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七章

ランドセルを背負った梨香の背中に違和感がなくなりはじめ、既に一か月近くが経っていたことを実感する。彼女もまた学校の準備を一人でできるようになった。宿題をする姿も板についてきたものの、出来はまだいまいちだと感じることも多く、その着実な歩みは見ていてほほえましい。そして、自分を追い抜くだろう知能を考え、引け目でしかない憂鬱にさいなまれる。

 なんとなく気分が乗らず、佑人は食堂を避け、一人で裏庭を眺めながら食事をした。今頃梨香も給食を食べているのだろうと考える。食の細い彼女が、それなりの量の給食を苦労して食べていることも知っている。均された指令の負荷は、人によってあまりに重たさが違う。個性はそれぞれ、性質もそれぞれ。個性を認めるというのならばむしろ、初めから平等など示さずに、躍起になって足元を揃えさせたりせず、明確な階級制度に支配されていたい。おかれた場所で言われるままに生きることに疑問を持たずにいられたのなら、それはおそらく幸せなことなのだ。

建物の、僅かばかりの屋根を日よけに使っても、真夏の湿度は高い。壁につけていた背はべったりと汗で濡れている。それでも、ひんやりとしたクーラーもそれはそれで身体が受け付けそうになかった。お茶のペットボトルを傾けると少し目に入った青空が広く、高い。雲一つないせいか、ほんの少し寂しくすら映る。澄み切っていて、果てが見えない。空だけは人間に支配されないでいてくれと、佑人はひそかに思っている。科学が進めば空を飛ぶ車も出てくるのだろうけれど、見上げた世界に青空が見えなくなったら、おそらく人間の心は荒む。科学が命を宿したこの世界で、干渉されない自然などすでにないのかもしれない。それでも、雨の降らない世界も陽の差さない世界も、御免こうむりたい。

「隣、いいかい?」

 唐突に声が響き、顔を覗き込まれた。佑人は思わずお茶にむせそうになりながら、どうぞとだけ告げた。広田は少し笑い、隣に腰かける。その隙間、およそ一メートル。正しい距離感のはずが、最近は梨香とぴったりと傍にいることが多かったせいか、妙に正しい壁があるように感じた。

「ごめんね、驚かすつもりはなかったんだけど、真剣そうだったから」

 少し恥じるような口調で言われ、逆に佑人の方が恥ずかしくなる。広田は持っていたビニール袋を開き、コンビニのサラダを取り出す。食べ始めると、しゃくしゃくと野菜が瑞々しい音を立てる。健全な音、と思う自分が可笑しい。

「広田さん、サラダなんて食べる人でしたっけ?」

 広田はしっかりとした咀嚼ののち、

「ちょっと、お腹がね」

 そう言って腹部をさする。特別肥満体型ではないが、確かに広田は肥えた。ここに佑人が来たときは体格がいいとすら感じたものの、今では大柄といった風に見える。これで性格が柔和だから、余計信頼したくなるのだけれど、確かにそろそろ気を引き締める段階かもしれない。

「今日は池谷くんと一緒じゃないんだね」

「いつも一緒にいるみたいに言わないでください」

「いつも一緒じゃないか」

 そう言われると否定らしい否定もできないが、なんとなく納得はできなかった。

「昼休みも取れないほど忙しいらしいです」

 休みは愚か、池谷は昨日家に帰れていない。「同じ職場なのに、こうも違う待遇見ると、なんだか悪い事してる気分になるんですよね」

 広田はサラダを食べ終えると、丁寧にカップを閉じ、ビニールにしまった。次に取り出した小さめのパンに、広田の本気を見た。

「会社でも部署ごとに苦労の度合いが違うのはよくある話とはいえ、バランスの悪さは感じる現状だね。うちはアンドロイドの恩恵に預かって楽をできるようになったけれど、池谷君のところはその分以上に忙しい。どこかに必ずしわ寄せは行く」

 広田はのんびりというけれど、心中穏やかでないことは察せた。昨晩、池谷から連絡があった。徹夜しているから明日の昼頃までに買い出しをくれないかということだった。コーヒーや栄養ドリンク、栄養バランス食に温めるだけの食品類。既に買い出し係と化した佑人が彼の職場を訪れると、池谷のみならず彼の上司や先輩方からも労われた。

「もちろん待遇面って一長一短だから他社の福利厚生に文句なんて言う気はないですけど。なんとなく、嫌なことを思い出すんですよ」

 なんとなく憂鬱だ。佑人は自身を取り巻くようにばらまかれた憂鬱の欠片を意識し、ため息をこぼす。

「すいません。愚痴を言いたいわけじゃないんです」

 佑人は言い訳のようだと意識しながら、力なく謝る。

「知ってるよ。それに、わかるよ。嫌なことって、ふとした時に呼び起こされて、全てを破壊する効果があるよね」

 広田は小ぶりのパンを二口程度で食べ終え、長いため息をついた。

「でも、いい事ばかりを想像出来る日もあるんだから、結局は心持ち次第なんだよ」

 広田の、まるで自分に言い聞かせる様な独り言に心の中で大いに同意をしながら、佑人は空を見上げる。日陰にいても、空の明るさはきちんとしれる。

困ったことがあるわけじゃない。苦しいことがあるわけじゃない。死にたいわけじゃない。でも、困ったような気持ちにもなれば、苦しみを探し出してしまうこともある。死んでしまえばと仮説を立ててしまうこともある。

 その後、互いに食事を終えて事務室に帰る際にお手洗いに寄った広田と別れ、職場の廊下に並んだ自動販売機でカップ入りのコーヒーを買ってその場で飲みながら、目の前を通り過ぎるアンドロイドたちを眺めた。彼らは業務に従事するアンドロイドなので感情部分は未発達で、それはもちろん人間が仕向けたことだけれど、実際どのくらいの感情があるのだろうと、ぼんやりと考える。佑人の前を通りすぎる際には挨拶をしてくれて、でも全然愛想のない笑顔で、仕事中のコミュニケーションも無駄がないけれど、微妙な感情論は伝わらない。仕事仲間と考えれば卒のない優秀そのもの。しかし、そもそも彼らは佑人を人として見ているのかすら怪しい。おそらく同じ業務をする人間なら佑人じゃなくてもいいのだろうし、佑人が仕事で関わらなければ一切興味のない、その他人間の一括りに過ぎないのだろう、そこまで考えてから、そんなのは人間も同じじゃないかと考えを改める。人間とアンドロイドに明確な線引きをして、それまで感じていた味気なさをアンドロイドという性質に押し付けるのは、あまりに偏見だろう。

 それでも、と思う。彼らはそういうアンドロイドなのだ。NE型は感情を持たないのだから、彼らには繊細な気遣いなど無用と言える。

 腕時計を確認し、コーヒーを飲み干す。肌触りの柔らかなカップを握りつぶしてごみ箱に捨てた。



 想像していたよりも、夏休みというのは存外厄介なものだと気付いたのは、梨香の夏休みが始まって四日が経ってからだった。こればっかりは大人の立場の話だが、普段はいない子供の世話が一日まとめてかかり、更にそれが何十日と続くのはわかっていても負担になる。

梨香が持ち帰った朝顔は、彼女を泣かせたことなど遥か昔のことと言いたげに毎朝鮮やかな色彩の花を咲かせる。毎朝水やりをするのだが、梨香は律義に佑人を誘って庭に出る。梨香が小型のじょうろで水やりをする姿を見届け、二人できれいだねと言い合う。白地にグラデーション気味に広がった色合いの綺麗さももちろんだが、分かれていない花びらがほほ笑むように緩やかに開いた生命力とか、近づくと微かに香る植物特有の清潔感ある香りとか、花の色を引き立たせる濃い緑の葉とか、そういった向日性の結晶が美しい。五感に響く命の存在感に、生きている感覚が共鳴する。それは居心地のいい日課なのだが、朝顔ならば時間が来れば花が閉じても、梨香はそこからが今日の始まりだ。梨香の生活レベルでは一人で留守番などさせることが出来ない。今週は佐川に頼んでいるが、このまま八月末までなどさすがに迷惑だろう。だからと言って、佑人の夏季休暇では残りの日数などとてもカバーできない。

 仕事終わりに重たい手つきで着替えをしながらため息交じりに悩んでいると、すっと横から缶コーヒーが差し出された。

「お疲れ様です。よかったら、どうぞ」

 水原だった。コーヒーと逆の手には、いつもと変わらぬ硬水のペットボトルが握られている。

「あ、ありがとうございます」

 受け取る際にほんの少し触れた指先に心臓を大きく揺らした自分があまりに子供じみていて、佑人は内心で大いに恥じる。近くで見ても、水原は綺麗な人だと思う。きっと、肌がきれいだからだろう。梨香の艶やかで柔らかな肌とは当然違うけれど、荒れのない真っ直ぐな肌をしている。化粧気がない分粉っぽさや無駄な均一感もなく、とにかく自然に映える。

「カフェインを抑えようと思っていたのに、いつもの癖でコーヒーを買ってしまったので、むしろ押し付けるようでごめんなさい」

 水原は恥ずかしそうに微笑み、水を飲んだ。水原はよくミネラルウォーターを飲んでいる。しっかりとした造りのペットボトルに入った硬水。いつも同じ、銘柄。人間の身体の七割が水だというから、残りの三割の偉大なこと。

「いえ。助かりました」

 今まさに自販機から取り出された缶は冷たく、悩ましさで混乱していた頭に癖のないブラックコーヒーはよく効いた。

「何か、気がかりでも?」

 さりげなく聞かれ、佑人は不意に興味がわいた。

「水原さんは小学校の夏休みって、どんな風に過ごしましたか?」

 自分の夏休みを思い出しても、佑人には寂寞の想いしかない。母がまだいて、遊びに行っても、習い事に行っても、帰れば母がいた。六年生の夏休み、母のいない夏休みはあまり悲しくなかった。悲しむには、十二歳の少年は大きくなりすぎていた。父親に早く帰ってきてくれと言うだけの幼さを、既に無くしていた。それでも、父の夏季休暇にやった花火、流しそうめんの思い出は、未だに鮮明に覚えている。佐川や小百合も遊びに来て、四人でやった流しそうめんの楽しかったこと。

 思い出すと、思い出ばかりなのだ。年が過ぎれば過ぎるほど、あの日々はどれだけでも美しくなっていく。もう二度と戻らなくなった今、縋りたくなるほど温かく、美しく、壊れやすい。

 ペットボトルから唇を離し、彼女は少し唇の端を舐めた。

「低学年はあまり覚えていないですけど、高学年は夏期講習が忙しかった記憶がありますね」

 遠い記憶を探る様に目を細め、水原は微かに笑った。その裏に幸せをなぞっていないだろうことを感じてしまうから、余計なことを聞いたと後ろめたい気持ちになる。

「子供の時の記憶って、楽しかったことでも悲しかったことでも、とにかく輪郭しか残らないものですよね。細かい事なんて、何にも覚えてない」

 さわやかに、何気なく言う水原を横目に、佑人は確かにと呟く。記憶など、それらしい感情になぞらえられた小さな一色のまとまりでしかない。なのになぜ、こんなにも自分が左右されてしまうのだろう。

「でも、夏休みって言う響き自体は、やっぱりどこか幸せに感じますね」

水原はそう言って、ぐっと眉にしわを寄せる。勝手な思い込みだろうけれど、水原はあの日以来、佑人に対して表情を見せるようになった。先ほども配達用のアンドロイドに五つの荷物を部屋ごとに配るよう指示したところ、部屋の位置関係無視で言われた順番を律義に守り、結果必要外に歩き回って時間を遣った事実を聞き、呆れた表情で佑人を見てきた。まるで、同意でも得るように。

「梨香ちゃんのことですか?」

 ペットボトルのラベルを指先でいじりながら、水原は尋ねてきた。

 あれ以来も、佑人は水原と様々な会話をしてきた。仕事のことから日常的な世間話まで多岐にわたる話をしたけれど、何故か互いに梨香のことには触れることはなかった。何故かと問われてももっともらしい答えがあるわけではないが、思いがけず近づいた距離の分だけ、正しく離れてみたというところか。互いに、小細工なしに踏み込んでいける性格でないので、話の進みは遅い。いざってときも今ってときも、日常生活にはあまりない。

「夏休みだっていうのに、何もしてやれないんですよね。友達だってまだそういないだろうし、習い事をさせるのも憚れるしで」

 スイカやかき氷で機嫌取りをしているだけの自分が、なんだか情けない。

「あの、本当によかったら、くらいの話なんですけど」

 水原がおずおずと切り出してきた。

「私の夏季休暇の間、梨香ちゃんをお預かりしますよ」

 驚いた佑人は飲みかけのコーヒーを唇の端から零しそうになり、慌てて口元を拭った。

「いや、え?」

 本音で言えば、嬉しい申し出であることに間違いない。あの日、水原に出会った梨香の嬉しそうな笑顔を思い出す。佑人に対するときとも、佐川や小百合に見せるのとも違う子供らしさを、梨香は水原に見せていた。水原の少し控えめな距離の取り方に、梨香はむしろ近づきやすさを感じたようだ。

「それは申し訳ないというか、甘えが過ぎるというか」

 慌てふためいた自分の回答が情けない。他人の好意への甘え方は、いつになってもわからないままだ。

「楽しかったんです、すごく」

 零すように、水原は小さく呟いた。意識的に小さな声を出したわけではないだろう。それでも、彼女の言葉はどんどん萎んでいく。

 目を伏せて笑った水原は、確かに感情を隠している。隠すまでもない、彼女の中にある本質的なみずみずしさを、佑人は知っている。水原は優しい人で、それは純真さと重なっている部分があまりに多いから、荒んだ社会に揉まれてしまえば壊れてしまうのだ。人は生まれながらに持っている性質がだいぶ違うらしく、それらを個性だの性格だのと分類ごとに分けてみては、的外れなレッテルを貼りあう。

 水原が、それこそ梨香ほどの幼さだった時に目指していた大人とは、どんな存在だったのだろうか。ふと湧いた疑問を、しかし尋ねるにはまだ数歩、足りていない。

 ペットボトルのキャップを指先でいじる水原の指先には、真っ黒いネイルが施してある。よく見ると、大粒のラメまで散らばっていた。女性的な細い指先と、鋭くとがった爪先に映える漆黒。ぎらつく程のシルバーリング。こうやってしか、自分を守れない人がいる。

「ご存知の通り、元教師ですから。子供の面倒を見るのは、意外とできるんですよ」

 それだけにとどめた水原の言葉にはきっと、続きがあった。そう勘づいたところで、佑人にできることなどない。

 ただ少し、佑人は確信をしていた。水原は梨香に出会って以来、ほんの少し明るくなった。彼女の内側に備えられていた健全な明るさが、彼女自身を照らしている。佑人自身が感じた梨香の純真な優しさを、水原も感じ取ったに違いない。子供の笑顔で浄化される感覚は、大人社会では出会えないことなど知らなかった。



 本当に、水原は数日しかない夏期休暇のすべてを梨香のためにつかうと言い、実際に佑人の休暇とずらして休みを取った。

「実家に帰ったりはしなくていいの?」

 思わず尋ねると、とたん水原は目を伏せ、微かに笑った。

「ずっと、帰ってないんで」

 突っぱねるような口調に、佑人は言葉を失った。つもりはなかったのに、盛大に地雷を踏み抜いたのは明白だった。フォローの言葉を捜した佑人に、水原がはっとした顔になり、

「良いんです、これはこれですから」

 そう言って、取り繕うような愛想笑いを浮かべた。

 水原という人間は想像よりはるかに正直な人間だ、と思う。彼女の中には身勝手な線引きが常にあって、それはけして非道ではないけれど、何方かと言えば潔癖的に独りよがりだ。綺麗な水に魚が住まないことぐらい知っているけれど、その魚自体が穢れを知らないことはよくある話だろう。

 梨香は水原の家に行けると知るや否や身を乗り出し、本当かと三度も尋ねてきた。

「うん。水原さんのところで、いい子にしてね」

 そうはいったものの、特に心配はしていなかった。梨香は限りなく優等生で、その点においての水原との相性は、男女であったらより理想なのではと考えるほどだ。

 当日、水原の最寄り駅で落ち合った水原のいつもと変わらない小奇麗で洗練されたファッションは、人通りの多い下町の駅前にはとても似つかわしくなかった。ただ職場の時とは違い、大きく開いた胸元にゴールドのリングネックレスをしている以外には装飾品をしておらず、いつも丁寧に纏められた艶やかな髪を真っ直ぐに下ろしていた。そのせいだろう、いつもよりも幼く、年相応に若くみえる。

「おはようございます」

 改札を抜けてアイシーカードをかばんに入れるのに梨香の手を離すと、彼女はぱっと駆けて、水原の隣に張り付いた。

「おはよう」

 水原は髪を揺らして腰を下ろした。細身のシャツが身体のラインを強調するようで、佑人はそっと目を逸らす。たとえ本人が気づいていないにしても、梨香の傍というだけで途端に気遣ってしまう。

「今日も可愛い服着てるね」

 水原に言われ、梨香は満面の笑みを浮かべて、シャツの裾を引っ張った。

「これね、佑人くんとね…」

 以前、佑人が一人の買い物の際に店頭で見かけた、濃いピンクにドットの散ったシャツだ。派手なデザインにそのときは素通りしたのだが、帰ってみてから、あのデザインは子供らしく華やかで、ビビットカラーの組み合わせは梨香の白くて柔らかな肌を引き立たせるかもしれないと考え直し、後日梨香を連れて買いに行ったのだが、既に完売していた。気を落とした佑人に、店員が取り寄せを提案してくれたのを、先日引き取ってきたのだ。その過程を梨香は懸命に説明しているのだが、事実を知っている側からすれば無駄な部分が多く、肝心なところを言わないものだから、服を買うだけでたいそうな物語が出来てしまっている。佑人は思わず話を訂正したい気持ちになったが、目じりを下げて笑う水原が

「そっかー。でも似合うし、可愛い服を買ってもらえてよかったね」

 そう話を締めくくりにかかったので、大人しく引き下がる。つくづく、水原の子供の扱いは手慣れているように感じる。それでいて、雑でも硬くもない。するっと子供の心を掴んでいるような安定感があった。

「じゃぁ、梨香ちゃん。野沢さんに、いってらっしゃいしよう」

 水原が立ち上がり、梨香に見えない位置で微かにほほ笑んだ。心配が顔に出ていたことを自覚し、佑人はゆっくりと頷く。安心して任せると言うのが、任せる側の礼儀なのかもしれない。

「じゃぁね、梨香。夕方には迎えに来るからね」

「うん」

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 梨香が手を振る。別れ際の、背中に不安のない笑顔は、相手のためにあるのだろう。 

 目線をあげて水原と目を合わせる。よろしくお願いしますと言おうとしたとき、水原が手をあげ、

「行ってらっしゃい」

 肩口で振られた華奢な手。口調に甘ったるさや手放しの優しさなんてものはない。ただ、彼女の実直さを見ているような気持ちがした。

「行ってきます」

 今更、丁寧に頭を下げて欲しいわけじゃない。水原のそんな気持ちが、佑人には少しわかる気がした。


 

 水原に預けてから三日もすると、佑人よりも梨香の方に慣れが生じてくる。今朝、梨香は一人で水原宅に行くと言い、本当に佑人を車内に残したまま一人で途中下車して行ってしまった。乗り換えて一駅、本当に行けるのか不安で仕方なく、いっそのことこっそりと後を付けようかとも考えたが、バレたときに彼女のプライドを傷つける心配や、そもそも満員電車では現実的ではなく諦めた。水原に、一人で向かったので駅前で迎えてやって欲しいと連絡を入れると、十分程してから彼女の後ろ姿の写真が送られてきた。水色のワンピースに白い薄手のカーディガン。背負った白地にピンクのデザインがされた小さなリュック。今朝着ていた服は、彼女の中でも特別気に入りの物だ。片手にクマのぬいぐるみをしっかり抱えているあたり、多少の不安はあったのだろう。この日差しの強い真夏日に、毛並みの柔らかなぬいぐるみは暑いだろうに。

 大人になったというのは変な気がしたまま、それでも彼女の成長に目を細める。これが子供を持つ親の気持ちかと思うと、子育てはいいと語る親世代を毛嫌いする気持ちはなくなった。理想の子供というけれど、そんなものはほんの一握りだけだということは親の中でも十分に想定されており、別に大仰なことなど望んではいないようだ。

 しかし、梨香が想定外に一人で行ってしまったため、佑人は始業までの時間を持て余した。さて困ったと、事務所内を見渡す。夜勤明けで帰ろうとする人たちの疲れ切った表情を見ているのもなんだか億劫だし、それはきっとお互い様に見える。同じ仕事をしているけれど、中身があまりに違ければ、意識の差もあった。何方の方が上、という意識もないまるで底辺の戦い。

 佑人はジャケットに着替えると、そっと事務所を出て、池谷のところに向かった。向かうついでに自動販売機に立ち寄り、数本の緑茶を買った。

「おはようございます」

 すっかり慣れた明るい声で作業場に入ると、数人がこちらを振り向いた。佑人の声に勝るとも劣らない明るさで、返事が返ってくる。

「お、野沢くん。早いね」

「えぇ、予定がずれまして」

 ここはいつ来ても面白みがある、と佑人は思った。自分たちの事務所よりはるかに残業が多く責任も重い作業場となっているが、専門職を手にした人間の活力や仕事への熱意はすごいものがある。昔は父の姿を重ねているようでうんざりしていたが、今になれば情熱的な意識で仕事に向かうこの人たちを尊敬する。こんな朝早くからでも明るく仕事に熱中している人たちの背中は、どこまでも頼もしい。

「今日暑いんで、緑茶の差し入れです」

 そう言って、勝手知ったる冷蔵庫に数本の緑茶をしまった。冷蔵庫の中にゼリーだとか栄養ドリンクが住み着いているのが分かったけれど、見なかったふりをした。

「おお、助かるよ。昨晩、アンドロイドの一つが急に壊れてね」

 室長をやっている男性が、佑人に近づいてきた。少し汚れた指先を、近くのペーパーでふき取る。工具の汚れと堅そうな皮に覆われた、大きくて分厚い手だった。

「壊れた?」

「そう。いきなり、腕の部分が落ちたらしい。幸い、入居者の方に被害はなかったんだけど、それで朝から大騒ぎ」

 それが、今朝の事務所の重たい雰囲気の原因かと、佑人はため息を隠す。被害が無くても、心臓が持たない。アンドロイドに何かあれば、自分たちが責任を負わされること前回の一件で痛いほど理解した。

「おそらく作業工程で何かあったんだと思うんだけど」

 背の高い彼を見上げると、苦笑いを浮かべた顔をしていた。目が合うと無理に笑い、向こうも忙しいんだろうねと言った。その気苦労の見える笑顔を見ながら、難儀な社会だなと他人事に考えた。アンドロイドは既に工場での大量生産がおこなわれている。知能型でないアンドロイドや、安価なアンドロイドが求められている以上、作ってもすぐに壊れるのが現状だ。働き手が失われてアンドロイドの普及が急がれ、そのアンドロイドを生み出すための人材が不足する。何とも間抜けな自転車操業だ。

「池谷くんならついさっきふらっと出て行ったよ。すれ違わなかった?」

 佑人は首を振り、お礼を言って部屋を出た。

 一瞬閉じた扉を振り返り、どんなに忙しくてもどんなに辛くても笑顔で乗り切ろうとする大人の強さに、言いようのない敬意がこみ上げた。

 喫煙所に向かおうとしたが、食堂前を通ったとき、

「野沢」

 食堂にいた池谷に声をかけられた。

「何喰ってんの?」

「ラーメン。塩」

 そんなもの見ればわかる。薄い乳白色の塩ラーメンはあっさりしているうえに野菜が多く使われており、食堂でも人気メニューになっている。手ごろな値段設定も相まって、佑人もよく食べている。

「朝から?」

「早めの昼食と呼んでくれ」

 そう言われると返す言葉もなく、佑人は黙って水を汲みに行き、一つのコップを彼の前に置いた。

「相変わらずのワーホリぶりで」

「オレはいいけどさ、マジで先輩とかは可愛そうって思う」

「なにが?」

「先輩、子供いるじゃん。こう毎日遅い早い不規則の繰り返しって、子供に忘れられてそうだろ」

 そう言ってラーメンをすする池谷を眺め、意外にも想像力があるなと上から考える。

「やっぱ研究職って結婚向かないもん?」

 佑人は何気なさを装って尋ねた。

 蓮華でスープをすくっていた手をとめ池谷は少し遠くを見る眼付きをした。意外にも目が大きいせいか、ふとした表情は幼い。

「今の自分の生活を考えると、人を幸せにできる気はしない」

「そっか」

「野沢だって思うだろ?今、俺のような生活をしていたら、お前はあのちびちゃんを引き取りはしなかっただろ?」

「でも、普通子供を育てるときは、大抵結婚相手が居るわけじゃん」

「だから、言ったでしょ。可能か不可能かの話じゃなくて、幸せにできるかどうかの話」

 ぐうの音も出ず、佑人は軽いため息をついた。

「今は、夏休み中?」

 頷くと、どうしているのかと尋ねられた。

「今週は水原さんが引き取ってくれてる」

「は?」

 箸を止め、彼は驚いたように目を見開いた。

「水原さんって、元小学校教師なんだよ。だから、困ってるって話したら、今週引き取ってくれた」

 唖然とした表情のままだった池谷は何を思ったのか、にやっと性格悪く笑った。

「お前も意外とやるな」

「失礼なこと言うな」

 そう睨み付けると、それ以上の言葉はなく彼の意識はラーメンに戻された。

 その後仕事でのトラブルの情報交換をした後、帰り際、

「うちはお宅程の休暇はないけど、家も託児所にしていいから。レゴと数学なら教えられる」

 そう宣言されたので、

「それは助かる。世界の偉人とかいう本でも持たせるな」

 彼は肩をすくめ、それでも良いと返し、速足で事務所に戻っていった。

 佑人は事務所までの僅かな道のり、ぼんやりと先ほどの会話を反芻していた。幸せにできるかどうか、という議題はあまりに荷が重い。選択肢があれば後ろ向きなものばかりを想定してしり込みする自分の性格は、池谷の発言そのままのようだけれど、思いがけず与えられた事態に覚悟を決め込めばできないことばかりではなかった。

 自由は自由じゃないなんて言葉は大人の戯言だと思っていたけれど、実は真理だった。選択肢が多すぎるから迷い、何かにぶつかる度に後悔しなければならなくなった。責任なんて言葉が、うすら寒い。

 もしも。佑人は事務室に入り、朝礼のための準備をしていた広田に挨拶をする。天気がいいねという社交辞令に、ここのところずっと洗濯物の乾きがいいですと笑顔で対応する。

 もしも、結婚することが当たり前で、子供がいることが当たり前で、そんな少し昔の社会に生まれていたのなら、自分の悩みは多少なりとも軽減されるのではないかと考える自分がいた。



 それから数日の間、梨香はずっと水原の世話になった。その間、大人や異性には理解できない小学生女子の文化をたくさん教えてもらったらしい梨香は、以前に比べ少し上品さを身に着けていた。例えば靴の揃え方が、それまでは履きやすい様に扉に向けて並べるだけだったのが、側面に沿って一定の間隔を空けてみたり、洋服の畳み方も柄物はデザインが見やすい様に、装飾品が付いたものはそれを上に出すなど、それぞれのマイルールを学んできたようだった。一番嬉しがっていたのは、水原からおさがりでもらった、ネックレスとマニキュアだった。もうデザインが幼くて持て余していたからと言って譲り受けた星と月のデザインのネックレスは、確かに佑人の知っている水原が好みそうにはない。小ぶりで華奢なおもちゃのようなそれは、しかし小さいながらもダイヤモンドが飾ってあるという。

「こんな高価なモノを貰うわけには…」

 ダイヤモンドの価値など到底知るはずもない梨香を前に、佑人は口ごもった。自分自身も正直なところ値段などいまいちわからないものの、それが小学校一年生の身の丈に合わないことだけはわかった。

しかし、水原は向かいに座った佑人に向き直り、諭すように言った。

「家のジュエリーボックスの肥やしにしても仕方ないですから」

 迎えに行ったついでに上がらせてもらい、出してもらったアイスティーからは爽やかなオレンジとレモングラスの香りがする。舌先に苦みを残さないすっきりとした飲み心地も、湿度の高い夕暮れの下町を歩いた身体に沁みた。

 水原のアパートは駅から十五分歩く必要があったものの、通りはほぼ住宅街を抜けるだけと比較的立地が良かった。小作りだが清潔な見た目をしたアパートの一室は想像した通り物が少なく、よく手入れの行き届いた家具が整然と並んでいるだけだった。ところどころに置いてある時計や文房具までもインテリアとしてよく部屋に馴染んでいる。一貫性のある空間は、彼女の拘りをよく示していた。オフホワイトの柔らかなマットの上に置かれた梨香の荷物だけが、妙に可愛らしい。

「梨香ちゃん。このネックレス、大事にしてくれる?」

 優しく問われ、梨香は小さな指でネックレスの飾りを触りながら、大きく頷いた。それを見ていたら、横から口を挟む方が野暮に感じて、佑人はそっと口を閉じた。母を亡くした時期が早く、性差など理解できない子供だったせいにするのもあれだが、佑人は女性というものがいまいち把握できない。怖いと言い換えても不適切ではないだろうし、神秘的に見ていると言っても過言ではないのだろう。しかし、佑人はそれを自覚的だった。

 その後、来週から仕事復帰する水原に、佑人が入れ替わって休みを取るため、仕事の引継ぎの話をした。特に変わったことはなかったので、軽く説明をし、水原もとりあえずと言った様子で軽く聞いていた。大人の話が始まると、梨香は隣で折り紙を始めた。水原と一緒に覚えたという折り紙の手さばきに、佑人は僅かに眉をひそめた。とても小学生とは思えない折り目の美しさ、バランスの良さ、迷いのない記憶力。どれをとっても人間離れしていて、更にその指先に真っ赤なネイルがしていれば尚更だ。

「女は時に、ブランドに育てられるものなんです」

 佑人の目線に気付いた水原が、まるで佑人を諭すかのように落ち着いた口調で言った。目線をあげると、全て知っているとでも言いたげな、少し挑発的な瞳をした水原が笑う。唇には、ネイルに負けない赤が上品な艶を発していた。

「女性というのは、ブランドに憧れ、ブランドに似合う女に成ろうとする。それは身の丈には合わない方が多いです」

 でも、と、水原は続けた。

「一つのネックレスやカバン、靴やワンピースでもいい。なんだっていいんです。その伸ばした指先で得た何かを身につけることで、いづれ自分自身がその場所まで届くようになる。それって、素敵なことじゃないですか」

 問いかけではなく説き伏せる様な言葉だというのに、妙に説得力がある。

 佑人は、梨香の傷つきやすそうな肌にちらちらと控えめに輝くネックレスを見つめる。このネックレスに手を伸ばした水原の姿が思い浮かばないけれど、そうした時期が彼女にもあったと思うと、妙に落ち着かない気持ちになる。

 

 

 次の週は佑人自身が梨香の面倒を見た。毎朝一緒に朝顔を観察して、絵日記を書く。宿題をやって、プールに行き、夕食に力を入れた。その次の週は池谷が野沢宅に通って世話をしてくれた。本当にレゴへの熱意をぶつけ合ったらしく、リビングを侵食しだしたレゴの城にさすがに閉口したけれど、梨香のやり切った顔を見れば文句の言いようもない。裏で池谷のすねを蹴飛ばしてみたけれど、彼もまた、何処かで休みを有意義に使ったことへの達成感のようなものを口にした。

「家族とか、子供がいることの良いところだけを経験した気分」

 そういった池谷の横顔には憂いがなく、彼なりにこの日々を大切に感じてくれたのだと思えば嬉しかった。ただの食わず嫌いとは違い、経験に基づいて敬遠した未来に少し交わった今が、過去のバイアスを少し和らげてくれればそれだけで十分だ。

夏休みの最後の週は、また佐川の世話になった。佐川もまた、梨香を我が子の様にかわいがってくれていて、その姿を見た佑人は自分がそうされていた過去を思い出した。一人で避け続けた過去が、上塗りを止めるように引き出される。自分はそんなに不幸だったかと、ふと浮かんだ疑問に、佑人は目を閉じた。何方と決めつけても苦しみが軽減できるわけじゃない。それでも確かに、言い訳にして振り向くだけじゃない選択肢を覚えた。それだけで十分だった。



 昼休みに、佑人は水原と食堂で一緒に食事をしていた。珍しく昼食を準備していないという水原に付き合う形で、食堂の冷やし中華を食べた。

「冷やし中華なんて、今年の食べ納めですかね」

 同じものを選んだ水原が一口食べて、そういった。

「まだまだ暑いですけどね」

 食堂の外に目をやると、見ているだけで息が重くなる程の日差しが路面を跳ね返る。

「九月って、残暑厳しいわりに、何故か秋の雰囲気がすごくしてくるんですよね」

 割り箸で丁寧に麺をほぐしながら、水原が呟く。

「学校に勤めていた時は特に、夏休みの終わりと同時に、夏が終わるイメージがあって。これから行事だらけの秋が来るって気持ちで、常に新学期を迎えていたんですよね」

 今日の水原は、こげ茶色の半そでを着ていた。身体のラインをはっきり出すタイプで、佑人はなんとなく目のやり場に困った。

 汁に浸した色鮮やかな野菜を口に運ぶ。さっぱりとした汁も、瑞々しい夏野菜も、僅かに季節外れな気持ちがするから不思議だ。

「梨香ちゃんも、今日が始業式ですよね」

 今までならば顔を突き合わせれば仕事の話ばかりだった関係の中に、梨香という共通にして内密の話題がある。そうして出来た信頼関係には、安心感と共に妙な背徳感を感じる。

「えぇ」

始業式だけという今朝、梨香は落ち着きのある表情で学校へと向かった。微かに感じた変化を、佑人は悲しい気持ちで見つめた。ランドセルの中に揃えられた課題は、どれも完璧だった。

昨日の夜に、佑人は梨香と宿題の最終確認をした。

「漢字プリント」

「ある」

「計算ドリル」

「ある」

「中もやってある?」

「うん」

 そう言って、梨香はドリルをざっと捲って見せた。大きなマス目に、濃いえんぴつの数字を見つめ、佑人は良しと声をかける。

「絵日記」

「ある」

「お手伝いシート」

「大丈夫」

 家族のお手伝いをしよう、という何とも道徳観溢れる課題で、梨香は小百合と料理を作り、佐川と近所のゴミ拾いをし、水原と靴洗いをしたらしい。それを保護者のコメント付きで一枚の紙にまとめるというもので、コメント欄に書かれた小百合の整った字と、佐川の大きな文字に比べ、水原の小さな文字と言葉を尽くしたコメントに、感謝しかなかった。

「自由研究は?」

「これ」

これも、水原に手伝ってもらって作ったという手芸品だった。フェルトで造られた猫の人形は梨香の手のひらでも余るほど小さいが、手足や耳もきちんとあるあたり、相当水原に手伝ってもらったのだろう。

ひとつひとつは簡単だけれど多岐にわたる宿題をリビングに広げ、畳が見えないほどのプリントの数に、大人の欲望は底が知れないと思う。これだけの数を出すと、一つ二つ行方不明の宿題がでても仕方がない気がする。あれもこれもやらせてみるけれど、おそらく身に造知識はほんの一握り。自分が子供であったことを、大人は過去にしすぎている。

「あとは、朝顔だね」 

梨香は引いたカーテンの向こう、庭を指さした。

「元気」

 顔を見合わせ、ハイタッチをする。小さな手のひらは冷房に冷えることなく、温かい。

「よし、じゃぁ、後は寝るだけだね」

長いようで短かった夏休みが終わって、二学期が始まる。佐川の家に行き、水原と過ごし、池谷とレゴの城を作った。梨香が学校を嫌がるかもしれないという心配をしていたが、彼女は軽い足取りで明日の準備をし、お気に入りのワンピースを枕元に置いた。

梨香の寝息が聞こえてきたころ、佑人は悪いと思いながらも、最近梨香がやっているドリルに手を伸ばした。表紙に印刷された、小学校三年生向けの文字には不安を覚える。良くできるからと、佐川が買い与えてくれた。

傍にいる梨香からは、特別な変化は感じない。無邪気で、愛らしく、真っ直ぐな性格に、佑人の不安定な気分は理性を保ち、感情的にも救われる。子供の可愛さなど考えもしなかった自分に、梨香の存在は常に新しさでもあり、それでいて懐かしさも覚える。

何も変わってはいないはずだ。けれど、彼女の中で、確かな変化があることは歴然だった。昔のように挙動不審になることなど当然なく、むしろ頼り甲斐すら出てきた。一人で家に残すことも心配ではなくなった。しかし、彼女の著しい成長を目の当たりにする度、それが不安になる。アンドロイドであることは何も悪い事ではないけれど、恥じるつもりはないけれど、わざわざオープンにする必要もないように思う。しかし、今の梨香に、その佑人の感情がどう伝わっているのか不安で仕方なかった。後ろめたさに似た焦燥感を拭えないまま、佑人は綺麗な赤丸だらけの算数のテキストを閉じる。彼女の知能指数は、既に自分を超えたように思う。きっと、恐ろしく天才的に賢かった父が、その知識をどれほど費やして彼女に与えたのか、佑人にはわからない。同じ遺伝子を持った実の息子よりも美しく、賢しい少女のアンドロイド。どのように育てようとしていたのか、彼の意図など、今となっては知り得ない。

知らない方がいいのだろう。冷やし中華を混ぜながら、考えた。知ってしまったら、きっと、後戻りできなくなる。

父の期待に応えようとした自分の真面目さや純真さを、佑人は過去の物にした自覚はあるものの、否定したくはないと、何処かで思っている。持ち物が違うのに、才能の大きさは有限だというのに、一体なぜ同じことが出来ると過信したのだろうと嘲笑う気持ちと、失ったものの大きさと不器用な生き様は表裏一体だと知っていた。

「水原さん、元教員ですよね」

 なんとなく、聞いてはいけないパンドラの箱だった質問を、佑人は彼女の表情を伺いながら尋ねる。水原は一瞬手を止めたものの、そうですよと丁寧に返してきた。

「ここに来る前まで、三年ほど」

 吹っ切った口調が、逆に生々しく響く。騒がしい食堂に似つかない重たい空気を作ったことを、佑人は僅かに申し訳なく感じた。

「小学校一年生の賢いって、梨香程度の物ですかね?」

 正直に言えば、聞かずにいたい質問だった。水原はゆっくりと目を閉じ、言葉を捜しているのは明白だった。やがて、箸をおいて、一口お茶を飲む。カップの端についた口紅を指先で拭った後、

「あくまで天才などそう現れない、平均的な公立小学校の生徒と比べてですが」

 その前置きだけで、話の流れはわかった。

「とびぬけていますよ。もちろん、教育熱心な保護者の方なんかは塾に入れますから、入学して間もない時から二年生三年生のレベルのテキストをこなせる子供はいないこともないです」

 そこで、水原はまた言葉を濁した。言いにくいことを言わせていることへの懺悔よりも、佑人は単純に怖かった。

「でも、わかるじゃないですか。言われたとおりに勉強をこなせる能力と、様々な想像力を働かす賢しさの違いなんて、大人から見れば」

 まさにその通りだった。佑人は一緒に暮らしているから、右も左もわからない、自分の名前しか知らなかった少女と一緒にいたからわかる。梨香の持つ能力は、桁外れだった。

「しかも、梨香ちゃんは、忘れないんですよ」

 時計を一瞥し、水原は箸を手に取った。半分も進んでいない食器に、話の振り時を間違えたようだ。

「普通、人間の記憶は忘却していくものです。特に、勉強として習う知識なんて日常生活で使うものばかりじゃないから、直ぐに記憶から抜けてしまうもの。だから、繰り返しの学習が必要になります。でも、梨香ちゃんは、忘れないんです。書き込みしたノートの様に、一つも抜けていない。漢字も、言葉も、数式も、何なら計算の答えだって丸暗記状態です」

 聞いていて頭が痛くなりそうだ。ここが騒がしい食堂でよかった。しんとした静けさの中だったら、佑人の荒い心音すら相手に伝わったかもしれない。

「いったいどこまで賢く成れちゃうんだろうと思うと、少し、不安なくらい」

 そう言って顔を伏せた水原の反応を、佑人はリアルだと感じた。

「でも、勉強って、して損はないですから。彼女が早熟なだけ」

 水原はまるで自分に言い聞かせているようだった。佑人が抱いた不安を、水原は現場の現実と照らし合わせ憂いたとすれば、事態はあまりに深刻だろう。

 互いに言葉少なになり、黙ったまま食事をする。滑らかな冷やし中華さえ、喉を通すのが億劫だった。



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