六章
梨香が学校に行き始めて一週間が経った。学校は楽しいかと毎日聞いているのだが、楽しいよと硬い表情で言われるところを見るに、まだ課題は多いように思えた。梨香の学習能力がまだ満足なところまでいっていないことを考えると、学校という場所がまだ楽しいという感想に繋がらないのは無理ないし、焦ることでもない。もちろん佑人にはそんなこと理解済みであったし、学習面の遅れを指摘した佐川もまた、報告程度の顔だった。いずれ梨香の頭脳は人間のレベルを超えることはまず間違いないと知っている側からすれば、少しの遅れなど大した問題でないように思う。
「やっぱり物覚えの良さや勘の働きの良さは、人間の想像を超えてくるね」
読みかけだった新聞を畳みながら、佐川はわざとらしく表情を崩した。夕方過ぎに梨香を迎えに行った時だった。梨香はちょうど小百合とクッキーづくりをしているらしく、焼きあがるまで待ってくれと上目遣いされると断れず、家に入れてもらってお茶を出してもらった。
梨香の放課後は佐川と小百合を頼っている。学校前まで迎えに行って引き取ってくれる彼らには感謝しかない。結局、自分ひとりの力では子育てなどできないのだと、息込んだだけの自分を少し反省した。物理的にできないことは論理的にもできるわけがない。感情が昂るとそんなことも忘れ、過信で足元をすくわれるから恐ろしい。
「意欲的な方ではないですけど、教えたことをきちんと定着させる姿は、教え甲斐があるんですよね」
佑人は、梨香が今日やったという漢字練習帳を捲る。鉛筆の柔らかな筆致の漢字は、コンピューター的で美しい。癖もなければ尖りもない。読んでいて穏やかな気持ちにさせる、お手本の様に丁寧な字だった。
「教え続けたら、どこまで伸びるだろうね」
表情に若干の硬さを持ちながら、佐川が言った。
AIを搭載した存在。それは人間よりもずっと、正確な能力を身に着けるだろう。人間が学び忘れることを一つたりとも逃すことなく、それでいて学ぶことの苦痛も知らない。劣等感も知らずに前に進むことが出来るのだから、振り返ることも立ち止まることもない。
まぁ、嫉妬の一つもしたくなる。佑人は仕事に疲れた身体を背もたれに沈め、天井を仰ぐ。
「少なくとも普通の小学生とは違う能力の伸び方をするんでしょうね」
佑人の言葉を佐川は否定しなかった。佑人もまた、薄っすらと棚引く不安をかき消すように笑った。
「英語の記憶も、数学も、物理も、きっと何でもできるようになるでしょう」
それはきっと、早熟すぎるほどに。
キッチンで小百合の手伝いをしている梨香の背中を見て、小さな背中がこれから背負うだろうものの大きさを思って、憂鬱な気持ちなる自分がいた。憂鬱は違うかもしれない。もっとずっと、不安であり、もどかしく、理不尽な気持ちだった。
梨香が何やら一人でノートを覗き込んでから、既に十分が経過している。夕飯のてんぷらを揚げながらちらちらと確認していた佑人は、流石に違和感を感じて、かき揚げをキッチンペーパーの上に取り上げて火を消してからそっと彼女に近づいた。床に広げた少し大きめのノートを座ったまま覗き込んだ梨香を、さらに上からのぞき込む。絵日記だった。上半分は空白で、下の段は何行か文字が書けるようになっている。紙の艶やかな白が蛍光灯の白い光によって、より一層の輝きを反射している。
「梨香。そのノートの書き方、わかる?」
佑人の気配を察知して首を無理やり曲げて自分の方を見ていた梨香は、窮屈そうに首を振り、
「なぁに、これ?」
と驚くほどあっさりとした口調で尋ねてきた。今までのこれを眺めていた間、一体彼女の頭の中にはどういう考えがあったのか、さっぱり理解できない。わからなければ聞けばいいのに、そう思って、実際そうアドバイスした。
「なんて言って渡されたものなの?」
話し込むとは思わずに持ってきてしまった菜箸をかちかちと鳴らす。規則的で、丁寧な音の響き。柄の長い箸を使い慣れたのも、最近の話だ。
梨香が俯いた。怪訝に感じて隣にしゃがみ込むと、唇を歪めて何やらもの言いたげにしている。
「どうしたの?」
畳にしゃがみ込む。既に畳らしい香りなどしなくなった網目を指先でなぞる。思いの外、艶やかな指触りがした。
「あのね、朝顔の絵を描かなきゃいけないの」
梨香は慎重に目線を上げて、佑人を見た。
「朝顔?」
梨香はゆっくりと頷いた。大きな瞳には溢れんばかりに水分がたまっていて、下手くそな瞬きをすれば零れ落ちそうだった。
「みんなの朝顔はね、緑色の葉っぱが出てるの。みんなのその絵をかいてた。でもね、梨香の朝顔はまだ土の中なの。なんにもない」
そこまで言われて、佑人はピンときた。小学一年生は大抵夏休みに朝顔を育てる課題が出る。あとで調べて分かったことだが、朝顔は梅雨の前に種を植えることが多いため、梨香は種植えの時期からして他の子に後れを取っていたのだ。他の子どもたちの新緑の観察の時間、梨香はまっさらな土に埋まる種を見つめてるしかなかった。
「だからね、絵が描けなかった」
そこまで言った梨香の頬に、僅かな涙が伝った。一度零した涙の軌道に従うように、一粒また一粒と溢れるように零れる涙は、肌理を透かすように透明だった。一人だけ置いて行かれ、描こうにも被写体がないことがどれほど悲しかっただろう。人と比べればわかる劣等感に、より一層竦む脚に、力の入れ方を知らない。
「ごめんね、気付いてあげられなくて」
震える肩を抱きしめる。薄手のシャツに包まれた華奢な肩は自分の腕を大分余らせながら、それでも足りないほどに身を縮める。
社会性なんて言葉は聞こえがいいが、あの場で習うことの多くは忍耐を必要とする。苦しさや悔しさや悲しみが無数にあって、それらから自分を守らなければならないことを教えてくれる。でも、残酷だ。残酷さをもって、痛みを内側に取り込んで、防御の術を知る。優しいだけじゃない他人の存在を知り、世界の中心にいない自分の疎外感を感じて、誰かの悪意に貫かれて、無防備の怖さと秘匿の必要性を学ぶ。一度理解してみれば立ち直り方も知っているけれど、初めての衝撃は多大なものだっただろう。特に、梨香の防御力はないに等しかった。来るとわかって防衛した時と違い、予期せぬままに背を蹴飛ばされてしまったのだから、その衝撃は相当だっただろうし、なにより彼女の中にそれを蓄積する能力がないに等しいというのは厄介なことだった。
やがて泣き疲れた梨香が佑人の腕に頭を預けるように身体を寄せてきた。体温の高い身体を抱きしめ、崩れた横顔に頬を寄せる。
「その宿題、後で一緒にやろうか」
佑人が言うと、梨香は真っ赤に染まった瞳を見開き、本当かと尋ねた。
「うん。別にね、葉なんて出てなくたっていいんだよ。梨香のやつだって、時間が経てばちゃんとみんなと同じように新芽が出るし、花だって咲かせる。だから、急がなくていい。みんなと同じじゃなくていいんだよ」
一体だれに言い聞かせているのだろうと、ほんの少し意識が逸れた。そんなことも知る由もない梨香は佑人の首に手を回し、
「ありがとう」
小さく呟かれた声は、また涙に滲んでいた。抱き返すように背中をさすると、急激に上がった体温に湿ったシャツが、掌をじんわりと温めた。
今の梨香にとって自分は唯一の味方なのだという自覚が、最近になってやっと実感できるようになった。まだ何処かで人の優しさを求めているくせに、人に頼りたいという願望が消えていないくせに、自分は大人になってしまった。モラトリアムを言い訳にもできなくなった、この年で。七歳の少女を引き取るには僅かに若すぎる年で。
日曜日の昼過ぎに、佑人は梨香と買い物に出かけた。梅雨が終わったのだか気まぐれな晴れ日なのかは定かではないが、まばゆい日差しが降り注いだ。無風に近い状態にはいささか強すぎる日差しを気にして梨香に麦わら帽子をかぶせると、遠くない先にある夏を先取りしたような気分になった。
学校に行かせ始めると、必要なものが見えてくる。何も持たない少女に与えるべきものは多く、正直自分の稼ぎだけでは十分に、それは贅沢とはいかないまでも少なくとも周りに見劣りしないだけの物を買い与えるのは厳しい現実を悟り、何とも言えない物悲しさを覚える。いつかの池谷の言葉が思い起こされる。自分の給料を決めた人間が自分の苦労を知っているか、そんな風に吐き捨てられた言葉について佑人は深く考えないようにした。現場の苦労などこの世に何の変化も起こさないと冷静になる自分の劣等感と、まっすぐ前を見据えた人間の仕事を同等に蹴落とすのはお門違いだ。
佑人自身は金遣いに問題ないと思っていたが、子育てとなると話は別だった。昌弘が残してくれた莫大な財産に助けられる形で、梨香に値段を気にせず似合いの物を買い与える度に、佑人はうすら寒い気分になった。たかが消しゴムに香りが付いたりキャラクターがプリントされてるだけで値段が上がるのは厳しい現実だ、と感じてしまう。それでも、佑人はそういったものを十分に買い与えられて生きてきたのだ。物質的には恵まれて生きてきた自覚はしている。
前にも何度か連れて行ったことのあるデパートで、文房具や夏服、ハンカチやポケットティッシュなどの日用品を買い、休憩がてらにドーナツを食べた。初めは気おくれした店で堂々買い物をするようになったのだから、環境に慣らされた感性は恐ろしい。最後に夕食用のお惣菜を買ったら、結構な荷物になった。
最寄駅から、手をつないで家まで歩いて帰る。夕方で日差しは鳴りを潜めたというのに、高い湿度が温めた地面の熱を逃がすことなくいつまでも暑さが残る。まとわりつく暑さを気にしながら繋いだ手のひらは当然僅かに汗ばんでいたけれど、特別嫌悪感はなかった。最近は隣を歩くとき、梨香の方から手を差し出してくることが増えた。最初こそ照れくささと勝手な背徳感からなんとなく苦手意識があり、自分自身に「危険だから」などと言い訳立てていた佑人も、その手を好意的にとるようになっている。包み込める小ささや、優しく握らないと壊れそうな柔らかさにも、もう慣れた。
家族という繋がりを失った佑人にとって、梨香は自分のすべてだ。梨香を失ったら、自分にとって家族的なつながりを持つ人は完全にいなくなるのだと思うと、少し不思議な気持ちが湧いてくる。一体いつの間に、自分は梨香を家族としてみるようになったのだろう。
「梨香、靴ひもが取れそうだから、結び直してもいい?」
片手に荷物、片手に梨香の手を握っていたため、確認を取ると、梨香はぱっと手を離し、突然しゃがみこんだ。
「結んだげる」
言うが早いか、佑人のスニーカーの紐に手を伸ばし、恐ろしく器用に結び目を整え始めた。
「小百合さんに教えてもらった?」
上から声をかけると、
「うん。こうやって真ん中でくるっと一周させてね、最後にもう一回結ぶと崩れないんだって」
こちらを見ることなく、梨香の手つきは慣れたものだった。梨香の手は華奢で美しく、薄汚れたスニーカーを触らせているのが申し訳なかった。
「あれ?」
突然、大きな声がした。明らかに自分に向けられた大人の声に、佑人はすぐさま表情を消し、顔をあげる。
目の前にいたのは大柄の、大型のペットボトルがいくつも入った袋を両手に抱えた男性。シャツから覗くたくましい腕に、佑人はそれだけで気圧されてしまう。
「お前、もしかして野沢?」
分かり切ったという顔で問うてきた相手は、薄ら笑いを浮かべているように見えた。絶望的な気分で、佑人は目を眇める。
「中学以来だな、樋口」
小学校と中学校で同級生だったこの男を、佑人は忘れてなどいなかった。
別に、何の因縁もない。ただ、どうにもこうにもウマが合わなかった記憶だけは鮮明に残っている。小学校時代はともかく、中学時代、樋口はサッカー部でキャプテンまで務めるほどの中心人物だったのに対し、佑人は数学が得意程度の取柄しかない大人しい学生だったので、全くのねじれの位置にいた。当然普段は関わることはなかったのだが、一度だけ隣の席になったことがある。
互いに、なんとなく相性が悪そう、という冷静な客観性と、関わらずにいれば人を嫌う必要もないという大人な判断において両者の意見が一致したのは、不幸中の幸いだろう。佑人は生気に満ちた自信過剰な男に傷つけられたくないと感じており、樋口からしても冴えないカースト下位の男が自分より、たかが一教科の指標においても上であると認めることは気に食わなかっただろう。
しかし、互いの暗黙の了解とは裏腹に、隣の席の人間と一切口を利かないなどということはできなかった。わかり合えない人間同士が、更にそれを自覚しているのに関わりを避けられないというのは、鞘にしまえない刀を互いに向けあっているようなものだ。「隣と話し合え」という課題を課される度に、高圧的な樋口に佑人は意見などできなかったし、「隣と小テストを交換して丸付けする」度に樋口は面白くなかっただろう。互いに折り合える点を捜し、どうにか平穏にこの時期を過ぎることが出来たら、そんな気持ちで過ごした。明らかに劣勢だったのは佑人の方だったが、それでも苦手意識と嫌悪感は微妙に違う。前者には悪意がないけれど、後者は何かの拍子に意図してまで傷つけあう危険性をはらんでいる。
「なに、お前、地元就職したんだ?」
常に佑人の痛いところを突いてくるのも、相変わらずだ。これに悪気がないのだから、やはり相性という言葉で片付けるべきなのだろう。
「まぁ、ね。そっちは?」
佑人の社交辞令的な返しに、彼はうっすらと笑みを浮かべた。傲慢だと感じるのも、きっと勝手な引け目故だろう。
「大学から県外に出て、そのまま就職したんだ。九州の方だから、ここに比べりゃ田舎なんだけどな」
僅かな自虐にすら、圧倒的な優越感と漲る自己肯定感が高圧的なほどに佑人に向かってくる。才能だ、と思った。それは佑人が未来永劫得ることのできない、才能だった。
「車通勤だから混雑した電車に乗る必要もないし、空気もきれいだし、物価も安くて、なんだかんだ暮らしやすいんだ」
上背のある屈強な男を知らない梨香が怯えたように、そっと佑人の背中に隠れる。その肩をそっと触ると、ワンピースのフリルの袖が指先にザラッとした感触を残した。
「そういう自由な生活、似合うな」
お世辞ではなかった。樋口のことは苦手ではあるが、嫌いではなかった。違う人種だと認識した分、彼に対して必要以上の劣等感を抱くこともなければ、そもそも同じ土俵で比べたりはしない。世間知らずは幸せだと嘲笑う人間よりも、無知でありながらそれを疑いもしない図太さが欲しい。
樋口も大人になったようで、満足そうな笑みを浮かべながらも、
「お前も元気そうじゃん」
などと、社交辞令を言えるようになったようだ。
「それで、帰省中か?」
佑人は会話を切り上げたい気持ちを隠せず、早口で尋ねた。彼の気が済むまで自慢を聞き、彼が満足して別れてくれればそれでいい。なんと弱気な低姿勢だと、責める人はいまい。
「あぁ。五月の連休に帰ってこれなかった分、顔見せに。って言っても、母親なんかはオレより嫁に会いたがる始末だぜ」
佑人が目を伏せると、梨香と目が合った。困って、圧倒されて、佑人を窺うように見ている。子供の瞳はなぜこうも、白目が鮮やかなのだろう。黒目に映る不安を、澄んだ白目が浮き立たせる。綺麗な瞳だった。
「ところで、野沢、その子娘か?」
本題と言いたげに、怪訝な目線が、容赦なく梨香に向けられる。できるのならば、梨香の目を両手で塞いでやりたかった。彼女の目元を覆うだけならば、片手あれば足りる。
「まぁ、訳あり」
佑人はそう言って濁した。娘だ、というには、同級生から見れば些か梨香は大きすぎる。けれど本当のことを言う気もなく、戸籍的な説明はあまりに億劫だった。これ以上は聞いてくれるなと思いながら、佑人は軽く笑った。
「お前が想像するような、悪いものではないけどな」
ありとあらゆる悪意を拭いされるような、そんな期待はしていない。
何かを察したように、樋口が両手を肩付近まで上げる。幾分大人な対応だった。
「言われなくたって、それぐらいわかるさ。お前から疚しさとか卑劣さとか、感じたことないから」
服の入った袋はそれとしての重さは大したことないのだが、指先に集まればそれなりにずっしりと感じる。麻痺し始めた指先を関節ごとに動かしながら、重みを分散させる。気休め程度に空気に触れた指先は、血が滞っていて冷たい。
「それに、お前は昔から、なんか隠し持ってるやつだったもんな」
樋口の背後に見える伸びた影をぼんやり見つめていた佑人は、違和感とも嫌悪感ともいえない、でも確かにざらりとした感触で感情を撫でられたことを感じた。
「どういう意味?」
深読みも憶測も勝手と言われればそれまでだなんて、思っても認めたくはない。
袖の長いシャツに包まれた腕を身体の前で組み、樋口の態度はいちいち傲岸に映る。少なくとも佑人の目には、着ているものが変わっても、彼の身長だけが変わっていても、彼は手の届かない場所にいるようにみえた。
「野沢って、常に訳ありそうな雰囲気あったからさ。今更何言われても、オレは驚きはしない」
傷ついてはいけないと頭が意識したと同時に、梨香の手が佑人の腕に触れた。想像よりも冷たく、柔らかな感触だった。
「佑人くん。おなかすいた」
自由な発言と、手のひらで腹部を撫でる仕草に、彼女が会話の意味を理解してないと知った。単純に、家まであと数分というところで疲れたままに立たされるのは不満のようだ。赤い唇が僅かに突き出され、瞳には遠慮の一文字もない。それだけで、なぜこんなにも救われるのだろう。
梨香に頷いて見せてから、
「ま、そういうことだから。変な目では見ないでくれ」
佑人の言葉に、樋口はやや苦笑いを浮かべ、わかったよと言い残し、佑人たちの隣を過ぎ去っていった。
その日の晩、佑人は布団に入ってから、憂鬱をやり過ごすことが出来ずに何度か寝返りを打った。樋口の言葉に何年たっても勝てない現実は、想像よりも痛かった。あんなに悪意なく人を貶める人間がいるのかと、歯ぎしりしたい気持ちにもなる。傷ついたのだと、赤い鮮血を見せることや鬱血した跡を見せることが出来れば、救われるのだろうか。少なくとも、自分の言い訳にはなるのかもしれない。他人へのアピールにはなるのかもしれない。傷ついた自分は少しだけ、守られる権利があるような気持ちになる。
隣で眠ってる梨香の布団がごそごそと音を立て、やがて静かな寝息に変わる。
そんなことが出来たところで、無意味な欲求が泳がされるだけだろうことは予想が付く。傷跡を免罪符に許されることなど、この世に一つもない。
水原との約束は動物園になった。梨香の知見を広める意味でいずれ連れて行こうと思っていたところで、混雑はしないものの静けさでは間が持たないことを考えればこれ以上にない観光地だった。佑人が水原に動物園を提案した際、
「動物園なんて久々です」
そう穏やかな表情になった水原は、存外嬉しそうでほっとした。
「水原さんは動物は好き?」
何気なく尋ねると、彼女はすっと目を眇め、
「動物自体は好きですよ。でも、飼ってみたいとか、そういう感情にはならないかな」
何故かと尋ねるべきか逡巡したが、正直なところ佑人にはその理由はなんとなく察せてしまうし、水原もまたそういう己の感覚的な部分を語りたがる女性ではない気がした。
「うちも、動物を飼ったことはないんですよ」
昔から、佑人もあまり生き物に興味関心がなかった。言葉が通じないものは苦手で、そこに感情があればあるほど厄介で難解だ、とすら思う。そのくせ、町中で出会う散歩中の犬なんかが飼い主の手を煩わせているのを見ると、なんとなく愉快な気持ちになってしまうから人が悪い。従順な自分が嫌いだった分、欲望に素直な本能主義を讃えてしまう。わがままが許される存在への憧憬があったのも、今となっては否定しない。
「天気もよさそうですし、楽しみにしています」
天気予報を調べていた携帯電話を片手にそう言い、水原は待ち合わせを動物園の入り口に指定した。
当日は水原の言う通り雲の少ない晴天が広がり、室外なことを考えればむしろ、もう少し陽が陰っている方が安全な気がするほどだった。
麦わら帽子と水筒を斜め掛けにした梨香は、動物園をどこまで理解したのか怪しいまま、準備もそこそこに佑人を急かしてきた。昨晩は今日に合わせて買った動物図鑑で一人おさらいを始めていた。何が見たいか尋ねたところ、クマと言われたときは多少拍子抜けしたものの、梨香らしさを感じる部分もあった。しかし、彼女の腕に収まったぬいぐるみは置いていくように説き伏せた。無くすか汚すかの選択肢しか思い浮かばなかったのだが、それが理解できない梨香には少し不満そうに目線を逸らされた。代わりに他のぬいぐるみを買う約束をすると、彼女はいらないと首を振った。
「なんで?欲しいやつ買ってあげるよ」
梨香の前にしゃがみ込んで顔を除くと、やはり逃げるように目線を逸らした。
「あのコ以外要らないもん」
意地っ張りなところは母似だろう。佑人は内心苦笑しながらも、その膨れた柔らかな頬をつついて宥めた。
電車を乗り継いで一時間ほどの動物園は家族連れで程よく混んでいて、居心地のいい空間だった。動物園の入り口で先に待っていた水原は佑人に気付くと、差していた黒い日傘をたたんだ。それまで遮っていた日差しを存分に受ける水原の肌が一瞬にして白く輝き、眩しそうに目を細める。細身の黒スキニーにモノトーンのシャツ、小ぶりのショルダーバッグ。エナメル質のヒールの低いパンプスが彼女の軽快さを感じさせる。
「おはようございます」
水原の横を通りすぎる人が水原に一瞬目線を配る姿が、佑人には当然のことのように見える。それくらい、水原の存在感は際立っている。
「おはようございます」
佑人は後ろに隠れた梨香を前に呼び、水原に挨拶させる。電車の中で吊革につかまれるように抱っこしたのが功を奏したのか、今朝の不機嫌はすっかり戻っている。照れたように困ったようにはにかんだまま佑人を見上げる梨香に、水原が前にしゃがみ込んだ。
「梨香ちゃん、こんにちは。水原です」
そう笑った水原の顔は、佑人が見たことがいほどに柔和で人がよさそうだった。
「こんにちは」
水原の笑顔に、梨香はやっとこさ一言だけ返した。それを見ていた佑人は、違和感に首を傾げる。人見知りをする子ではなかった。佑人の背中辺りに顔を寄せ、梨香の対応はぎこちない。
この子は警戒心を学んだんだ。全ての人間が自分に優しくしてくれるわけではないと、この子は知ってしまったんだ。そう解釈した途端、梨香の行動に理由が付いた。佑人に初めて出会った時だって、小百合や池谷に会った時だって、佐藤に会ったときだって、人懐こい笑顔で近寄って行った。佑人が困惑するほど無邪気に寄ってきた。なのに、今にも消え入りそうな声で、佑人に助けを求めてくる。佑人はそっと目を逸らし、何かに抉られたアスファルトを見つめる。雨が降れば、きっとあそこに水がたまるのだ。泥と埃をたくさん含んだ、雨水が。
見下ろす梨香の、何と小さいことか。頭は片手に収まるし、肩は左腕に収まる。佑人は思わず麦わら帽子の上から彼女の頭をなでるけれど、掌に感じたのは麦わらのざらりとした硬い感触だけだった。
雲一つなく降り注ぐ日差しの中、見ている側の人間も足取りが重くなるが、同じ日差しを浴びているのだから動物だって同じ気持ちだろう。どの檻の前に移動しても、動物は腹部を地面につけて体力の温存をしていて、佑人は少なからず同情する。彼ら動物にとっての幸福を人間は知らないし、おそらく彼ら自身も知らないのだろう。何方も経験すれば天秤にかけようもあるけれど、どちらかだけの立場から幸も不幸も語れはしない。選択肢のすべてを経験するわけにはいかないけれど、ここの動物たちは生まれながらにして動物園の動物だと考えると、彼らは己を不幸かもしれないなどと疑いもしないのだろうか、ともなればそれは一種の幸せではないだろうか、などと考えた。
自分よりも幸せな人になど出会いたくなかった。自分の立場を不幸かもしれないと疑ったりせずに生きていたかった。自分の不幸になど向き合いたくはなかった。せめて、幸せなふりをして生きていたかった。
ライオンのコーナーで硝子戸に手をついて目を輝かせた梨香を、一歩後ろから見下ろす。背負ったリュックには当然荷物はほとんどなく、全くと言っていいほど厚みなく潰れている。同じように一歩引いたところにいた水原と、ガラス越しに目が合った。反射した水原の表情は平たく映るけれど、何処か柔和な微笑みがあった。
「楽しい?」
振り返り、尋ねる。足元を小さな子供が通り過ぎ、慌てる保護者を横目に、無用に手を繋がなくとも不安のない梨香に、安堵しきっている自分がいる。
水原は口角をきゅっと上げて笑い、
「一人じゃ絶対にしないことも、人としてみれば案外楽しかったりしますね」
目の前のライオンにはあまり興味を持ってい様子だが、楽しそうな雰囲気は確かに嘘ではなさそうだ。
「動物園には、来ないですよね。俺も、梨香が居なかったら、来なかったと思います」
自分も、ライオンは正直どうでもいい。百獣の王だってガラス越しに見ればただの一個体の命。冷めた自分のフィルターをかけると世間の如何につまらないことか。でも、今の自分に不満はない。つまらないなどと、感じる隙もない。
「意外と、デートの定番コースらしいですけどね」
水原の口から、デートなどという言葉が出ると思わなかった。彼女の宗教観など知らないというのに、胸元に揺れる華奢な十字架には自衛の念を感じるし、細身の黒スキニーは女性的でありながら潔癖だ。
「水族館じゃなくて?」
「水族館の次に、ですかね?デートって、別に一度きりのことじゃないですから」
妙に納得してしまい、そうですねと愛想のない返事をしながら、今日で出会った何組かの男女の組み合わせ全てがデート中だったのだろうかと考える。長らくそんな穏やかな時間とは無縁だったことになど、できれば気付いたり、悲しんだりしたくはない。
順路に従い見て回ると、中間地点で食事を出す大型食堂と、隣接したお土産屋さん、少し離れた所には遊具の多い広場に辿り着いた。
ちょうどいい時間なのでお昼にしようと示し合わせたものの、食堂内は同じ考えの人で溢れておりとてもゆっくりと食事できる雰囲気ではなかった。
「レジャーシート持ってきたので、外で食べましょうか」
佑人の提案に梨香は歓声を上げ、水原も笑顔で頷いた。混雑した店内は何処か落ち着かない雰囲気だったこともあり、外の方がむしろ気持ちが落ち着いた。
佑人が近くの売店でサンドイッチやホットドック、ドリンク類など適当に買っている間、水原と梨香は木陰の下にレジャーシートを広げ、二人で何やら話をしていた。列に並んでいる最中に遠目に眺めながら、無邪気に笑う水原の笑顔も、梨香の笑顔も、なぜか懐かしく感じ、それはきっと疑いようのない事実なのだと気付いた。二人の並びを自然に思ったのは、何も佑人の理想ではないはずだ。
食事もそこそこに、梨香はすぐに遊具に興味を示し、佑人の許可が下りるや否やカラフルなジャングルジムに一直線に走って行った。その後ろ姿を、水原はおかしそうに見つめていた。
「梨香ちゃんといるときの野沢さん、なんだか仕事しているときとは違う雰囲気がしますね」
アイスティーのストローをいじりながら、水原はそう言った。
「そうですかね?」
曖昧な返事をしながら、佑人はそうかもしれないと考える。決定的な何かはないけれど、職場のアンドロイドと梨香を同じアンドロイドと思っていない自覚はあった。
「あ、いい意味で言ってますよ」
そうフォローされるまでもなく知っている。職場にいるときと梨香といるとき、どちらの方が楽しいかだけでも、理解できた。
狭いレジャーシートの上で足を伸ばしながら、水原はゆっくりと身体を開く。全身に日光を取り込むように、しなやかに身体のラインが浮き出る。佑人はなんだか見てはいけないものを見ているような気持ちになり、そっと目線を遠くに伸ばした。
「仕事しているときは見ているこっちがストレスたまるくらい、人に気を遣っていらっしゃいますけど、梨香ちゃんといるときは、本当に優しい人なんだなって」
子供の叫び声、騒ぎ声、大人の遠慮のない声。人の数に比例して騒がしい空間だというのに、妙に落ち着いた雰囲気をしたこの場所で、佑人は自分を客観的に見てみる。この空気に引け目を感じない日が自分に来るとは、想像したこともなかった。
「でも、どちらの野沢さんも、何も変わってなんかない。受け取る側が優しさと取って信頼関係を築くつもりなのか、それをいいことに付け込んでいるだけなのか、その違いですね」
はっきりとそう言い切った水原の口調は柔らかかった。
ジャングルジムの一番上に辿り着いた梨香が振り返り、佑人たちに手を振ってきた。振り返しながら、
「水原さんも、梨香と同じです。あなたは、自分を最後まで貫こうとする」
言いながら、自覚をする。そうだ、梨香に対する愛情と、水原に対する焦燥感の根源は同じなのだ。
思えば、佑人自身、決して社会性は高くないのだ。もしもその手の能力が人並みに備わっていたのなら、おそらく自分はここにはいない。前の会社で良い様に使われたのだって、誰かの贔屓目に映ることもなければ光る何かを人に示すことが出来なかったが故だろう。人に好かれる、ということはあまりに難しいと思う。自分を好いてくれるのは他人の心であるのだから、自分の努力では影響がないだろう、と思うのは独りよがりな判断だろうか。
「協調性がないって、ずっと言われてきました」
水原の自嘲気味な言葉に、佑人は自覚できるほど穏やかに笑った。彼女の綻びに入り込もうとは思わないけれど、そこに共鳴するものを丁寧に指し示したかった。強さゆえに出てしまうことも、弱さゆえに下がってしまうことも、疎外感は同じものだ。
「アンドロイドばかりの職場には無駄はないけれど、何処か殺伐としている。そういう中で、あなたの様にきちんと人間らしさを隠し持っている人がいることは、俺の中では大事なことなんです」
佑人は脱いでいたスニーカーを履き、立ち上がる。ほんの一瞬目が合った水原の表情には、何とも言えない困惑を浮かんでいる。見抜かれたくない感情を知っているけれど、言わないと伝わらない思いもあった。
ジャングルジムを慎重に降り終えた梨香を迎えに行く。きっと、彼女は遊び足りない。子供がたくさんいる中で、自分勝手に遊具に向かってはいけない性格は、昔の自分に重ねれば痛いほどわかってしまう。自分に似て。遺伝子レベルで違いが生じた自分たちに、確かな繋がりなどないはずなのに、共通点を見つけては同じ空間を感じ取る。
自分を普通じゃないと思うことは、人生で驚くほどに多かった。そもそも家族の形に劣等感を持った時点で、自分は線引きされた気持ちでいた。学校生活が上手くいかないときも、仕事に耐えられなかった時も、辞職した時も。周りが当たり前にできることが出来ない自分ばかりが目に付いた。同じであるべきだと考えれば考えるほどに、その差異ばかりが目についた。
初めから違うと割り切った存在の、如何に近しき感性だろう。
スニーカー越しに感じる芝生の柔らかさ。アスファルトとコンクリートに慣れた身体には、衝撃を吸収する土と芝生の不安定さすら優しく感じた。佑人に気付いた梨香は僅かな逡巡ののち、こちらに駆け寄ってきた。その身体を抱き上げると、太陽と僅かな鉄の匂いがした。




