五章
土曜日の朝、まだ眠たげな梨香を引き連れて、佑人と佐川は区役所に行った。この話をした時の佐川の真っ直ぐな笑顔が脳裏に刻まれた。自分の選択が正しいと思わせてくれる、優しい笑顔だった。
しかし、前途多難なのも事実だ。役所でなされる手続きの煩雑さと疑い深く冷たい視線に、自分の余裕がなくなるのが分かる。頭で理解していても、心はそれを追い抜くスピードで傷ついてしまう。その度に、何も理解できていない梨香の瞳と、冷静で愛想のいい佐川の言葉に、佑人は一人自分の無力さを感じていた。自分の感情すらままならない。なぜ傷つくときばかり他者を意識するのだろう。自分の痛みを説明できるのは自分だけだというのに、その傷の在処は自分が俯瞰できるところにある気がした。
それでも何とか一週間後の小学校への編入と戸籍関係の手続きを済ませると、急に心の奥底から言いようのない感情が芽生える。棒付きのキャンディを控えめに舐めながら佑人服の袖をつかむ梨香を見下ろし、不意に自分の立場に感動に似た優しさをくみ取っている自分がいた。
佐川と近くの蕎麦屋で昼ご飯を共にしてから、佑人は梨香と学校に必要なものを買いにデパートに向かった。ランドセル、筆箱、筆記具、ノート、上履き、体操服。時期外れの物ばかり要求するものだから、店員にも訝し気な視線を貰うことになる。このころには既に、佑人は横柄さを身に着けていた。おどおどするから舐められる、と思ったときはさすがに自分自身で驚いた。結局時季外れの商品は手に入るわけもなく、いくつかは取り寄せになった。意味も分からず増える荷物に、しかし梨香は嬉しそうに笑っていた。
物を買う度に、父親として扱われる自分に自覚的になる。店員のさりげない言葉や、周りから当たり前のように与えられる視線に、佑人は確かな前進を感じ取った。
最後に、佑人はおもちゃ屋でブロックのセットを買った。池谷がお土産に持ってきたあのレゴに梨香は熱中している。何かを作っては佑人に説明し、また新たなものを作り出す。大抵はセットの説明書に書かれている簡単な生き物や建物なのだが、その熱中ぶりと出来上がったときの誇らしげな表情に、佑人は感心する。到底七歳とは思えない真面目さと器用さには多少思うところはあっても、彼女の真っ直ぐさにこたえてやりたくなり、池谷に訊ねた。
「超大作を作れるキット?」
佑人の言葉を復唱し、池谷は顎に手を当てた。
「大型のおもちゃ屋なんかに行けばあるでしょ。専門店まであるくらいだし」
ネット検索し、彼はいくつか手の込んだ商品を教えてくれた。
「この辺なら、大人でもそれなりの時間がかかるものだから、家で一人暇することもなくなるかもな」
そう言われたキットの一つ、洋風のお城を買った。おもちゃとは思えない値段に一瞬顔が引きつったが、これが完成したら佑人でもやりごたえがある、そう感じる大作だ。一緒にやるも良し、池谷が言うように暇つぶしには十分すぎる。
「すごいね」
箱からして大型だった。梨香は箱に書かれた完成図をまじまじと眺め、呟いた。今朝、暑さを気にして、彼女の髪を結んでやった。少し高い位置で一つに結び雑貨屋で買った髪飾りを付けただけだが、顎が細く首の長い梨香は、横から見るとシルエットだけなら大人のそれと大差なかった。
「一緒に造ろうね」
佑人はしゃがんで梨香と目線を合わせる。大きな黒目に自分が映る。大きく頷いた梨香と手を繋ぎ、夕方の道をのんびりと歩いた。あまりに大型だったブロックは配送にしたおかげで、彼女と手を繋ぐ余裕があった。小さな手が懸命に自分の手を包もうとする。その健気さをいつ無くしたのかなんてわからないけれど、手を繋ごうと思える存在に出会えたことを後悔はしない。
学校の初日、佑人は半休を取って午前の内だけ梨香の学校に付き添った。正確な年齢は不祥なものの、七歳ということで一年生のクラスに入れてもらえることが決まり、内心佑人はほっとしていた。まだ未熟な部分が多いため、なるべく下の学年を希望していた。
近所の小学校は当然佑人の母校であり、校門前で校舎を見上げると懐かしさが感情を超えて押し寄せる。自信のない人生において、過去は懐かしむものでも愛おしむものでもなくただの後悔の一片になっていたけれど、身体で覚えているものはそう簡単には壊れないらしい。ここで過ごした六年というのは、考えれば長いものだ。昔という言葉で括れる今となっては特別な感情があまり湧かない自分に、情がないなと少なからず感じた。
この子に、どんな未来があるのだろう。赤いランドセルを背負い佑人の手を離さない梨香を見下ろし、何度も繰り返した感情の保管が、また色を変えていることに気が付く。この子が幸せであればいいと思いながら、幸せだけを多く感じ取れる性質を喜ばしく思った。計算されていようがアンドロイドだろうが、生きていく以上は幸せを幸せだと感じ取れる感性が一番大切な気がした。
校長室で紹介された佐藤という担任の女性は佑人より若く、如何にも子供受けのよさそうな雰囲気をしていた。普段なら女性の容姿など気にもしない佑人ですら、パステルカラーのブラウスと膝丈スカートが彼女の魅力を引き出し、可愛らしい雰囲気で溢れていることを感じ取れた。
「野沢梨香ちゃんだよね。私は、梨香ちゃんのクラスの担任をしている、佐藤って言います」
目を引く人だと思った。美しさというより柔らかな女性的優しさが見てとれる。口調も丁寧で柔らかい。梨香は既に彼女の華やかな雰囲気に頬を上気させている。差し出された手に戸惑いながら手を重ねる梨香の姿に、佑人はそっと笑う。校長を一瞥して、この人を梨香の担任に選んでくれたことに心から感謝した。
学校を出た佑人の脚は、来るときよりも遅いペースで家路を歩いていた。ポケットから取り出したイヤホンを携帯につなぎ、ほぼ無意識に音楽を流す。
優し気な女性に惹かれるのは人間の本能か、と考えると、自分は年を取ったのかもしれないと冷静に分析をする自分もまた、何処かにいる。佐藤の雰囲気に呑まれた梨香は、佑人と離れることを特別悲しみもせず、佑人からすれば頼もしくも少し寂しいくらいだった。梨香の取った軽やかで鮮やかなふるまいを適応能力というのならば、確かに人間的な感受性は無駄なのだろう。執着と悲哀。いずれにせよ、人の感性は何処か身勝手で本人ですら想定外に陥っては彷徨うのだから、感情などあてにならない。
思いの外あっさりと解放されてしまったものだから、時間を持て余した。来るときは梨香の緊張をほぐすのでいっぱいいっぱいで辺りなどほとんど見ていなかったが、改めて見ると何も変わっていない。ただ、自分の視線が捉えたことのない高さで世界を見下ろしているとは感じた。家から小学校のルートは道端に店一つないただの住宅地に沿った通学路で、一部が砂利道になっていて歩きにくい。小学校までは最短ルートだしスニーカーであれば特別気になることはなかったが、中学生になって革靴を履くようになってからは、この道を通ることはほとんどなかった。
そういえば、朝寝坊が多かった佑人は度々この道を走って学校を目指し、一年に一度のペースですっ転んでいた。砂利道での転倒は悲惨だ。足や手だけならまだいい、一度顔から落ちたことがある。あれは帰り際に数人の友達と鬼ごっこをしながら帰っていた時だ。まだ低学年だった佑人は転んだ痛さよりも、頬の傷を抑えたハンカチが血だらけだったことの方がショックだったのを覚えている。家に帰るなり母の悲鳴が漏れ、自分よりも痛そうに顔を歪めた母に手当てをしてもらった。転んだときよりも痛い消毒に文句を付けたのに、母は謝ってくれた。
なぜ感謝を口にしなかったのだと、あのときの自分を責めたくなる。あのときの自分と今の自分が同じ人間だなんて、到底信じられない。自分が年を重ねていることからの逃避というよりも、そんなにも時間が経った感覚がなかったせいだろう。気付いたら二十代後半になっていて、過程をもってそうなったのならば人生だけれど、振り返ると取るに足らない薄い日常が、束になって時を超えてきたような感覚に陥る。思い出のまとめ売りで、まるで在庫整理でもしているようだ。
語るに足りないまでも、思い出とか、経験とか、しまい込んだ記憶でもあれば救われるのに。母との記憶は寂しく、父との記憶は悲しい。そして、自分という人間への確かな劣等感。なぜ、失ったように、まるで被害者の様に思い返すのだろう。初めから、自分には何もなかったというのに。
およそ十分をかけて家に着いた頃には、膝の表面がじんわりと熱を持っていた。家の鍵を回し、玄関で靴を脱ぐ。誰もいない家に帰るのは、随分懐かしい気がした。
「ただいま」
母を亡くしてから、一人の家に帰れなくなった時期が続いた。お帰りと迎えてくれる人を失った悲しみは小学生には想定外に重く、人の死を理解できなくても、永遠に会えない現実を悟れなくとも、家に帰ってもお菓子を準備してくれる人がいない現実から母の喪失を実感した。寂しいなどと言えなくて、悲しいと実感できなくて、言葉を通り越した感情に膨大なストレスをため、誰の共感も呼べずに一人、ただ耐えるしかなかった。今思えば、神経を尖らせた父もそこは盲点だっただろう。ただ苦痛で仕方なかった日々。友人の口から出る家族の話が、学校で配られる授業参観のプリントが、五月と六月に世間をにぎわせる休日が、苦痛で仕方なかった。誰も悪くなくて、気遣いに限界があることは知りながら、だけど自分は傷ついていた。触ってほしくない傷口を掌で押しつぶされているような、じんわりと広がる痛みと頭痛に、佑人は無理やり大人にされた気がしていた。
引き取ると告げたときの池谷の安堵した表情は、想像をはるかに超えるものだった。
もうすぐ昼の休憩時間が終わるという時間帯に、喫煙所を尋ねると、想像通り彼は片手に携帯電話、片手にタバコを挟んでいた。駐車場側の角部屋が喫煙所となっており、外にも出られる造りになっている。池谷は普段、入るときは近い扉を遣うが、出るときは必ず外を歩いて室内に戻っている。理由は匂いを飛ばすためだという。律義なのだか難儀なのだかはさておき、傍若無人には成れない人の良さに、佑人はちょっと好意を抱いたことは言っていない。
「なんというか、ここはいつ来ても隔離所感がすごいよな」
喫煙所の中は昼休みが終わるというのに、池谷一人分のタバコの匂いしかしなかった。
「そりゃ、実際隔離されてるようなもの。少なくとも厄介者扱いはされてるな」
「それは間違いない。お宅の研究室が無ければ、この喫煙所はすぐにでも撤去される」
「なに、吸う気になった?」
そう言って胸ポケットからカートを出してきた。首を振り、池谷の隣の手すりに軽く体重を預けると、鉄のひんやりとした感触がパンツ越しに肌を冷やす。
「ここに来ると、公衆電話を思い出す」
池谷は煙草の灰を落としながら呟くように言った。手慣れた指先の動きが滑らかで、水原とは違う上品さを見せてきた。
「あんま使ったことないけど、確かに電話ボックスってこんな感じだよな」
「あれは外の音をシャットアウトしたいし、話してる内容が外に漏れないという点において優秀なボックスだよな」
「お互いの為か」
「喫煙所も、本来そうなんだけどな。なんか、ここいる自分は他人に非難される要素をより多く持つ気がする」
喫煙所の前を通る人間、か。佑人は僅かばかりのタバコの匂いを吸い込みながら、町中の喫煙所に向けられる視線なんて、想像するまでもないと考えた。
「タバコが嫌いって人が多いのは事実だからな」
「好き好んで吸ってるから文句も言えないんだけどね。気持ちがいいくらいの嫌悪を示す人なんて珍しくない」
「やめようとは思わないの?」
横を向いて尋ねると、池谷はこちらを見ずにたばこを噛んだ。薄い唇から漏れる白い煙が細く、頼りなく消えていく。
「その時が来たら、辞めるかもな」
意味深に呟くと、あまり減っていないタバコを灰皿に落とした。唇を指先で拭い、外に出るように促される。
「話があったんだろ。どうした?」
外に出た瞬間、太陽の匂いがした。タバコの匂いの強さを、あらためて実感する。少し空を見上げると日差しが瞼を焼くように照り付けていた。
「あぁ。あのさ、梨香のことなんだけど」
「あのちびちゃん?」
「うん。うちで引き取ることにした」
僅かな沈黙が流れた。佑人は息がつまる気持ちで、その間を堪えた。無意識の呼吸も、意識すると乱れる。
「野沢」
「なに?」
「お前、見た目結構若いから。ロリコンと間違われるなよ」
太陽の光をミラーボールの様に飛ばす頭を一発ぶん殴ってやろうか、そう思って睨み付けると、想像よりもずっといい笑顔の池谷がいた。
「なんでお前が嬉しそうなの?」
「だって、なんかいいじゃん」
意味が分からずに無視していると、ふと声のトーンを落とした池谷が話し始めた。
「オレらの同学年も、結婚だとか子供だとか、そう遠くない未来になっただろ。実際、既に結婚したやつらもいる。羨ましいわけじゃないけど、なんとなく漠然とした不安がないとは言い切れない」
子供の時の悩みとは違う悩みが、年相応にある。今の佑人たちにとっての選択は、今の自分たちの身の振り方であり、それは自分以外の存在も意識するものだ。
「どんな選択をしても後悔はする。たかが二十何年生きてきただけだけど、それくらい知ってるじゃん」
「やり直せるならやり直したいことだらけだよな」
佑人はしみじみと同意した。未来に後悔があると知りながら、それでも回避できない。苦しむとわかってでも、時に手に取ってしまう選択肢がある。
「でもお前は、この決定だけは後悔できない」
池谷の脚が止まる。彼の研究室の前まで来ていた。
「そうだな」
佑人は一歩過ぎた歩幅分、きっちりと戻って池谷の前に立った。たとえ何があったとしても、苦しむことがあっても立ち止まってしまうことがあっても、後悔だけはしてはいけない。
「また遊びに行くよ」
疲れの取れていないだろう目尻を下げ、緩やかにほほ笑んだ。彼の怜悧な瞳は、人の心に入り込む瞳だった。
別にお前を置いていくわけじゃない。そう言ってしまおうかと考えるほどに、穏やかな顔をされた。まだ挑発される方がマシだと思って、佑人は唇を噛む。自分たちの距離の分だけ、遠い存在になる。
「梨香はお前のこと、レゴの凄いおじさんって言ってる。お城作るの、結構苦労してるんだ手伝ってやって」
自分の口調が早口になっていることに、佑人は気が付いていた。なんとか池谷の心に言葉を詰め込まなければと、軽口よりも浮ついた言葉が口を突く。
「ゲームも全然やってなくて、レベル上がんねーの。こっちも、手伝って」
懸命に言葉を紡ぎながら、意識が持って行かれて上の空になる。考えがすべて漏れているのではないかと不安になるほど、池谷の微笑みも偽善的だった。
彼は少し細めに整えられた眉をわざと動かし、小さく、わかってると呟いた。弱弱しくて、水に浸かれば溶けて行きそうな、心もとない言葉だった。
池谷が自分の研究室に戻っていった後も、佑人はすぐに動けずに立ち尽くした。
全てが手に入るわけじゃないとは知りながら、恐ろしい選択が目の前で人間関係を引き裂いていくのではないか、そんな不安が唐突に襲ってきた。どんなに広い知見を望もうとも、全部の感情をカードゲームのようにコンプリート出来るわけじゃない。何処かで違う感情を剣に意図せず傷つけあい、疎み合い、あったはずの好意のすべてが手の平を返す。
呼吸をすれば零れそうな弱音を飲み込んで、佑人は髪を弱弱しくつかんだ。父に似て硬い、真っ黒い髪だ。
「野沢くん、どうしたの?」
声と同時に肩をたたかれ、佑人はびくっと身体を跳ねさせた。そのつもりはなかったが、逃げるように距離を取った先には、池崎の先輩がいた。
「ごめん、驚かせたね」
彼は佑人が謝る前にそう言って、笑顔で、池谷を呼ぶかと尋ねてきた。
「いえ、すいません。今別れたところで。ちょっとぼんやりしてました」
彼はじっと佑人の目を見つめ、そうかと笑った。
「あいつ、今ちょっと疲れてるから、もし失礼なこと言ってたら先輩として謝っておくね」
むしろこっちが無神経でしたといいかけて、辞めた。
「忙しいんですか?」
「例の件が尾を引いてるよね、正直なところ」
「その件についてはこちらのミスで、申し訳ないです」
どこかで自分の過失の薄さを感じているときの妙な罪意識の軽さが、自尊心を守ってくれる。
「支配意識って、怖いね」
「え?」
「設計しているからわかるんだよね。人間は世界を支配できていると傲慢になりすぎた。何処かできっと、しっぺ返しを食らうよ。でも、食らうのは傲慢にさせた人じゃなくて、その傲岸を当たり前に享受した世代だ」
そういえば、この人には三歳だか四歳だかの息子がいた。もちろん、人間の。
「不安ですか?」
佑人は馬鹿正直に尋ねた。彼は声を出して笑い、相変わらず素直だねと言った。
「そこまではわかんないよ。ただ、安寧と平和と調和は崩れるときは一気に崩れるものだから。そういう意味では、明日何があるかわからないでしょ」
言葉を返そうとしたとき、休憩を終わらせるチャイムが鳴った。頭を下げて、慌てて食堂の方へと早歩きで戻る。この後の予定合わせが、食堂で行われる。
白塗りの病棟を抜けながら、佑人は自分が何を言おうとしたのかを思い出そうとしたが、病棟にしみついた消毒液のようなアルコールと潔癖な匂いに消される様にわからなくなった。
「だからさぁ」
荒げた声が、騒がしい事務室でもひと際大きく響いた。協会のお偉いさんたちの見るからに高い背広を見送った後の解放感に、誰もが一息ついた矢先だった。現場は袖まくりで安物の統一されたジャケットに袖を通しているというのに、その何倍もしそうなネクタイをぶら下げて帰って行った高級車が三差路を右に曲がったときには、心の中で二度と来るなと呟いた。
書類整理をしていた佑人は手を止め、そっと振り返る。怒りを堪えきれずに唇を震わせ、それでも怒りに身を任すには幾分冷静な水原の姿など、振り返らずとも予想はついていた。案の定、きつい印象を与えがちな目元を歪め、やがて瞼を下げた水原に、佑人は見るに堪えなくなった。作業を中断して水原と彼女を苛つかせた張本人であるアンドロイドに早歩きで近寄る。水原と同じほどの身長をした女型アンドロイドの艶やかな髪が、薄暗い事務室の蛍光灯に、天使の輪を輝かす。とんだ天使だ、と思う自分は絶対的に、水原の味方なのだ。
「水原さん。休憩、しておいで」
佑人が近づいていたことにすら気付いていなかった水原は、佑人の声に肩をびくつかせ、感情のない瞳で佑人を見上げた。良く知った瞳だと思った。怒りを己の中で殺した結果、感情の表し方も感じ方すらわからなくなった瞳。感受性の強い人は、自己防衛として感情を殺すことがある。水原の真面目さ、かたさ、純粋さは、何処かで踏みにじられやすい。そのくせ優しいから、弱くなど在りませんという顔で果敢に挑む癖に、内面では感じた分だけしっかり傷付いてしまう。そんな性格は、おそらく数年前の自分によく似ている。
「ごめんなさい」
水原はいっぱいいっぱいの口調でそう言うと、さっと踵を返し部屋を出て行った。その背を見送りながら、明らかに一か月前から変わったと考える。ただ、何が変わったのかはわからない。痩せただろうかと考えても、彼女は元から細身だった。元気がないかと疑っても、元々落ち着きのある理知的な女性だった。
「で、何をやったの?」
佑人は少し汗ばんだシャツの裾を仰ぎながら、状況を理解できずにぼんやりと突っ立ったままのアンドロイド8436に問いかける。理解できないというより、彼女に水原の怒り、その下にある絶望感と諦観、そして見せまいと隠した悲しみが一粒だって届いちゃいない。見るに堪えない思いで、佑人はため息をこぼした。このため息の意味だって、彼女にはきっと伝わりはしない。
そうだろうと思った通り、水原は事務所の裏の喫煙所でタバコを吸っていた。今日ここに来るのは二回目だと思いながら、佑人はノックしてから喫煙所に入った。夏至を来週に控えた空は夕刻が過ぎてもどこかに透明な明るさが残る。建物の影に隠れるように壁に背を持たれ、水原はぼんやりと空を見ていた。ぼんやりしているのに、指先のタバコには力が入り、ジーンズのポケットに突っ込まれた左の指先は握りしめられている。ぼんやりというよりも、虚ろな瞳と言う方が正しいかもしれない。
「お疲れ様」
気の利いた言葉が出てこない自分が嫌だと思ったことはたくさんある。営業トークの一つもできない自分も、場に合わせて道化師になることもできない自分も、生きるのがへたくそだとしか思ってこなかった。でも、表面的ないいやつでいても、きっとこの人は心を開いてはくれないと知っているせいか、今の自分を嫌いに思う気持ちは自然と湧かない。
「水原さんさ、もっと、周りを頼ったほうがいいよ」
水原が謝罪の言葉を口にする前にと、佑人は言葉を重ねる。
「切羽詰まって苦労してるなって見えるのは周りも心配させるし、そういう部分を頼ってもらえないと、やるせないし」
そこまで言ってから、佑人ははっとした。
「もしかして、俺って頼りない?言うに値しない?」
食い気味にそう訊ねた佑人に、水原はタバコをそっと隠しながら、
「まさか」
といって首を振った。その仕草があまりに優雅だったから、佑人は絶望的な気持ちになる。根本的に人を信用していないし、人を頼る意味を知らない人の態度だ。
「上司が野沢さんじゃなかったら、きっと、ここで働いていけなかったと思います」
そう言って穏やかにほほ笑み、水原はたばこを一度だけ吸い込み、火を消した。吐き出された紫煙が、ほぼ無風の空気の中で彷徨い、消えていく。
嫌われていないのは知っていた。どちらかと言えば好意的にみられているのも知っている。干渉はしないけれど最低限度の面倒は見ようと、常に優しくあろうと接してきたせいか、同僚として心地いい存在であったはずだと自負している。自分がそうありたいと願った上司を演じ、そんな自分を好いてくれるのだから、水原と自分の感性はきっと同じ部類なのだろう。でも、信頼はされていない。疑わなければ信頼していると思えるほど、自分は世界を優しいと思っていない。
自分は、水原にとって最低限度の世界の住人だ。いなくても困らないけれど、いればいいなくらいの、その他大勢程度の存在だ。失えば僅かに惜しい程度の。そんな感情を、佑人は知っている。失ってから、喪失感で絶望したけれど。
感性を理性で常軌にのせる難しさは、そのジレンマに挟まれてこそ気付くものなのだろう。
夕日が明るく照らす空を見上げ、佑人は小さく息を飲み込んだ。
最近、梨香が少し暗い顔をするようになったのが、佑人は気がかりだった。好きな物を食べればうれしそうにするし、会話をすれば悲しい顔などしない。でも、ふとした時に、梨香の表情は感情を無くす。今までであれば、理解が追い付かずにきょとんとすることはあっても、あんなに思い詰めた表情で言葉を無くすことはなかった。そして、彼女は学校について何も語らない。佑人が尋ねたことには最低限話すものの、直ぐに佐川や小百合の話、彼の家の犬の話になってしまう。あからさまな拒否だと知っているから、佑人は踏み込めないままに一月が過ぎてしまった。正直に言ってしまえば、梨香が学校という場所に入れば苦労するだろうことは予想通りだった。知能的な面では同年代の子供には劣るだろうが、精神的な面で言うと若干大人びている。大人びていると言えば聞こえがいいが、悪く言えばいいなりになる。惑わされ、振り回され、戸惑い、不安になりながら学校生活を送っているだろうことは想像に難くない。救いと言えば、梨香の中にマイナスな感情要素がないと知っているから、彼女の悲しみに踏み込むよりも彼女を元気づければいいという建設的な解決策があることだ。
不意に浮かんだ提案をいい機会だ、と思った自分の行動力は、梨香に出会わなければ得ることのなかったもののように思う。
「水原さん。本当に時間がある日でいいんですけど」
切り出してから、不安になってしまわないようにとぐっと胸を張り、
「少し会ってほしい人がいるんですけど」
と業務的な口調に仕切り直した。
「中途採用ですか?」
業務的な口調のせいで、業務的にしかとられなかったらしく、佑人は思わず苦笑する。首を横に振って、
「話せば長くなるんですけど」
切り出すと、
「じゃぁ、結論だけお願いします」
水原は間髪入れずに返してきた。今の彼女に世間話に付き合う余裕などないのは明らかで、それを態度でも言葉でも表す潔癖さと歪みなさに、佑人は好意を抱く。愛想は時に、徒労で終わる。今の彼女からふりまかれる愛想があるとしたら、それは彼女自身が身を削ることになる。
「今、七歳の女の子と一緒に暮らしてるんです」
「すみません、やっぱ割愛した部分の説明をください」
水原が顔の前に手をかざす。シルバーリングが折り重なる指は細く華奢なのに、大きな掌。女性的で、傷のない手だ。彼女の美しさはきっと、彼女の傷ついた心を隠す鉄壁のガードなのだろう。
「野沢さん、ご結婚されていらっしゃらなかったですよね?」
いくつか、この想定外の事態の可能性を思案している水原の表情が可笑しくて、佑人は内心で笑ってしまった。ここ最近の、表情が硬く唇を動かすのすら億劫そうだった水原の、戸惑いを隠せない眉間のしわ。それは自分が作った隙だと思うと、得も言われぬ独占欲に感情を撫でられる。
「結婚はしたこともないし、予定もないです」
言いながら、別にそれを苦しむつもりも嘆くつもりもない自分の性を、ほんの少しだけ寂しく思ってみる。
「女の子って言ったんですけど、アンドロイドなんです」
僅かな間ができた。喫煙所のドア越しに、アンドロイドの足音が聞こえる。人間の癖の歩き方と違い、アンドロイドの足音はどれも一定でとても静かだ。設定されているのだから当然と言えば当然で、個性も自由もない代わりにうるさくもないし遅くも早くもない足取りは、何処かで処理しやすい。
「水原さん」
佑人はなぜ今日に限って自分が大胆なのか自分自身でも理解ができなかったが、根拠のない自信に背中を押された。
「説明すれば長くなるし、説明したところで多分大したことは伝わりません。だから、会ってみてくれませんか?」
困惑を隠さず、それでも微かに愛想笑いを浮かべた水原を見ながら、今自分を満たす感情の名前を知らない。ただ、満たされる。幸福感にも満腹感にも似ていて、忘れがたい絶望感を俯瞰しているような感覚でもあった。絶望感や劣等感を知る人間は、身体のどこかに過去の幸福感を隠している。
水原と目が合った。こんな風に愛想を浮かべることもあるのだと思うと新鮮さがあって、描いた眉が本当に困っているのだと思うと言葉にならない。たかが二つしかない選択肢の間で言いあぐねる不器用さに、自分の過去や今、梨香の目線などを重ねてみた。小さな揺れが、自分の強張る心に押し寄せる。その揺れは水面の様に静かに広がる多幸感だった。
長くなるとは言え、梨香に会ってもらうための注意事項は数限りなくある。こうしてはくれるなという注意事項はあげたくないが、こうしてほしいという感情は言葉尻に滲んでしまう。本当に保護者になったんだなと今更ながら、不思議な気分になった。
職場から駅までのバスを遣わず、あえて水原と並んで、お互い意図して半歩分ずらしながら、歩く。夏場に続く夕刻の港町はどことなく静かで緩やかな色合いになる。まだ日暮れには届かないものの日差しは陰っており、白に似た青い匂いがする。水面が緩やかな風に揺らされるのを横目に、並んだ水原は、作業場と違って華奢なピンヒールを履いており、しっかりと並んだら佑人より身長があるだろう。
成人二人が歩く速度とは思えない速度で歩いていると、次々と人が追い越していく。会社の同僚が挨拶を置き土産の様に自転車で通り過ぎていった際には、ちょっとした気まずさがあった。何が問題なわけでもないのに、突かれると口ごもりそうな自分がいる。
道幅の広い歩道を、毎日バスで横目に眺めている景色を見渡せば見渡すほど、自分がこの景色を見ていなかったことに気付く。潮っぽい風を感じながら、佑人は梨香と如何にして共同生活が始まったのかをかいつまんで説明した。ところどころ、主に佑人自身の感情の部分は大幅にカットしたが、話し終えたときに唇の端が自然と持ち上がった。毎日が必死になっていたせいか、梨香と過ごしたこの数週間を思い返すような時間はなかった。こうして振り返ると、成長の早さに感心すると共に、たった数週間だというのに遥か昔の思い出の様に懐かしい。それでいてずっと互いをわかり合っていたような気持ちになるから、傲慢だ。
「なるほど。じゃぁ、その子は要するに、お父様が残された隠し子、みたいなものですね」
佑人が話している間頷く以外特に言葉のなかった水原から、洒落なのか真面目なのか捉えかねる発言が飛び出し、佑人は驚いて水原を見た。潔癖で純潔な雰囲気を纏った水原の口から、まさかそんな昼間に流れるドラマのようなセリフが飛び出すとは思っていなかった。
「まぁ、間違いじゃないですけど」
言葉の響きが悪すぎることを除けば間違いではない。
「あ、でも、そしたら娘って言うか妹になりますね」
佑人は自分の発言ながら無茶苦茶だと自覚する。ただ、それに対して水原が声を出して笑ったのを見て、この際関係性や名前などどうでもいい気がした。梨香は妹でも娘でもないことに変わりはなく、けれどどうしたって家族なのだ。
駅に着く頃に、次の週末に会う約束を取り付けた。帰ってから梨香に何と話そうか、佑人は考える明けで笑みが零れそうになりながら、軽い足取りで佐川家に向かった。




