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「虎っ!?」
虎が崩れ落ちた。
風の体は、頭がそのことを理解するより先に、慌てて虎に向かって駆け出していた。
傍目には、虎には出血などは見当たらない。風は腕に仕込まれた隠しナイフを梨奈に向けつつ、虎をかばうような位置に立つ。虎の状態を詳しく確認するよりも、目の前の脅威たる梨奈を排除するのが先決、と判断したからだ。
だが梨奈は、風にナイフを向けられてなお、虎のことを心配そうに見つめていた。
「梨奈姉ぇ、虎に何をした!?」
自分に意識の欠片すら向けないその様子を不気味に思った風は、そういうと同時に最大限の殺気を放ち、梨奈を威嚇する。
その圧力の前では、さしもの梨奈すら委縮した。もしも虎に意識があったなら、部屋の空気がひび割れるような錯覚を覚えたことだろう。
風はもう一度、「何をした!?」と問いかけた。
「……何も、してない」
恐れにひきつりかけた顔で、ナイフの切っ先に目を向けながら梨奈は言う。風は信じず、ナイフをもっと、梨奈に近づける。
「ホントに、何もしてないんだって! 風。ねぇ虎の様子見てみてよ! ねえ!」
必死に声を張り上げ、風に弁明する梨奈。
ナイフを首に這わせてなお、反撃の一つもしてこない梨奈の様子に風の心が揺らぐ。
――梨奈姉ぇは、今までも俺たちのことを心配してくれてた。虎を殺すなんてことが、あるのか?
…信じても、いいのか?
風は悩み、そして結局、ナイフをおさめた。
梨奈に背を向け、虎のほうに向きなおると服をまくり上げ、体の隅々まで異常がないか調べ始める。脈を取り、瞳孔反応を調べた風は梨奈のほうに向きなおった。
「なにも、ない。じゃあなんで虎は…?」
至極不思議そうに首をかしげる風に、梨奈は言う。
「たぶん、寝不足。あの子昨日、一睡もしていなかったから。
ロングスリーパーな体質のくせに、毎日のように夜更かしするのも重なってこうなったみたい」
「そっかよかった…」
風は体の力を抜いて座り込む。なぜ梨奈が、虎が一睡もしていないことを知っているのかにまでは、頭が回っていない。
「この虎、どうしよう?」
しばらく風は座り込んでいたが、はっと気が付いて言った。
梨奈は、どこから取り出したのか毛布を持ってきた。そしてそれを風に差し出す。
「これ、残業で寝落ちと死闘になったとき用の毛布。虎に体の下に敷くから、虎を一回持ち上げてくれる?」
風は哀れなものを見る目で梨奈を一瞥してから、馬鹿なものを見る目で虎を見る。
結果は寝落ちで同じでも、二人の理由の間には、夢の中ですら埋まらない大きな違いがある。
「それで、俺を呼び出した理由は?」
虎を持ち上げながら風がそう聞くと、梨奈は毛布を敷きながら返答する。
「虎が起きてから…だと、遅くなっちゃうか。明日、また来て。
そういえば今日は、二人とも学校だもんね。遅刻したらまずいよ?」
梨奈は笑顔を浮かべつつ、底冷えする視線で虎をにらむ。
風は、器用なことだ、と思った。そして、最後の”遅刻したらまずいよ”が、完全に風のほうだけを向いて発せられたことに気が付いた。
――あぁ、虎は遅刻の常習犯過ぎて梨奈姉ぇにも見捨てられてんのか。
風は一つ、賢くなった。そして、明日から虎を問答無用でたたき起こそうと決めた。
その後もしばらく、二人は雑談に興じる。
だがもう、風が高校に行く時間だ。
風はそのことに、しばらく前から気が付いていた。でも、できるなら学校など行きたくないので、気付かなかったふりをする。
しかしその十分後、梨奈が、風が気づかなかったふりをしていることに、気が付くことになる。風は彼女の登校を促す声に背中を蹴飛ばされ、のそのそと会議室から出てしぶしぶ制服に着替えることになるのだが…
そのことを風は、まだ知らない。
そして十五分後。着替え終わった風は、夏の日差しに恨めしい視線を向けつつ熱せられたコンクリートの上に、足を踏み出した。
「行きたくなぃ~。…なんで月曜日から学校に行かなきゃいけないんだよ」
夏の暑さに背中を丸め、ぼやきながら登校していた風は、道端にちょうどいい大きさの小石を見つけた。
下ばっかり見てても、たまにはいいことあるじゃん。そう思つつ、サッカーのようにそれを蹴りながら歩を進める。
そしてしばらく行ったところで、
「あっ!」
視界の端から伸びてきた足に、風はその石を取られてしまった。
「おはよう。きのうは肩、大丈夫だった?」
文句を言ってやろうと顔を上げた風に声をかけたのは、真凛だ。
背中を、もたれていた電柱から離して風に並んで歩きだす。その足は、風から奪った小石を蹴っている。
風はそれを取り返そうと試行錯誤し、そして真凛の巧みな小石さばきに悪戦苦闘しつつ問う。
「なんでお前がここにいる?」
風の怪訝な視線をものともせず、真凛は小石を弄ぶ。しばらく遊んでから、横目に風を捉える。
「偶然でしょ。それとも、肩をけがした風を心配してお見舞いに来てみた、とでも言えばいい?」
いたずらな笑みを浮かべて言いながら、真凛は蹴り上げた小石を手に持ち直して弾き飛ばす。
その指の動きは、風の動体視力をもってしても捉えることができなかった。
風は一瞬、石が消えたように思い、そして近くの木の幹にその小石がめり込んでいるのを見て戦慄を覚える。
――こいつ…昨日の件と言い、まじで俺より強いんじゃないか? 本当に一体、何者なんだ…?
ふと見せたその実力に不信感を抱いた風。だがそれを表に出すほど未熟な彼ではない。
時折、虎が関わるとポンコツ化する気もするが、断じて風は未熟ではないのだ(唯人が草派の陰から、筆者のことを、お前の目は節穴かという目で見てきた気がしたが、気のせいだ)。
真凛は、歩みが若干遅くなった風に歩幅を合わせる。
そしてしばらく無言の時間が過ぎ、真凛は、おもむろに切り出した。
「そういえば風は、”広林”って知ってる?」
風は思考を中断し、うつむいていた顔を真凛のほうに向けた。
「後輪?」
「違う。広い林って書いて、広林。知ってる?」
真凛は真剣な声色で、問う。
何気ない世間話のように言っているその話題が、風にはどうしても、今日の本題のようにしか思えなかった。
風は頭の中で、”広林”という単語を知らないか考えるが、地名にも人名にも、該当するものは見つけられなかった。
「いや、知らないな」
「本当に?」
風の目を覗き込むようにして確認してくる真凛。
歩みを早めて真凛を引きはがしつつ、風は言う。
「本当だ。知らない」
言い切って、より早いスピードでスタスタと歩いていく風。立ち止まった真凛との差は、どんどんと開いていく。
風が渡った信号が赤になり、真凛の体が車に隠されるその直前。ふと振り返った風の目が正しければ、彼女の唇はこう動いたように見えた。
『なら、あの指令は、この任務と別件か?』と。




