八章
湯船に溜めたお湯を掌ですくい、そのまま真っ直ぐに落とす。大抵は腕を伝って流れてしまうのだが、雫になった水が水面に戻されると、もう自分の手にあったのがどれなのかはわからない。幾度となく繰り返しながら、元は同じであったはずの水に境界などなくて当然だと、ぼんやりと思った。
梨香が寝付いた後に、一人でゆっくりと湯船につかりながら意味のない手遊びと、上の空の掛け算を繰り返していた。風呂場の壁に貼り付けた九九は、とっくに誰のための物でもなくなっている。それでも張り替える気にはならず、佑人は九九を言い切って湯船を出るというマイルールを作り出し、タイマーのような扱いをしていた。
独り身だった時は仕事帰り、時々銭湯に寄っていた。疲れをゆっくり取りたいときや、なんとなく家に帰るのが億劫な時、安く、静かに、のんびりするのに銭湯はうってつけだった。大型商業施設というわけではない、地元に馴染んだスーパーの入ったビルの上階で、年季は入っているものの手入れが行き届いて清潔な銭湯には馴染みの老人が多く、偶に知らない人と会話するのも嫌いではなかった。大抵話しかけてくるような気の大きな人は引退した人ばかりで、年上だが人懐こいタイプが多く、何の取柄もない自分を驚くほど無責任に誉めてくれた。今思い返しても不思議だが、あの無責任さは心地よかったし何をしてもらったというわけでもないのに少し得をしたような気さえしたから不思議だ。きっと、自分も無責任に相手を持ち上げていて、互いに暗黙の了解を共有しながら、それ以上の粘着を持つことなかったからかもしれない。冬場に限らず気が向いた時は一人足を運んでいたのだが、梨香を連れて行くわけにもいかないせいですっかりその習慣はなくなった。
大型の湯船に熱めの湯を張り、一日中冷房に当たっていた身体は内臓から冷えている気がする。脚からゆっくり浸かると、身体中の力が抜けていくようだった。
風呂に入ったときの、頭がぼんやりとして思考が緩くなる感覚も、佑人は好きだった。考えすぎ、思い過ごしだと昔から指摘されるほど慎重で優柔不断な佑人が最も大胆になれるのは、この瞬間かもしれない。
原色に近いのに透明度が高く優しい色をした緑の湯を手ですくいながら、昼間のことを考える。
「つまり、梨香にこれ以上の学習をさせるべきではないというのが、佑人君の考えなわけだね」
久しぶりに佐川が、野沢家に遊びに来た。小百合お手製の作り置きのおかずを片手に、もう片方には梨香が佐川家に忘れてきた色鉛筆。ここ数日、梨香は写生を覚えたらしい。小百合が玄関に飾っている季節の花を、梨香が突如ノートの切れ端に描き出したというのだから、驚きだ。その絵がまた上品な色遣いと大人並みの技術力で奥行きを表現したという。もちろん佑人もそのひまわりの絵を見せてもらったのだが、ぎっしりと詰まった種や、枯れかかった花びらのしおれ具合まで綺麗に描写されていたものだから、もうこれはセンス云々の話ではないのだろう。
「えぇ。コミュニケーションや人間関係も、立派な教育でしょう。勉強なら、遅れを取らない程度で十分です」
佑人は怖かった。自分の手の届かないところで、梨香が傷つけられる可能性はできる限り避けたかった。自分は常に劣等感と戦い、できないというレッテルを避けるのに必死だったが、それでも得意だった数学では樋口に目を付けられた。あのとき、自分が樋口よりも成績面でも劣っていたら、おそらく彼は佑人を嫌わなかっただろう。自分の優位性を脅かさない存在を人間は労力を使ってまで排斥したりはしない。佑人は自分の唯一の取柄だと自負していたので譲れなかったが、梨香は違う。容姿も恵まれ、勉学だって本気を出したら肩を並べる者はいない。何より、彼女は色物なのだ。徹底的に普通の者に徹するべきだろう。目を付けられるようなこと、妬まれたりするものを、進んで身に着けるべきではない。
佑人の出した麦茶を片手に、佐川は少し悩んだ表情をした。考えてからゆっくりと話す、その落ち着いて思慮深い瞳が、佑人は好きだった。責任ある大人の目だと、いつも感じていた。この目に嘘は付けないし、ごまかしを言ったりしない目だ。
「実はね、知り合いに頼んで、梨香に使われている部品を片っ端から調べてもらったんだ」
ゆっくりと話し出した。
「さすが野沢だ。理想の設計のためなら投資や苦労も厭わない性格だとは知っていたが、まさかあそこまで熱意をもって梨香を設計したのは驚きだった」
固唾をのんで、佑人は聞いていた。
「野沢は海外品の部品、それもかなり希少な、流通の低い部品まで多く使って梨香を作ったんだ。梨香の製造月日は十年以上前だっただろう?」
嫌な予感というのは具体的じゃないくせに、妙にリアルに心臓をかき乱す。乱暴で、ガサツだ。
「もう一度梨香を作るのは、実質的に無理だということが分かったよ。身体の部分はそれでも代替品でもどうにかなりそうだけど」
佐川は自分のこめかみ辺りを二度、たたいた。
「脳だけは無理だ。総取り換えするか、部品をメンテナンスで延命するか、その程度だ」
頭の中は真っ白だというのに、妙に冷静な自分を、佑人は俯瞰した。そういう事だってあり得てもおかしくないと、感情よりも冷静すぎる判断力が佐川の話を受け入れた。
「つまりだよ、佑人君。梨香のあの桁違いの能力も、部品の劣化や不慮の故障でいつ終わるか、わからないんだよ」
身に着けられる能力は、可能な限り早く覚えさせなければ、いつ綻びが生じるかわからない。
佑人は天井を仰いだ。昔は高く感じた天井は、今は低く世界を閉ざすように広がっている。
そういえば、その昔、天井の木目が顔に見えて不気味で仕方なかった。幼稚園の時の話だ。強がりはしたけれど、正直小学生の時も目を背けていた。それ自体が怖いということはなくなったが、何処か不安を煽られる。
「どうするのがいいんですかね?」
佑人は困って、佐川に訊ねた。育児に正解はないと聞いたことはあるけれど、どうも間違いはありそうだ。
「どうしたい?」
佐川はグラスを置き、じっとこちらを見た。正しい答えをくれる目ではなかった。
佑人は諦めた。
「正直、わかりません」
分かるわけがないし、決められるわけではなかった。
指先はふやけてきたし、額には何度となく汗が流れる。伸ばした腕が薄っすら紅潮し、血流のいい健全な艶が見えた。梨香と毎日過ごすうちに、自分は大人なのだと自分に言い聞かせてきたけれど、自分はまだ二十代なのだ。たくさんの選択肢を持ち、時に独りよがりになり、人の助けが欲しくなる。いきなり親という立場に置かされ、育っていない決心と確実に離れがたくなる感情のジレンマの中にいる。
顎の先まで身体を沈めてから、早口に九九を口にする。既に呪文か早口言葉にしか聞こえないほどで、勢い余れば舌でも噛んでしまいそうだった。言い切ると同時に、一気に立ち上がる。大きく波打ったお湯が飛沫を上げて湯船から溢れるのを、佑人はぼんやり眺めた。
僅か数日後のことだった。仕事後に携帯電話を見ると、学校と佐川から繰り返し着信が入っていた。仕事柄携帯電話は昼休みから終業時間までは確認できなかったのだが、履歴は三時頃を中心に度重なっていた。嫌な予感を持ったまま、佑人は作業着を脱ぐこともせずに学校へ折り返す。繋いでもらった佐藤は挨拶もそこそこに、
「学校にお越し頂けますか?」
と一切の説明よりも先に冷淡な声でそう言った。怒りと呆れ、苛つきのすべてに神経を痺れさせているようだった。
帰りの準備もそこそこに、バスを待つ時間で小百合に電話をすると、どうやら梨香が意図的ではないもの、不慮の事故で友人を怪我させたようで、相手方が佑人に合わせるようにと言って学校から帰らないという。仕方なく、迎えに来た佐川が同席しているというのだから、流石に申し訳なさに言葉が出なかった。けがの程度は大したことはない、相手が大騒ぎしているだけだという小百合からのフォローの言葉だけが、楽天的とはいえないまでも予想しうる中で比較的穏便な思考をさせる。佐藤の口ぶりからしても、深い傷を負わせたわけではないことはなんとなく察せた。病院に担ぎ込まれるような、治療費が発生するような怪我ではないとわかるや否や、それ以外にわざわざ呼び出される理由など一つしか思い当たらなかった。バスに乗っている時間も、電車に揺られている時間も、いつもの倍以上に長く感じた。
こういう日に限ってなぜこうも軽装できてしまったのだろうと、電車の窓に映る自分の格好に内心舌打ちをする。せめてワイシャツくらい着ていれば、まともに見えるというのにと、周りのサラリーマンの、暑苦しいスーツ姿を見つめる。その昔着ていたから知っている。スラックスの中は空気が入り込む癖に通気性があるわけでもないから蒸れ、ネクタイを締めた襟は汗の浮いた首元を掠め肌荒れになることもある。フォーマルな時に着ていたジャケットは当然重たく、夏は暑く冬は寒いと機能性がとてつもなく低い。
それでも、スーツを着るだけで、真っ当な大人になれる。毎朝満員電車に揺られ、機能性のないスーツに身を包み会社に行っているというだけで、普通の社会人になれるのだ。昔自分もそうだったと、隣で今にも寝てしまいそうな若い男性に肩を貸す。あと四十年同じ生活を続けるのは苦痛だろうけれど、一度ドロップアウトしたら戻れないから頑張れよとあまりに勝手なことを考えた。
学校についた時には、既に外は真っ暗になっており、ヒグラシの泣き声すら小さく霞んでいた。
通されたのはまさかの校長室で、相手方の親の格好を一目見て、事態が如何に大袈裟されているのかを悟る。佐川の隣に座っている梨香の表情は見えないけれど、彼女の目元が真っ赤に腫れているのを見えた。思わず眉根に力を入れた佑人に、佐川が一瞬目配せをしてきた。長い机に、向き合っている梨香と相手方に対し、校長先生と佐藤は間を取り持つように並んで立っていた。
相手は梨香より大柄の女の子で、隣に腰かけた母親はブランドバッグを膝にこれ見よがしにおいている。佑人が向かいの席に腰かけるや否や食って掛かろうとした母親を、意外にもいなしたのは佐藤だった。向かい合った佑人たちと違い、真ん中で事態を見守る姿はまるでレフェリーのようだ。このレフェリーに公平性があればいいのだがと、佑人は懐疑的に佐藤を見た。
「私から説明させていただきます」
きっぱりと言い放つ口調には反論の余地がなく、濃い化粧に覆われた顔を歪めながらも、相手は僅かに身体を引いた。
佐藤の話は簡潔だった。梨香が学校にネックレスをしてきたのを、体育の時間に相手の女の子が見つけ、咎めたのだという。先生に言いつけると言われた梨香は没収される恐れから、相手にそれだけはやめて欲しいと言ったところ、相手は付け込むように、梨香にネックレスを貸すことを交換条件にしたという。放課後には返すという約束でしぶしぶ貸したのだが、相手がそれを気に入り、返してくれなかった。それに怒った梨香が彼女の首にかけられたネックレスを掴み、相手も一歩も譲らずに引っ張り合った結果、もともと華奢だったチェーンが切れ、その拍子に相手の子の首に蚯蚓腫れができた、というのが事の顛末だった。
隣に座る梨香の、右手が強く握られているのはそういう事か。
「梨香、貸してごらん」
佑人の言葉にも、梨香は一瞬佑人を睨み付けるだけだった。真っ赤に腫れた目元と、紅く充血した白目に、佑人はなによりもまず哀れな気持ちになった。
「大丈夫だから。貸してみて」
彼女の手を優しく撫でると、梨香は一度深呼吸してから、佑人の手にネックレスを寄越してきた。
当然、水原からもらったダイヤのネックレスだった。見慣れた三日月が、今日もかけることなくそこにある。そういえば今日も三日月だった気がする。まだ暮れていない空に薄っすらと出ていた。
「梨香。これね、直せるよ。道具さえあればね、簡単に直せる」
細かな輪が連なる形のチェーンの、一つが変形して外れている。要するに、修理に出せばすぐに直せるものだ。大人が見れば、そんなことはすぐにわかる。
梨香は佑人の顔を見て、本当かと尋ねてきた。がらがらの声が、痛々しい。
「もちろん。俺じゃ直せないから、お店に持って行って、直してもらおう。それにね、この色も、綺麗にしてもらえるよ」
水原がくれたときから、既に年季の入ったものだった。本物ではあるものの、彼女の言う通りそこまで高価なものではない。もしかしたら、修理代の方が高くつくかもわからない。
梨香の態度があからさまに落ち着き、安堵の表情で息を吐いた。不安と怒りに支配されて、梨香はかなりの体力を費やしていた。理性的になった横顔に、しかし涙の後は痛々しかった。
佑人は椅子に座り直した。校長室の椅子はさすがに質が良かった。柔らかく、預けた体重の分だけ身体に安定感が戻ってくる。
「お宅のお嬢さんにご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。けがの程度が芳しくないようでしたら、ご連絡ください」
頭を下げながら、なんてことない気持ちがする自分が不思議だった。梨香を挟んで隣に座った佐川が、何か言いたげにこちらを見ているのも知っている。
梨香を傷つけたくないという思いに勝るプライドなど、佑人にはなかった。多少の理不尽は、この世に腐るほどある。頭を下げるだけで事が収まるのなら、いくらだって下げる気すらした。
相手の母親は不満げに鼻を鳴らす。どうやら、あっさりと頭を下げられ、文句や皮肉を言う機会を奪ったことが、気に食わなかったようだ。何か言いたげに、べったりとした口紅に縁どられた唇を歪ませている。
「いいわね。心に響かないのだから」
捨て台詞だと分かっていても、聞き捨てならなかった。思わず眉をひそめてしまった。その表情に付けあがっただろうか、親子揃って小賢しく姑息だ。眉を吊り上げ、品なく笑って、
「アンドロイドなんて、所詮機械でしょう。人の心などなくて、そのくせ力や知能ばっかり伸びていくんだから」
と吐き捨てたのだ。一気に血の気が引くのが、自分でもわかった。佑人は瞳の焦点が定まらないままに佐藤の方を向きいた。
「そんなことまで話したんですか」
突然矢面に立たされ僅かに驚いた表情をした佐藤だが、やがて落ち着いたように話し出した。
「梨香さんがアンドロイドであること、それ故にほかの子供たちとの間に差異があることは事実です。それを周りのお子さんに理解してもらう必要があると、現場として判断致しました」
歯切れのいい話し方。淀みなく、強い意志が垣間見えるほどに、佑人は自分の不確定で曖昧な感情が死んでいくのを感じる。意志と感情のどちらが強いかなど考えこともなかったが、意思というのは冷静さをもって形成されるものらしいということだけ、佑人にはわかった。そして、置き去りにされるのはいつだって割り切れない感情だけだ。
「アンドロイドにも人間同等の社会的な人権が認められている昨今、そうであることを隠す必要はありません。むしろ、前に出して認められるべきです」
その後も繰り広げられる佐藤の理想論に、佑人は呆然と聞いていた。最早言い返す言葉も思いつかない。
佐藤は大きな間違いをしている。アンドロイドはニンゲンの社会で考えれば圧倒的マイノリティーであり、知られてしまえば好奇の目に晒されるのは避けられず、一部の人からは今なお強く忌み嫌われている。梨香程精巧につくられたアンドロイドならば、カミングアウトしなければ素性がばれることはまずないだろう。隠すということは卑怯な手段だろうか。隠し、紛れていてはいけないのだろうか。普通のふりをすることは、そんなにも悪い事だろうか。事実、こんな風に悪意を持って梨香を詰る大人を目の前にしてなお、ゆるがない佐藤の理想論に、佑人は眩暈がしそうだった。
「佑人君」
静かに呼ばれ、はっと目が覚めた気がした。前のめりになった上半身の勢いをそのままに、佐川を振り向く。小さな梨香を挟んで座っても、真っ直ぐに目が合った。優し気な瞳に、佑人は言葉なく目を逸らす。佑人は佐川の、優しい目に弱かった。佐川はその昔から、ずっと自分を可愛がってくれた人だった。今、身寄りなどなくした自分にとって、最後の砦でもある。
「あなたは本当に、梨香に感情がないと、そうお思いですか?」
佐川は冷静さを失わないものの、強く尋ねた。相手が言葉に詰まったのを見てから、言葉を重ねる。
「大事なものを奪われそうになってむきになったり、壊れたものを思って涙を流す姿を見てもそうおっしゃられますか」
それにと言って、佐川は佐藤を見た。
「人にはそれなりに秘密や隠し事があります。あなたにだって、あるでしょう。それをむやみやたらに開示する権利は、あなたにはありません」
佐藤が、わかりやすく狼狽えている。隣の校長先生は、固唾をのんで見守っているようだった。
「今回のことに関しては、子供同士のことですし、お互い穏便に行こうじゃないですか」
相手が反論を諦めたのを見届けてから、佐川は先ほどとは打って変わって、穏やかな声でそう言った。
結局、言い返す言葉が無くなった相手方がすごすごと娘を引き連れて帰ったことで、ことは収まった。どっと溢れた疲れにため息をこぼした佑人に、佐藤が声をかけてきた。梨香を避けようとする佐藤の目線を察し、佐川に先に外に出てもらった。
「実はこの件、伏線があるんです」
廊下で囁くように会話をするので、僅かに身体が近くなる。佐藤からは微かに柔軟剤の香りがした。
「実は相手の子に、梨香さんは朝顔をダメにされてるんです。夏休み明けに、他の子たちの朝顔は既に咲く時期を終わらせていたのですが、梨香さんのはまだまだ盛りの時期で、一人だけ綺麗に花を咲かせていたんです。それが、彼女気に食わなかったようで、梨香さんの朝顔を、いくつか千切ってしまって」
佑人は頭が痛いくらいに、目の前の景色が白黒へと変わっていくのを感じた。
「もちろん私の目の前でしたのでその件に関しては彼女に謝る様に指示しました。けれど、彼女はプライドの高い子だったので、勉強面で抜かされたことも、梨香さんがクラスの人気者になっていったことも、全てが気に入らなかったみたいで、何かと梨香さんに文句をつけるようになりました。そのせいでクラス内であった関係性が崩れ始めていて、梨香さんが浮き始めています」
佐藤がわかりやすい線引きを提示したが故に、小さな差異にすら過敏な差別意識が生まれたのではないだろうか。そう憮然とした気持ちには成ったが、佑人はもう何を言う気力もなかった。
次の日、職場で朝のあいさつの後で昨日のネックレスのことを話すと、水原は真顔になり、
「なんか悪い事しちゃったかな」
と呟いた。佑人は慌ててそれを否定し、
「ただ、頂き物だから」
昨晩、梨香は泣きはらした目ではあったものの、直せるという言葉で取り返した気力で旺盛な食欲を見せていた。帰り際に買ったお子様弁当を残さず食べきり、むしろ食欲の失せていた佑人の弁当に入っていた筑前煮や唐揚げまで食べていた。子供はよほどのことでない限りトラウマを持たないものと聞いたことはあるけれど、本当にそうかもしれないと考える。むしろ、大人は何処かに正当な傷の証拠を捜している風ですらある。過敏に誰かの言葉を粗探しして、鋭敏な感性で物事を精査して、ありもしない悪意まで洗い出そうとする。そうして認められた傷ならば、自分を肯定してくれるとでも言いたげに。
制服のジャケットに腕を通しながら、佑人は妙に冷静に考えた。昨日のあれこれに、一番泣いたのはきっと梨香だ。でも、彼女の中で過去になった痛みを、引きずるのが自分では仕方がないだろう。そう思う一方で、何処かに彼女を通した痛みならば耐えられるかもしれないという傲慢な考えがよぎる。
同じジャケットのチャックを締めた水原が、ジャケットに巻き込まれた髪を手で直す姿を見つめる。隙のない仕草と張り詰めた横顔が、彼女の不器用さに重なる。この人から余裕を感じないのは、何処かに不安を隠しているからだろう。
「子供って、時に悪意なく人を傷つけるようなことを、平気で言ってしまうことがあるんですよね。大人が真っ青になっちゃうようなことを。でも、子供同士だと、それが悪辣な言葉なんだと気が付かない。もちろん、言った方も、言われた方も」
水原は意図的に、説明口調で語りだした。
「話を聞く限りですが、梨香ちゃんがアンドロイドだと、きっとかなりの保護者の方に広まっているのでしょう。そして、それをいいと思わない保護者の方もいるだろうし、そうじゃなくても、違いがあるという差異をはっきり出す方もいらっしゃると思います」
そこまで見抜けるのかと、話の内容以前に感心してしまった。そこまで佐藤が理解してくれたなら、梨香はあの日傷つかずに済んだと思ったところで、今更だろう。
「怖いのは、それが差別という形で現れたとき、彼女が理性的に理解をしてしまうことだと思うんです。梨香ちゃんは言語外の部分での理解力というか、察する能力が異常なほど高い。きっと、他人が裏の裏に隠した本質的な差別を、彼女は受け止めてしまう」
水原は地面を彷徨わせていた視線をあげ、佑人を見た。佑人もまた、そう高さの変わらない目線を受け止める。やや無理にほほ笑んだ瞳の哀愁を見抜けるくらいには、佑人も大人だった。
「人間関係って、全ての場から逃げることが出来ないくせに、全てを壊すだけの破壊力があるんですよ」
当然聞けるわけなどなく、また彼女も語りはしない、教育現場を去った理由。トラブルの多い現場だろうことは想像に難くないし、梨香とのかかわりあいの中で柔らかくなった雰囲気を考えれば、彼女の中で殺された優しさがあっただろうことはわからないはずもなかった。
廊下から、朝礼に向かう足音が響く。時計を一瞥し、佑人は少し早口になった。
「梨香の能力はもう、オレの手におえるものじゃない。あのコを普通にみなすのはきっともう、無理なんです。だから、もういっそのこと、強くなるしかない。誰にも傷付けられたりしない、悪意など嫉妬の一部だと自認できるほど、強くなるしかない。力で黙らせるしかないんですよ」
佑人の頭には、樋口がいた。傲岸でありながら、そうなるべくしてなったように見えていた、あの男を。梨香にそうなってもらいたいわけではないけれど、人を見下す様な事はして欲しくないけれど、同じ背中をさせなければならない。背後から蹴飛ばされたくらいじゃ動じない強さを、確かな基盤を、彼女が作らなければならない。
梨香はもう、普通の小学生ではない。思えば、彼女は初めから特別だった。名前以外何も知らない七歳が、頭脳で大人を超えてしまった。昨日も、お子様弁当についてきた簡易版の知恵の輪を秒殺した時、佑人の方が絶句した。梨香はそれが普通でないことにまだ気が付いていない。
事務室のドアノブを引き、水原に譲る。軽く頭を下げて扉をくぐった水原が振り向き、
「きっと、そうするしかないんでしょうね」
寂しそうな口調だった。佑人もまた、それが賢明な判断とは思えなかった。それでも、確かな救いがあるとすれば、梨香の中に悲しみの感情が無いということだった。
互いに言葉を探すように、無言で歩く。並んで歩いているというのに、何処か歩幅が合わない。ぎこちない距離感と丁寧な欺瞞と、互いの不器用さがかみ合わない。
仕事の間中、佑人は上の空に考え事をしていた。時々、仕事中だと覚醒する意識で思考が途絶える度に、何事もなかったように憂鬱を俯瞰する自分を感じていた。思考の中で逃げ惑っている。予見的で、悲観的な思考が、その不確定性で佑人の考えを否定した。そのくせ、冷静で冷酷な感情の裏受けはあまりに身近で実感的なものだから、楽天家には成れない。
思い描いた幸せが背を向ける瞬間を、佑人は知っている。望むというより信じていた当たり前が、続くというより失われないと思っていた幸せが、目の前から取り上げられる瞬間のスローモーションを、生涯忘れることなどないだろう。
朝目覚めると同時に、頭の奥に鈍痛が走り、佑人は枕に顔を埋め、そのくせ冴えた頭で不味いなと考えた。昨晩、食欲がない上に手足が重く身体全体が怠かった。まだ残暑厳しい季節だというのにくしゃみを繰り返していたことを、水原にも心配された。
「子供の中ではインフルエンザも流行っているらしいですから。お気をつけて」
今までの御座なりな会話の中の一言と明らかに違う口調で、その裏に梨香の気配を佑人は確かに感じ取った。佑人の中にも、梨香のことを考えればなるべく悪化させてはいけないという考えがあった。佑人はもとから身体は決して強くなかったので、風邪をひくこと自体は珍しくない。
僅かに寒気の走った背中を震わせ、やってしまったと目を閉じる。自分の身体のことだから、自分が一番わかる。手の甲を額に当てると、じっとりと蒸れた熱さを感じた。
それでも何とか布団を這い出て体温計をもって布団に戻る。脇に挟んだ小型の器械は、性質とは違って随分と軽快な音を鳴らす。
待っている間、布団に目の下まで潜った梨香を見つめる。例えば薄目を開けたり、口呼吸で喉を傷めたり、寝返りのせいで布団をはみ出ることもないその性質に、今更引け目を感じる。おそらく設計からして、梨香は風邪などひかないのだろう。機能が悪くなることがあっても、メンテナンスを必要とすることはあっても、流行の病気に掛かったりはしない。どちらがいいか、などといった考えも野暮だろう。
体温計に表示された数字を確認し、どうしようと呟く。救いは今日が休日で出勤しなくていいことで、問題は休みだからこそ梨香の世話をしなければならないことだ。
布団にはいずり戻り、重い頭を枕に預け、目線だけで梨香を見る。一向に起きる気配の無い規則正しい寝息を聞いていたら、佑人は二度目の眠りに誘われた。
「佑人君」
二度寝の覚醒は早い。名を呼ばれると同時に目が覚め、妙に回転のよい頭に、しかし鈍痛はひどくなるばかりだ。
「佑人君、朝だよ」
梨香は既に着替えまで済ましていた。すっきりした顔を見るに、佑人を起こす前にかなりの時間を一人でつぶしたのだろう。
佑人は顔をあげるのもつらいほど響く頭痛に、小さなうめき声を漏らした。戦いようのない、抗いようのない内側からの痛みは、大人になったからといって忍耐できるものではない。
「起きない?」
目を細めて梨香を見上げると、彼女は不思議そうに首を傾げている。佑人の異変には気づいたようだが、状況の理解ができていないようだった。梨香の中に体調不良の概念がないのだから、これは理解しろと言う方が無理がある。
「ごめん梨香、ちょっと放っておいてもらってもいい?」
説明する気もなくそういうと、彼女は聞き分けよくわかったと頷いた。
「おなかすいたら、キッチンのパン食べて。ちゃんとお茶も飲むんだよ」
梨香の顔を一瞥すると、コンタクトを入れてない視界でぼやけるけれど、声とは裏腹に何かを察した表情をしていた。大人になった。佑人は喜びとも悲しみともいえない感情になる。まだまだ幼い華奢な身体で、決して満ち足りてはいない頭で、彼女なりの判断なのだろう。そんなに駆け足で大人になる必要なんかないよと、思わず言いたくなった。右も左もわからないままで、自分の感情を満たすためだけのわがままを、口にしていいんだよ。
わがままを言ってはいけない状況に子供を置くのは御免だった。大人っぽい子供だとか、聞き分けのいい子だとか、それがただの性質だけで決まるということが、本当にあるのだろうか。環境が性格を決めるだなんて、誰の実験に基づいて言われているのだろう。
やがて、言葉なく部屋を出て行った梨香の足音が遠ざかるのを聞きながら、佑人は三度目の浅い眠りに引き込まれた。
携帯電話の微かな音で、佑人は目が覚めた。結局、普段より引き延ばされた睡眠は眠りが浅く、それが安心した眠りではないことは明白だった。
気怠い気分ながら携帯を引き寄せ確認する。これで迷惑系やタイミングの悪い連絡だったら携帯を投げてやると思いながら、携帯の端っこに表示された時間を確認すると、間もなく十時になるところだった。昼ご飯はどうしようかと考えながら連絡内容を確認すると、水原だった。布団の中で、佑人は背筋が伸びた。少し、情けないほどに。
「お身体の具合は如何ですか?」
簡潔で、飾りのない文字。ストレートで、無駄がない。佑人は軽く深呼吸してから、返信をした。
「ご心配ありがとうございます。少し調子を崩しましたが、月曜日には復活すると思うので、ご安心ください」
いつもならなんてことない文章を、打つたびに指先が震える。驚くほど速く、返信が返って来た。彼女の細い指先が芸術的なスピードで文字を打ち出す姿を想像し、あまりに似合うなと一人笑った。
「もし迷惑じゃなければ、お家に伺ってもいいですか?」
佑人はむくんだ顔の中で目を見開いた。
「風邪、移りますよ」
「梨香ちゃんが一人なんじゃないですか?」
鋭いな、と思うと同時に、彼女に頼ってしまいたい弱さが否定できない。風邪に限らず、体調不良になる度にちょっとした不安を覚えるのはなぜだろう。身体が生命の危機でも感じ取っているのだろうか。この程度の風邪で変わるものなどないと知っていても、体調を崩せば優しくされたはずの遠い記憶に、まだ引かれる後ろ髪。脳裏に浮かんだ思い出は余りに美化されてしまって現実性などありはしない。精神的に折れてしまうことは簡単に想像ができるけれど、肉体から滅ぶ世界はまだ想像できる位置にない。
「梨香に風邪はうつりませんから」
リビングから、物音一つしない。そっと障子を開けてみると、彼女はテーブルに突っ伏して眠っていた。丸めた背中は驚くほどに小さく見える。隣には、食べ終わった蒸しパンの袋と、カルピスのペットボトル。自分が起きていたら、赦し難い組み合わせだった。なるほど、大人の目線を盗む手段も覚えたのかと怒りとは別に感心し、しかしもしも教えたのが池谷なら文句を言ってやろうと考えた。
「知ってますよ」
駆け引きなんて、得意じゃない。だからと言って大胆になれるわけでもない。そういう人間を、優柔不断というのだろう。
「梨香に食事をとらせてもらえますか?」
卑怯だとは思うが、佑人には梨香を口実にするので精いっぱいだった。彼女に迷惑をかけるプライドに、彼女の好意を無駄にする行為が勝った結果だった。
「住所を教えてください」
やはり素早い返事に、この駆け引きは、実は勝ちも負けもなかったと悟る。学生時代によく使った奥手という言葉が、大人になって使うと妙に弱弱しく感じられる。
住所を送ったところで携帯を放り投げ、布団にもう一度寝ころぶ。
仕方がないと、開き直る。自分はきっと、何処かに自信を忘れてきた。自己肯定感を傷つけてきた数多くの人たちを憎悪してもしなくても、自分はきっとこういう生来の性格をしているのだ。
一時間ほどして、現れた水原を出迎えた梨香の歓声を聞いて、佑人の中にも幸福感が溢れた。女性を神格化する自分の性はどうかと思うこともある。自分は母親の欠点らしい欠点を知らないままに、優しく、几帳面で、家族を大事にしてくれた母の幻影を未だに追い求め、誰かに投影しようとしているのだ。
「佑人君、夏帆ちゃんきた」
障子をあけ放ち、梨香が飛び込んでくる。布団で身体を起こしていた佑人は、飛びついてきた梨香の頭を抱き返す。障子越しに、遠慮がちな水原が軽く会釈した。片手に身軽なカバンと、対照的に重たげなビニール袋。
「わざわざありがとう」
佑人の腕の中で身体を揺らす梨香の背中を撫でながら言うと、水原は無防備にほほ笑んだ。その朗らかさに、人の好さを感じる。職場では使わないような鮮やかながらシックな口紅と着ているカーキのシャツが、まだべたつく季節を先取りし、物憂げなのに落ち着きがあった。
「思いの外元気そうでよかったです」
言われてみれば、気だるさや軽い頭痛は残っているものの、先程の眩暈や意識の遠のくような感覚はなく、地に足が付いている会話ができた。ただの寝不足や単なる疲労だとすれば、随分大仰な反応をしてしまったものだ。
佑人の表情から何を読み取ったのか、彼女はもう一度微笑を浮かべてから、
「とりあえずお昼にでもしましょうか」
梨香がリビングの案内を買って出たので、佑人はありがたく布団に寝ころぶ。急に動かした頭の端に微かな痛みが走ったものの、直ぐに消え去ったのは現金なものだ。さすがにもう眠さはなかったので、肘をついて読みかけの小説を開いた。
結局、水原は梨香に夕食を食べさせるところまで面倒を見てくれたので、佑人は一日布団の住人となっていた。昼ご飯に水原が作ってくれた卵がゆを食べたあたりからほとんど体調は戻っていたのだが、微熱が引かない。無理を押せば家事も無理ではなかったが、それでは気を遣ってくれた水原に申し訳がなさ過ぎて、佑人は大人しく体調が悪い人間でい続けた。
水原を見ていると、人の為に生きようとする人間なのだと感じることがある。明確な相手を持ち、世話を焼いたり手を貸したりすることで自己自認をするタイプの人間だ。そしてきっと、自分も似たような性格をしている。
梨香への夕食は何故か卵がゆになった。佑人の分を作ったとき、出汁のいい香りに梨香が反応したが、そのとき既に梨香はエビとトマトのクリームパスタを食べていたらしい。あまりに食べたがったので夕食に出したと言ったときの、水原はやたら申し訳さそうだった。
「卵がゆなんて、手抜き料理ですよね」
そういえば、水原が来たときに下げていたスーパーの袋は、かなりの大荷物だった。きっと、それなりに手の込んだレシピが頭にあったのだろうと思うと、申し訳なかった。
「でも、シンプルなものほど、味に差が出るから」
佑人はよく煮込んで柔らかくなったうどんをすすった。のどの痛みはさすがに引かず、飲み込む度に脳にまで響きそうな痛みがあった。これでもかと言う程柔らかく煮込まれているのが、有難い。
「これも、シンプルで美味しい」
変に気取りのない味噌煮込みうどんの味付けが、ちょっと知っている味で、なんだか懐かしい。父の作ってくれたうどんとか、味噌汁とか、鍋にも、多分同じ何かが使われていた。
「なんとなく察していると思いますけど、私料理とか、大して出来ないんですよね」
遠い目でそう言ってから、彼女は無邪気に笑った。
「昔、付き合っていた男から、女らしいけど女性的じゃないって名言を頂きました」
佑人は何と返せばいいのかわからず、うどんに集中する。なぜそんな話題を突然切り出したのか、理解できなかった。
「完全に捨て台詞でしたけど。でも、正直、痛いところ突かれた気はしました」
あまりに淡々と語るから、佑人は返し方が分からない。でも、悲壮感をもって言われたら、もっと耐えられなかった。
「水原さんはさ、なんでこんな風に、梨香を可愛がってくれるの?」
馬鹿げた質問であることはおそらく一番、自分が分かっている。
水原は、そうですねぇと、少し考える。自分で入れた緑茶を、随分おいしそうに呑む。
「失礼な言い方でしたらごめんなさい。自分が教師に成ったことが間違いじゃないって、思いたかったんです」
残った汁の中に沈んだうどんを救いあげながら、佑人はうん、とだけ言葉を返し、続きを促した。
「教師生活三年目にですね、四年生のクラスを担当したんですけど。クラスの中心になった親子との相性が悪くて、ちょっと苦労したんです。その子、中学受験をするために進学塾に通っていたから、すごく頭がよかったんです。私の授業の度に、そんなものは簡単だってすぐに調子に乗ってしまい、授業を妨害するから私も注意する、を授業中に繰り返していたんですよね。そしたら、その子の親から、中学受験を反対しているみたいな言いがかりをつけられて。でも、他の保護者からは、平等な授業をしてくれってクレームも入る。そんな状態が数か月続いてて。自分の力じゃ解決できなかった。いう事を聞かない子供に口頭注意で言い聞かせようなんて、本当にただの理想論ですよ」
水原の言葉に力が入った。同情してほしいとは思っていなさそうだけれど、余計な口を挟んだら彼女の傷口がぱっくり開くことはわかった。
子供の様に膝を抱き、まるで自分を守るような体制で、水原は穏やかに続ける。
「我慢して、あれこれ試して、どうすればいいか周りにアドバイスを求めると、驚くほど楽観的で理想的な指導法を語られるんです。そうなると、なんで理解してくれないんだろうって、すごく孤独な気持ちになるんですよ。そんなことが繰り返されると、まぁ隠せない私も子供でしたけど、職員室ですら居場所がなくなるんですよね」
どこに身を置いても、結局戻ってくるのは人間関係なのだ。会社だって、学校だって、家族だって。佑人は何処か苦い記憶をなぞりながら、黙々とうどんを食す。風邪特有の、舌先の苦みはなかなか引かない。
「唯一頼りにしていたのが、昔同じ小学校で働いていた先輩兼恋人した。当時は、隣の市に転勤していたんですけど。私が新米だった頃に色々指導してくれた人で、とにかくしゃべるのが上手だったんです。子供たちをのせて、楽しませてってことがうまくて、私自身そういった部分が弱かったから、憧れていました」
まだ僅かに暖かさの残っているほうじ茶を飲む。よくわからない違和感と嫌悪感が、一瞬のどの痛みを忘れさせた。
「自分が持っていないものを持つ人間に憧れてもいいけれど、好きになってはいけないですね。結局、最後に求めるのは同じ価値観ですから。
最初のころは労うような言葉をくれていたんですが、あまりに膠着状態が続いたもんだから、彼のなかにもいら立ちが募ってしまったんでしょうね。私が愚痴や弱音を口にする度、子供相手にむきになるなとか、子供相手に傷ついてどうするとか、おまえは気にしすぎだとか、アドバイスというより説教臭い言葉が増えました」
話の内容とは裏腹に、水原の声は明るいままだ。聞いている佑人の方が、過去に重ねて痛みを遠回しに感じてしまう。痛みなんてどこにでも転がっている、それこそ砂利道の小石のようなものだけれど、そのひとつひとつのエピソードになぞらえば重みが増すのは普通のことだろう。何かが起きて四桁五桁の数の人間が死にゆく危険性をはらんだ世の中で、そのすべてのエピソードに触れたら生きていけない。それくらい、どんなバックグランドも無視できるものじゃない。
「決定打が、お前みたいに気にしいなやつは性格上教師なんか向いてない、でした」
風呂場から水音が消える。梨香が、上がったようだ。
「馬鹿馬鹿しい話ですけど、そこで妙に、納得しちゃたんですよ。あぁ、そっかって。自分は人前に立って常に笑顔で明るくふるまえるような人間じゃないんだから、教師なんて間違った選択だったんだって思ったら、全部に納得がいったんですよね」
痛いほどに共鳴する劣等感があった。間違っていると言われてしまった方が、可笑しいと言われてしまえば捨てられるものの、如何に多い事か。何の手助けもしてくれないけれど、一瞬感覚を麻痺させ、頭痛薬のような感覚をもたらす。それで捨て去った数多くの物を思い出し、佑人は苦みをかみしめる。
「だから、辞めました。解放されてしまおうって、一瞬で決めました」
知っている感覚だ。自分が職場をやめたときと、同じだ。
「お陰で実家には戻れないし、当然彼とも別れるし。友人達なんてみんな教育学部だったり私が教師やっていたこと知ってるから勝手に気まずいし、人間関係には気後れしかないしで、八方塞がり。おまけに、教師に成りたいって思いで頑張ってきた今までの思い出のすべてが、あの一瞬で壊されたんですよね。教師になって、いいことだって当然たくさんあったはずなのに、一つの箱に詰めて処分してしまったようなものですから」
感情のグラデーションは時に、強い方に引っ張られてしまう。記憶を塗り替え、思い出を書き直し、感情を忘れていく。わかりやすい感情の一つだけを、題名に残して。
廊下をペタペタと歩く音がする。風呂上りは必ずスリッパをはくように言っているのだが、一向に直す気がないらしい。何度言っても、聞き流される。昔はもう少し素直というか、従順だった。今だって素直ないい子だけれど、きちんと自我をもったのだ。
「佑人君」
リビングに戻ると同時に、梨香は佑人の背中に張り付く。風呂上がりのシャンプーの清潔な香りと、微かに高い体温が心地いい。そんな自分たちのやり取りを眺めながら、彼女の長い髪から滴る雫をタオルでさりげなく掬い取った水原の姿に、多分幸せとはこういうものだと思った。無邪気な笑顔と、不幸を一瞬でも忘れられた笑顔。少なくとも、自分がどこかで欲した幸せはきっと、こんな姿をしていた。




