日本人が二人歩いている。
穏やかな表情の大人と幼い子供の二人組は、絶好の獲物として認識されたことだろう。案の定、言葉も通じない相手に、恐喝された。
「≒#”$;+*&%$#!?」
まだ幼かった風には、その男が恐ろしい鬼に見えた。その手にあるナイフは金棒のようだった。
すっかり委縮してしまい、腰が抜けて泣き出しそうになった時。
唯人が、一歩前へ出た。
「そこを、どいてくれるかい?」
笑顔のまま、日本語で言った。
まるで、友達に問いかけるような自然体。しかしその纏う雰囲気だけが異質だった。
重い空気が、唯人の体から流れ出し、あたりを覆っていく。ゴミを漁っていた烏たちが、慌てて飛び立った。
風は、すぐそばに死神がいるように感じた。体が熱くなり、胸が苦しくなった。唯人の笑顔を向けられた相手は、立っていることができなかった。
唯人は、腰を抜かし、すっかりおびえた様子の男には一瞥もくれず、何事もなかったように歩き出す。
はっと気が付いて、風は慌ててついていった。
「あれは何をやったの?」
暫くの無言の時間の後。
ゴミが、人が落ちている道を歩きながら、風は唯人に尋ねた。
「ただ、少し怖がらせてみただけだよ。…殺気っていえばいいかな?」
「かっこよかった! けどちょっと怖かった…」
「あはは、ごめんね。でも風は、あのくらい簡単に受け流せるようにならないといけないよ」
そう言って唯人は、風を少しずつ威圧に慣らしていく訓練を始めた。
初めは少し。そして、どんどんと強く負荷をかけていく。
風は何度も泣き、気絶し、失禁しながら順応していった。
――虎の威圧が全く怖くないのはこのせいだな。
風はそう結論付けた。
思考の海から帰ってきた風に、声がかかる。
「草薙1、よく遅刻しなかったね~。チャイム鳴り始めるまで校庭にいるの見てたよ?」
虎と風の冷戦状態の、すごく重苦しい空気に臆することなく介入してきた勇者が一人。
「あぁ、お前は今朝の、…女子1?」
意趣返しにと、わざとらしく名前がわからないふりをした風。本当に知らなかったということは、秘密だ。
「私は真凛だよ? 榊 真凛。人の名前は覚えようって、小学校で習わなかった?」
「どの口が言ってんだ、どの口が…」
ぼやく風に、してやったりと笑う真凛。一気に空気が軽くなった。虎はすっかり気勢をそがれてしまったものの、いつ会話に混じるべきかがわからない。
結果、おどおどと挙動不審になる。
「こんにちは、草薙2」
「こんにちは…」
「てか今のあなた、そんなにどぎまぎしちゃって普通に可愛いじゃん。一途な男の子、って感じ?」
虎をからかって遊んでいる真凛に、風が口をはさむ。
「この小心者の廃ゲーマーに、一途なんて言葉は似合わねえよ。どうせなら、八たした方が的を得てる」
「八をたす?」
「一途の一に、八たしてみるといいってことだ」
「九途? …ちょい待ち風君? 君は俺のこと、クズって言いたいのか? ふざけんな風!」
すっかり本来の調子を取り戻し、ぶつくさ言っている虎を尻目に、真凛がスマホを取り出した。
「ところで風、連絡先交換しよっか? スマホ持ってるっしょ?」
「ちょっとまってくれ。…はいこれ、俺」
「ありがとー」
風と連絡先を交換し、意気揚々と教室を出ていく真凛。虎は、「あぁ。俺の連絡先はいらないのか」とつぶやく。
「…きもいな」
そう反応した風のせいでまた、冷戦状態に移行した。
世界は基本、平和だ。
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自販機横のスペース。備え付けられた椅子に座り、ニマニマと笑う人が一人。
その手にはスマホが握られている。ディスプレイには、風の連絡先。そのアイコンは、通学カバン。
ひとしきり眺めた後、別のアプリを開く。
メールアプリらしきその画面には、記号の羅列が並んでいる。
差出人は、”Q”。だがそこから意味を見出した様子の真凛は、ひとつ頷いた。
「とりあえずは、任務の第一段階完了っと。
……それにしても、未来予測AIへの手がかりなんて、ほんとにあの人は持ってるの…?」
Q.「草薙唯人さんへのインタビュー! なんで、わざわざ外国のスラム街へ行ったんですか? 飛行機代高いのに」
A.「いや~、飛行機に乗るとテンションが上がるでしょ? だから、……。風に、そう、風に体験させてあげたいなって思って! だから別に私が乗りたかったとかではないよ。
あと単純に、一回本物の敵意に触れさせてあげようかなって。日本は治安が良すぎて駄目だよね。あんな殺意に触れる機会なんてない」




