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四章

約束の時間よりも三十分ほど遅れて現れた池谷のお土産は、ブロックを繋げて遊ぶタイプのおもちゃだった。

「人ん家に行くときは遅れていくのが常識って教わったから」

 悪びれない池谷に、

「五分十分の話であって、これはもうただの遅刻だからな」

 佑人は冷静にそう切り返した。

想像通り簡単に池谷の存在を受け入れた梨香は、籠一杯のブロックを見て歓声を上げた。早速リビングのテーブル一杯にレゴを広げると、一人で黙々と重ね始めた。教えたわけでもないのに器用なものだ。いつの間にか正座まで習得したらしく、だらしなく足を崩した大人二人の立場がないほどしゃきりと背筋を伸ばして座っている。

「自分の趣味で選んだよな」

 机の上に広げられた色とりどりのブロックから赤いものを一つ持ち上げる。プラスチックのつるつるした表面を撫でると、なんだか知っているような感触がした。

「一応知育玩具って言われてるからさ。眉唾物だけど」

 池谷はあっけらかんとそういうと、自分自身もいくつかのブロックを重ねたりくっつけたりと遊び始めた。

「やっぱ、こういうものでもテンション上がったりすんの?」

 梨香とほぼ同じ熱量でブロックを触る池谷を横目に、佑人は頬杖をついた。

「子供のころ、これがすげぇ好きだった記憶はある。思えば、将来を決めたのはこれとの出会いだったのかもな」

 懐かしそうにつぶやく横顔に、佑人は思わず嫉妬しそうになり、そう自覚したことすら憎かった。不意に池谷の瞳が揺れ、佑人を捉えた。

「お前も理系だったんでしょ?なんで親と同じ道選ばなかったんだよ?」

「同じ道だからだろ」

 佑人は吐き出すように言った。

「俺が社会人になるときには、父親は既にアンドロイドの分野で成功してたんだぜ。比べられて苦労することなんて容易に想像がつく」

 連日社会がアンドロイドに熱狂しニュースがそれ一色になっていた時、佑人は大学生だった。研究室に籠って日々新しい用語を覚えている最中に、父親が遥か遠くで成功を収めた。

 梨香が作り上げて放置していたブロックのタワーを立てる。法則性に欠けたカラフルなブロックは無造作だったが、妙に収まり良かった。

「超えられない壁があるのが見えたら、素直に回り道する性格なんだ」

 研究職というものを齧って、わかったことがある。几帳面さや正確な計算や作業する能力も必要とされるが、それ以上に肝心なのは大胆さだ。データ以上のことを得ようとしたとき、行動力と勢いが結果的に新たなものを生み出す。目の前で着てきた黒のジャケットを放り投げた池谷だって、結局は粘着質のない性格と大胆さで突き進んでいる。自分の様に一歩進むごとに足元を確かめる人間には、創造という観点から足りないものが多すぎる。

「まぁ、コネだって七光りだって、苦労がないわけじゃないしな。神経質なお前には無理か」

 そう納得されると面白くないものの、全く持って的を射ている。佑人はため息を飲み込み、彼のジャケットをハンガーにかけた。

「お前はもう少し丁寧になれとは思うけどな」

 佑人の恨み言を豪快に笑う。池谷は裏表がないせいか人に警戒されにくいところがある。横にいた梨香は一瞬驚いた顔をしたが、池谷と目が合うとミラー効果の様に無邪気に笑った。

「これ綺麗だね」

 梨香は手当たり次第にブロックを重ね、前衛的な芸術作品を量産していた。そのうちの一つを手に、池谷は大仰に誉める。にこにこと素直に笑顔を見せる梨香を見ていると、池谷の世渡りのうまさばかりを感じた。

 その後、子供の時から慣れ親しんでいたと言っていたように、器用にあれこれ作品を作り上げる池谷に、梨香がいちいち目を輝かせた。大きな緑色の土台に家やら花壇やらを作り上げる器用な指先は普段に比べて繊細な仕草を繰り返す。彼の汚いデスク回りや豪快な仕草ばかりを見てきたせいで忘れていたが、手先が恐ろしく器用なのだ。すっかり出番を失った佑人は梨香を任せ、洗濯物を取り込んで奥の寝室で畳む。雲一つない晴れ空の元で太陽をたっぷり浴びた洗濯物はどれも顔を埋めたくなる温かさだ。ここ何日か雨が続いていたので今日の快晴はありがたかった。最後に洗ったシーツを布団にセットすると、身体の奥がじんわりと熱を帯びた。家事が重労働なんてこと、やらなければ知り得ない。

 座布団のカバーを片手にリビングに戻ると、梨香が机に突っ伏していた。

「まさか、寝てる?」

 小声で尋ねると、池谷は振り向きざま少し笑った。

「ぷつんとね」

 そう言って、梨香の髪を撫でた。

「本当に子供らしい。その辺の聞き分けのないガキよりずっとかわいいな」

 佑人は梨香の肩に、彼女の気に入りのパーカーをかける。明るいオレンジ色をしているが薄手のせいか、透明感のある色合いをしている。

「会社にいるとさ、人間とアンドロイドの違いって結構感じるんだけど、梨香にはないんだよね。むしろ、出来が良すぎて不安になることはある」

 佑人は正直に告げた。顔を伏せて眠るせいで、彼女の表情は見えない。

 梨香を可愛いと思うと同時に、彼女の物分かりの良さや学習能力の高さに、引っかかりを覚えることがある。違和感という言葉は梨香に対して失礼と感じるのだが、やはり人間らしさから外れている、と思うことがある。よく言えば手がかからないのだが、聞き訳があまりにいいとこちらが戸惑う。そして、今まで自分がしてきたわがままが脳裏によぎり、あまりに一方的な劣等感に苦い思いをするのだ。

「でも、いい親やってんじゃん」

 顎に手を当て池谷は唇をめくる。物腰の軽い男ゆえ、色男じみた仕草をすると途端に軽薄に見える。

「親というか、面倒を見てやらなきゃって思いは何処かにある」

「弱ったな。このちびちゃんに野沢を取られちゃう」

 わざとらしく肩をすくめる。芝居がかるとより一層、見た目の良さが引き立つ。いったいこの仕草でどれほどの女性を引っ掛けたのだろう。池谷の怖いところは、それでいて背後に女性の影を感じなところにある。むしろ、あけすけにとっかえひっかえしている方が健全だとすら感じるのは、なにも佑人がそっち方面にまるで疎いせいだけではないだろう。

「お前って、人に世話焼かせる天才だもんな」

 池谷の絶妙に無防備な雰囲気は、何かと人の気を引きやすい。

「構われるのに弱いんだ」

 吐き捨てるように言ったわりには、彼の表情は穏やかだった。天気のいい窓の外を眺める様な、遠い目線の先には飛行機雲くらいはあるのだろうか。

「お前って、母親似?」

レゴをいじる指先やふと顔をあげたときの横顔や背の高さで誤魔化されているものの幅のない肩幅など、池谷は少し中性的な部分があった。

尋ねるや否や、池谷は露骨に顔を歪め、まるで睨み付けるように鋭い視線で佑人を見上げた。

「言っとくけど、性格はそこまで似てない」

 その一言に、自分が無神経な言葉を言ったことを察した。

「いや、ごめん、そういうわけじゃないんだけど」

 しどろもどろに言い訳しだす自分をみっともないと感じながら、しかし言わずにはいられなかった。

 自分が父親の存在にコンプレックスを抱き、母親の存在を消化しきれていないというのに、安易に家族の話題を振ったのは間違いだった。今更誉めようとしたと付け足したところで、何もプラスにはなりそうにない。

 池谷は一瞬目を細め、息を吐いた。

「うち、片親なんだけどさ。あ、離婚ね。母親に引き取られたんだけど、常に男が居たんだよ。離婚の原因もそれ」

「ごめん」

 佑人は絞り出すように言った。梨香の軽い寝息が聞こえそうなほどの沈黙を、池谷は笑い声でかき消した。

「いや、そういえば言ってなったよな。そういうわけで、縁切ってるんだよ。信用ならない親ならいないほうがマシ。そもそも信用できない人間なんて、関わらない方がいい。関われば多少なりとも好意を抱いたり信じてみたくなる。裏切られてから嫌ったところで、それには既に意味がないんだよ」

 あっさりとした口調で、池谷は何の後悔もなさそうに言い切る。その姿に、佑人は数分前の自分を酷く恨んだ。思いがけず他人を傷つけることの、なんと多い事か。自分も幾度となく、勝手に傷ついてきた。その度に、他人を呪った。痛い部分を押し広げる人を、片っ端から嫌ってみた。

「お陰で、家庭への憧れも結婚願望も一ミリもない」

 いつぞやの会話を思い出し、佑人は耳を塞ぎたい気分だった。

「けどな、家庭をもって幸せになってる人間が数限りなくいることも知ってる。それを否定する気もない。お前の施設の方に、いろんな家族が来るじゃん。もう話もできない老人や、自分のことすら忘れてる親に、毎週会いに来る人とか見るとさ、そういう存在がいる幸せだって絶対にあるって、そう思う。憧れるには、時既に遅しって感じだけどな」

「わかる」

「だから、お前が、この子を引き取るって言うんなら、オレは協力したい」

 梨香の髪を撫でる指先はやはり、男らしさを感じさせない嫋やかさで、関節が滑らかに動く。目を伏せるように梨香に向けられた眼差しに、伏せた長いまつ毛と表情の見えない横顔が物を言わせぬ意志の強さを見せていた。



 例のトラブルは上層部の手際のいい事後処理に助けられる形で週明けには全てが元通りになっていた。それはもちろん企業としての実害を最小限に抑えたというだけで、この件で精神的にも経歴にも十分傷をつけられた水原は気の毒でしかなかった。彼女の土日を思うだけで、息苦しい。

 一日中憂鬱そうに目線が上げられないでいた水原を横目に、佑人もやりきれない気持ちになった。休み時間に差し入れたアップルティーのペットボトルを渡した際の、精いっぱいの笑顔すら、作らせた負い目があるほどだった。

 当然の様に、今日の水原は誰に対しても、それはもちろん主にアンドロイドに対して、素っ気なかったことは理解ができる。ただ、それを水原自身が望んでいないのは、痛みを重ねるように佑人には透けて見えた。人に冷たくして傷つく人間という、人道的には満点だが社会人としてはマイナスに働く性質を持つ人は一定数いるらしく、そういった人間がどれほどの数いるのかは定かではないが、この社会に蔓延しているあれこれを考えれば水原はおそらく稀有な存在なのだろう。

 その日の昼休み、佑人は当番の関係で通常よりも一時間遅い昼食を取っていた。普段は混雑しやすい食堂も、時間を外すとむしろ閑散として居心地が悪くなる。佑人は端の席で独り、ランチの中華丼を食べていた。大皿にかなりの量が盛られているが、綺麗に整えられた白米の表面に、あめ色の餡がかかると絶妙に食欲がそそられる。

 食堂にも当然の様に調理ロボットが並んでいる。食材の仕入れ以外、野菜のカットから品出し、果ては食器洗いまで機械頼みだ。それどころかここでそれを食しているのすらアンドロイドという機械なのだから、冷静に考えれば大分異端なことが起きている。でも、そんな議論は自分のいないところで行われ、なあなあに時間が過ぎるのを待つだけだった。

 狂いのない味は当然人間好みに造られており、付け合わせのひじきの煮ものだとかトマトときゅうりのサラダだとかを食べながら、佑人は先ほど送られてきた写真を見る。佐川が時折梨香の様子を教えてくれているのだが、今日はずっとクマのぬいぐるみと会話をしているという。梨香の短い腕で何とか抱けるほどのぬいぐるみは毛並みが短く質のいい毛布の様に柔らかく、しかし中綿はしっかりとしていて抱き心地がよかった。女の子には人形をと短絡的に考えて寄ったおもちゃ屋で、佑人の方が気に入って買ってしまったのが、彼女も気に入ったらしい。ほほえましい気持ちで写真を見つめていると、広田が足音を忍ばせながらそっと近寄ってきた。

「お疲れ様です」

 口元を抑えながら声をかけると、入り口の自動販売機で買ったカップ入りのコーヒーを片手に持った彼は佑人の向かいの席に座った。

「お疲れ。ごめんね。食事中に」

 人のいい笑顔を浮かべたものの、目尻のしわにはくっきりと疲れが見える。

「とんでもないです。どうかしましたか?」

 言ったところで画面が光った。横目に確認すると佐川からの返信だった。佑人は携帯電話をそっと伏せて、通知を隠す。

「良いよ、確認して」

「いえ、大丈夫です」

 広田は一瞬考える顔をしてから、小さく頷いた。自分を納得させるような仕草だった。

「来週、急遽協会の人たちの見学に来ることになった」

「あぁ」

 広田が浮かない顔をした理由がよくわかり、佑人は曖昧に頷いた。

 アンドロイドが世間に普及された際に、関連会社がアンドロイド協会という連合を作り、一般人にはその内部が理解できないことをいいことにかなり厳しく業界を牛耳っているが世間はそれを気にも留めない。この会社も関連の子会社という立ち位置にあり、要するに下っ端のようなものだ。この業界は上の企業も厳しいことは父を見ていて知っているものの、現場の立場の弱さには閉口する。人のいい広田は視察に来るお偉いさんたちへの気遣いでいつか死んでしまうのではないかと思う程苦労している。

「でも、なんで急に?」

「今回のことだろうね」

 広田はそう言って天井を見上げてため息をこぼした。

「AIを搭載してるなんて豪語しておいて、あの様だったからね。関係者は首が危ないんじゃないの」

 広田の言葉に、佑人はぞっとして顔を歪めた。

「まだまだアンドロイドなんて眉唾感がすごいんだから、どんな小さな過失でも見逃すわけにはいかない」

「もしかして、あのメールって、水原さん本人が送ったことで話がまとまったりしませんでしたか?」

嫌な予感がして尋ねる佑人に、広田は首を振った。

「さすがに水原さんのせいにはなってないよ。でも、うちのマネージャークラスの職員ということになった」

 マネージャークラスというのは現場で働いているアンドロイドを管轄する人間のことで、要するに人間の過失でまとまったということだった。

「人間のミスは許されるけど、アンドロイドのミスは許されない。ミスをしないためのアンドロイドなんだから、当然と言えば当然なんだけどね」

 広田の言葉に、佑人は一気に食欲が失せたのを感じ、スプーンをおいて緑茶を飲んだ。

「でもね、僕はアンドロイドには感謝しているんだ」

 不意に広田が言った。

「今回の過失は本当に呆れちゃったけど、でも、アンドロイドの忠誠心は人間よりも優れていると思っているよ。特に、介護用として発明されたアンドロイドは、介護する側にも介護される側にもきっと、有益だ」

 佑人は神妙な顔で頷いて見せた。食べかけの中華丼を食べるように促され、仕方なく箸を手にトマトをつまむ。

「ぼくは介護現場でずっと働いていたから、現場の厳しさはよくわかっている。人は簡単に言ってくれるけれど、人の世話をするほど大変なことは、そうそうないものだ」

 広田は静かに語りだした。この人がどれほど優しい人かを佑人はよく知っている。ここに来たばかりの佑人は自覚できるほど挙動不審に怖じ気づいていた。当時の自分は植物から師管だけを奪い取ったように干からびていた。思い返すと悲しいほど、自分はあのとき絶望感に支配されながら、そのくせ妙に生きることを諦めていなかった。そんな自分を気にかけ、愛想笑いもうまくできない自分に根気よく話しかけてくれていたのはこの人だけだった。業務的な会話は多く飛び交うけれど深入りしない殺伐とした職場の空気感に驚きを隠せずにいたが、それを改善したがっているのも広田だった。

「どんなにいい人だってね、言うことも聞いてくれない人の面倒を見続けると、だんだん自分が何のために生きているのかわからなくなってしまうんだ。自分はこの人の為に一生懸命働いているけれど、この人は自分に何を返してくれるんだろうなんて考えてしまう。人に何かを施すときは見返りを求めるなとは言うけれど、自分の目の前に力を貸さなければならない人がいるのに無視することはできないのは正常な人間の判断だ。別に膨大な見返りを求めなくても、感謝の言葉やそれなりの態度を欲するのはむしろ正常だよ。感謝はされにくいのに文句は言われれ、そのうえ優しさまで要求される。優しさってのはね、余裕の上にしか成り立たないんだよ、残念だけど」

「わかります」

佑人の脳裏に浮かんだのは梨香の豊かな表情の数々だった。何かを教えれば目を丸くして、何かをしてあげると笑顔を浮かる。そんな姿を見るだけで満たされた。梨香にそれ以上のことなど望んではいない。自分に対して無邪気に笑ってくれればいい。

 広田はカップのコーヒーを飲み干し、空のカップを机に置いた。中身の入っていないカップ特有の、軽い音が響いた。

「現場の人の扱いの悪さには辟易としていたし、それに感化される様に現場は殺伐とするし人は暗くなってやがて辞めていく。僕なんて、何人の若者の辞職表を受け取ったか分かったもんじゃない。みんな初めはね、がんばろうとするんだ。人のために働きたいって笑顔で言ってくれるんだ。そんな子たちが笑顔の一つも見せずに去っていくのを見るとね、こんなところに来ちゃいけないよと思ってしまう。暗くなるだけじゃない、人が変わったように冷たい態度や横暴な口調になるんだ。きっと、出口が見えない暗闇で自分が何者かすらわからなくなってしまうんだろうね。若者の笑顔が悪意なき攻撃性に壊されていく。怖いことだと思わないかい?」

 広田の目は真剣だった。人が病んでいく姿を間近で見た広田の気持ちを思いやると、言葉も出なかった。

「介護ロボットが主流になった際、患者を邪魔者扱いするだとか人の優しさのない現場はどうなのか、なんて議論が出ているのを見て、怒りを通り越して呆れかえったよ。まさに机上の空論、現場の悲痛な思いなんてどうでもいいんだと思い知らされた。それにね、介護をされる側だって、心ある人間なんだよ。あからさまに自分を疎んでいる人は目を見ればわかる。目なんか見なくたって、態度にも出てくる。そしたら、愛想を振りまいてくれなくとも嫌な顔をせず、自分を嫌うことのない相手に介護される方がずっと気が楽じゃないか」

 佑人はなんだか何を言っても彼の真剣さに報いることが出来ない気がして、静かに頷くにとどめた。

「だから、こんな形だけど介護用ロボットが普及され始め、ここで働く人が自然に働けるようになったことは僕にとって喜ばしい事なんだ」

「そう言えば、広田さんは水原さんの内定を少し拒みましたよね?あれは何だったんですか?」

 数年前に中途採用の面接に現れた水原の採用を、広田はただ一人渋っていたのを覚えている。上層部は手をこまねいていたのとは裏腹に、広田はオーバースペックを何度も申し出ていた。広田は僅かに眉にしわを寄せ、小さく頷いた。

「変ないい方をすれば、彼女は頭がよすぎる。そして反面、頭が固すぎて不器用だ」

「それはまぁ、はい」

 否定してあげられないのはどうなのだろうと思ったが、彼が言ったことは佑人も少なからず思っていることだった。

「そして、優しすぎる」

 その言葉はわからなかった。彼女から優しさを感じる場面に、佑人は遭遇していない。嫌味な性格だとか遠ざかりたいと思うわけではないけれど、世間一般で言う優しい人ならほかにいくらでもいる気がして、取り立てて彼女を形容する言葉にも感じなかった。それを察したように、広田はゆっくりと話し始めた。

「優しさにはいくつか種類がある。例えば誰にでもそつなく親切な人っているだろう。世渡りが上手にできるタイプだ。他にも、自分が気に入った特定の人にすごく優しくする人、優しいというよりも気弱で控えめにする人、空気を乱さないように気を遣う人、様々だ。水原さんの優しいはね、人の弱さに寄り添える優しさなんだよ」

 佑人は水原の気の強い発言や怒りを抑えきれない横顔などを思い返し、言葉を濁した。

「例えば、道端で迷子の子供が泣いているとしよう。おそらく、声をかけてくれる人はたくさんいるだろう、それは親切な人だ。でも、水原さんの優しさはね、そんな誰にでも当てはまる優しさじゃない。情に厚いタイプなんだよ。例えるなら、言いたいことがうまく言えずに口ごもった子供の言葉を、根気よく待ってくれるタイプの優しさだ」

言われると少し腑に落ちる感覚があった。昌弘が亡くなったときも、水原は口先だけの同情をしたり、安易な言葉を口にしたりはしなかった。ただ一言、「こちらは任せてください」とだけ言って、じっと佑人の瞳を見た。人を安心させる目だったのを覚えている、優しくしてあげようとか、そうすることで自分がいい人になろうとするそぶりは一切なく、ただ佑人の内面に共感させようとする瞳に少し安堵したのを覚えている。

「水原さんは、頭がいいから先回りして人を守ろうとする部分がある。今回なんて、良い例だ。でも、もしもそうする相手が同じレベルに頭がいいとしたら、きちんと感謝として優しさが肯定される。でも、ここではどうだ?結局、彼女は割を食っただけじゃないか」

 話していて怒りが増したのか、広田の口調が荒くなる。佑人の知らないところで必要外に責められただろう水原を思えば、ここ数日の彼女の態度は仕方がなかったもののようにも感じてくるから、人間の感情とはあてにならない。

「前の職場でも苦労したみたいだし、彼女には幸せになってほしいね」

 広田はそう言うとカップをつぶし、立ち上がった。

「食事中に悪かったね。一応、報告までに」

「はい、ありがとうございます」

 広田が去った後、佑人は冷めた中華丼を前に、失せた食欲をどうすればいいのかと一人途方に暮れた。仕方なく一口運んでみるも、こうなると食感の悪い米の大群でしかないように思え、ため息が零れた。なんだか中華丼からそっぽを向かれたような気分だった。

 広田の最後の一言が気になる。でも、理由を聞く勇気はなかった。

 携帯を表に返すと、先ほど着ていた通知に梨香の写真が添付されていた。床に座り込んでぬいぐるみに笑いかける梨香の笑顔に、佑人はなんだか胸がつまってしまい、そっと携帯のライトを落とした。



初夏とは思えない日差しが照った日の夜、初めての経験だった梨香はへばっていた。佑人でさえ差し込む日差しの強さは理解していたものの、外に出ると容赦ない日差しに肌の表面を焼かれている感覚があった。梨香にとって温かな日差しの経験はあっても、ハンカチが手放せないほどの暑さは経験しておらず、佐川家に送る時間ずっと、暑いねと言い合った。帰りは日が暮れていたので昼間の冗談のような暑さはなくなっていたが、梨香が何度か暑いという言葉を反芻していたのは、おそらく暑いという単語と感覚が結びついたからだろう。

帰ってきてから保冷剤で梨香の肌を冷やした。小百合にそうするように言われていたからだ。

「子供の皮膚は少しの日焼けでも腫れたりするから、なるべく冷やしてあげてね」

 帰り際にそうアドバイスされ、子育てもしていないのによく知っているなと思って小百合を見ると、何を察してか、

「佑人君も、日焼け跡が残りやすいタイプでしょう」

 といわれた。

「そうでしたっけ?」

 通勤や軽い買い物以外に外に長時間出るようなことは学生時代以来ほとんどしておらず、指摘されても首を傾げてしまった。

「美里さん、結構苦労していたのよ」

 小百合はそう言って肩をすくめた。美里さんとはもちろん佑人の母であり、記憶にない佑人は笑って誤魔化した。

「子供のけがと病気にね、親は相当苦しむのよ。怪我だって病気だって、誰でもすることだって言われれば当然だけど、自分の子供が苦しんでいるのを仕方がないとは済ませられないのが親なのよ」

 小百合の目は真剣だった。この人は子供がいないのに妙に親の優しさを解く癖がある。それを素直に受け入れる自分が、佑人は少し不思議だった。

 家に着いてから、冷凍庫に入れてあった保冷剤をまいたタオルで梨香の顔や腕を冷やすと、彼女はくすぐったそうにきゃっきゃと笑った。その無邪気な笑い声に感化される様に、佑人はわざと彼女の首筋や耳元などを冷やしてからかった。

「気持ちいい?」

 彼女の柔らかな頬が少し赤くなっており、上気したようで可愛らしい。

「うん、冷たいね」

 梨香は目を大きくしていった。

「冷たくすると良いんだって。小百合さんが教えてくれたよ」

「冷たくするの?」

「うん。こうやって冷たいものを当てたり、涼しいところに行ったりすると良いんだった」

 そう受け売りをすると、彼女は大きく頷いた。

その日の夜、お風呂上りに飲み物を取ろうとキッチンに入った佑人は、何故か外に出された総菜や豆腐、ジャムなどを見て顔が引きつった。冷蔵庫を開け、佑人は驚きのあまり大声を上げてしまった。

「ちょっと、梨香」

 慌てて梨香を呼ぶと、彼女はぺたぺたとのんきな足音を立ててリビングに現れた。ぬりえをしていた右手に、青い色鉛筆が握られている。

「なあに?」

「聞きたいのはこっちだよ。これ、何?」

 佑人は冷蔵庫の扉を置きく開ける。中には、あのクマのぬいぐるみが変わらぬ微笑みで鎮座していた。冷蔵庫にぬいぐるみという異色の組み合わせに度肝を抜かれた。

「なんで、ぬいぐるみを冷蔵庫に入れたの?」

 佑人はぬいぐるみを冷蔵庫から取り出し、当然脱ぎるみの場所取りのために追い出された食品を冷蔵庫に戻す。もっとひんやりしているかと思ったが、ぬいぐるみは表面が僅かに冷たい程度で、佑人が風呂に入っていた時間程度ではそこまで冷やされなかったようだ。

「だって、冷やしてあげなきゃ」

 梨香は唇を尖らせ、渡したぬいぐるみを受け取った。短い腕で抱きしめる姿がなんともいじらしい。

「この子も、いっぱい日焼けしたよ」

 梨香は納得がいかないらしく、佑人を見上げる顔には不満の色が浮かんでいる。その姿に、佑人は怒りより脱力感があった。しかしすぐにおかしくなり、佑人はその場に座り込んでしばし笑った。

「そうだよね、冷やしてあげたかったよね」

 この子は優しいのだ。同じように日焼けしただろうぬいぐるみを冷やしてあげたかった。冷やす場所は梨香の中に冷蔵庫しかなかったのだから、これは仕方がない。もちろん、豆腐や納豆、作り置きたちが冷蔵庫から追い出された末路など、梨香が知っているわけがないのだ。

「でもね、冷蔵庫は食べ物や飲み物をしまう場所だから、ぬいぐるみを無理やり入れちゃだめだよ」

 佑人は中腰になって梨香に教える。梨香は一応は納得したように頷き、

「じゃぁ、この子はどこで冷やせばいいの?」

と食い下がる。

「この子は冷やすんじゃなくて、涼しいところでゆっくりさせてあげれば大丈夫だよ」

 佑人はそう言って、備え付けの扇風機を稼働させ、その下にぬいぐるみをおいた。

「冷蔵庫はちょっと寒すぎるからね」

 閉じた冷蔵庫の扉をじっと見つめてから、梨香は頷いた。彼女なりに納得してくれたようだ。

「梨香は優しいね」

 ぬいぐるみを抱きしめた梨香の髪を撫でる。ドライヤーで乾かしてからそう時間が経っていない髪は表面がつるっとしていて、少し重たい。

「優しい?」

「うん。すごく優しいよ」

 笑顔でそう返すと、梨香は一瞬俯いてから顔をあげた。

「佑人君の方が優しい」

 梨香は真面目な顔でそう言った。佑人は何と言えばいいかわからず、ありがとうと返した。大真面目にこちらを見つめる彼女の瞳に、自分は中途半端な優しさでいい人ぶった報いをいつか受けるだろうという妙な確信で、胸が痛かった。



 職場のトイレで、池谷と遭遇した。石鹸で入念に手洗いをしている佑人の顔を見るなり、池谷は顔を歪め、

「なんつうかさ、お前毎日葬式みたいなテンションを振りまくのどうにかしろよ」

 と言い放った。

「そう言うお前は毎日が世紀末みたいなお気楽テンションする癖をどうにかすべきだろ」

 苦し紛れに言い返した言葉があまりに的を射ておらず、自分でも頭が回っていないなと感じた。言われた通り、ここ数日の佑人は浮かない気分で職場に出ていた。

 池谷は小さなため息をこぼし、佑人の隣の洗面台でうがいを始めた。服から微かにタバコの匂いがした。

「お前は嫌じゃないわけ?」

「なにが?」

 濡れた口元を手の甲で拭い、彼は首を傾げた。

「視察」

 今日の午後、協会のお偉いさんたちが仰々しく訪れるという連絡が、広田から朝の朝礼で告げられた。佑人はついにかと憂鬱気分になりながら、そっと水原を見た。微かに眉根にしわを寄せた横顔は毅然として美しかったけれど、それはまるで限界まで膨らませた風船の艶のように思えた。どんなに小さな綻びからでも一気に空気が逃げてしまいそうな危うさと、まさに隣り合わせだ。

協会の人間が来るということは、当然池谷の会社の上層部も来る。普通だったら顔を合わせるようなことのない相手が自分たちを監視に来ると言っているのに、この人はなぜこうも呑気なのか、佑人には理解が出来なかった。

池谷は濡れた唇を手の甲で拭い、その手を持て余していたのを見かね、佑人は置き型のペーパータオルを指さした。

「別に。このご時世さ、いい事しても悪い事しても平均の域であれば大した差にはなんないし。大体、この業界だって、ピラミッドの上に立つような人間は経営力だのカリスマだの言われてるだけで、技術の力なんて何も持っちゃいない。そんなの、介護の方だって同じじゃん。給料決める人間は現場のつらさ知ってるか?」

池谷は呆れたように笑い、捲ったシャツの袖を折りなおす。決して体格がいいわけではないが覗いた手首が引き締まっていて、すらりと伸びた長い手足といい、不健康且つ不健全な生活をしている割に身体は壊さない。ジムに行ったことがあるかと聞いたことがあるが、シャワールームの風呂で熟睡して以来解約したと言っていた。

「別に諦めてるとかそう話じゃなくてさ、わかり合いたいと思わないんだよ。わかってほしいとも思わないわけ。だから偉そうにこうしろああしろって指示だけ出して愉悦に浸る高給取りなおっさんのために、オレは疲れたり傷ついたりしたくない」

 佑人はペーパータオルで指先まで丁寧に拭いながら、ぼんやりと彼の言葉を聞く。自分にないものを持つというのはこういう事なんだろうなと、彼の曲がりのない強さに感心した。同じ強さなら、立ち向かう強さより折れない強さの方が保守的で、それは結果的に自分を守る力になるのではないか、と池谷の話を聞く度に思う自分がいる。

「でもそうはいっても気が重くなるだろ」

 そう簡単には変わらない暗鬱とした意識の下で、佑人は身動きできずに愚痴った。池谷はその肩に肘を置き、お前はさぁと呟いた。

「気遣いをしすぎ。それに助けられてる俺はあまり言う権利ないけどな」

「ほんとに思ってるのかよ。何回お前の遅刻の言い訳に使われたことか」

「ちゃんと驕ってるじゃん」

「コーヒーかコーラを、な。お前の趣味じゃねーか」

「今度はあのちびちゃんにジュースでもいいけど」

 佑人は思わず言葉に詰まった。その様子を横目に、池谷は僅かに目を細めた。

「なに、まだ決めかねてるの?」

 少し表情を歪めた池谷と目を合わせると、彼は呆れたようにため息をこぼした。

「そういう態度は誰に対してもプラスには成んない。早く決めろ。引き取れないんだったら中途半端に優しくするな。ちびが傷つく」

 池谷の言うことは尤もで、佑人は小さく頷いた。

「決めかねるんだ。どうするべきかわからない」

「そりゃ、簡単に決められるとは思ってないけどさ、お前は今自分で自分の首を絞めてる」

「なぁ、池谷ならどうする?」

 池谷の着ているシャツの裾を見ながら、佑人は尋ねた。折り直していたくせに、しわが寄っていてだらしがない。

「オレとコインで賭けでもするか?」

「は?」

「野沢が決め切れない気持ちはわかる。だから、コインの表裏で決めてみるか?このままだと埒が明かないって言うんならな」

佑人は肩の高さまで腕を上げる。

「冗談言うな。そんな決め方出来るわけないだろう」

「なら、オレに聞くな。コインなら平等に半分の確率で決めてくれるけど、俺のバイアスだらけの意見なんて、お前には何の役にも立たない」

 何処か論理的な意見に、佑人はそれもそうだと納得し、わかったと返した。

「じゃぁ、これだけ聞きたい。池谷は自分が子供を育て切る自信はあるか?」

 池谷は髪を整えながら、ないときっぱり言い切った。昌弘の葬式の際にした黒染めは綺麗に剥がれ落ち、艶やかな金色は白色の蛍光灯の光によく反射した。長めの髪は、職場ではかなり浮いている。研究室には研究に命を懸けた男ばかりだと言い、こちらの施設では規定に引っかかる。髪にまで気を遣うくせに、この男の他者意識の低さはなんとも不思議に映った。人に好かれることも、人に嫌われることも、人の目によく映ることにも頓着しない。けれど、自分が見る自分が理想通りでないのは不満、その意識の高さは見上げたものだ。

「無理だよ。俺、結婚願望ないから」

「そう言う問題か?」

 事実佑人が現に抱えている問題と結婚は一切結びついていない。しかし、池谷もまた、真剣だった。

「そういう問題。いいか、野沢。お前だから言うけど、オレは女に興味なんてさらさらないわけ。この前話した理由ももちろんあるけど、そもそも人を好きになったこととかないんだよ。この感覚、わかる?」

 佑人は曖昧に頷いた。佑人の中にある家族という存在への消極性と、彼の根底にある嫌悪感は、同じ結果をなぞらえる別物だという自覚があった。

「例えば誰かと付き合って、相手のことを思って考えて、自分のことを理解してもらいたい、みたいな感情が全くないわけ。それは誰に対してもなんだけど、特に女性に対しては思わない。煩雑な段階踏んで危うい関係結んで、そういったことを自分はしたいと思わない。だから、結婚はしない。それはもちろん、相手の為でもあるんだよ。とりあえずで誰かと結婚なんかしてみろ。相手を不幸にする。その結果の子供、不幸の連鎖だ。オレは、女より子供を選ぶ男に出会ったことはないし、よって俺に子育ては無理だ」

 佑人はわかったと一言返し、時計を見た。あの件ばかりが原因じゃないと言っていたけれど、彼の本質に繋がった諦観は間違いなく、彼自身のバックグランドが影響している。自分が常に振り回された様に、彼は佑人よりも遥かに意思の強い人間だけれど、根付いた意識は総とっかえ出来るものではない。経験の上に根を張り、築かれた。

「そろそろ戻らないと」

 二人でトイレを後にする。すぐの曲がり角で、池谷が振り向きざま、佑人を呼んだ。

「野沢」

「なに?」

 池谷は一瞬視線を落とし、ポケットに手を入れたまま

「いろいろ言ったけど、オレはあのちびはすごくかわいいと思ってるし、お前の選択がそうであるのなら、オレはいくらでも協力する」

 時々こういう、真剣な表情をする。掴み処のない冷淡で軽薄な印象とは裏腹に、真面目な時の不器用さは、その熱意の分だけきちんと伝わってくる。

「うん。ありがとう」

「じゃ、また連絡する」

「迷惑事押し付けるなよ」

 佑人の言葉に、既に歩き出していた池谷は片手をあげた。細身のスーツに包まれた線の細い身体に、なんとなく不安を覚えた。結婚しないとか子供はいらないだとか、それ自体が間違った選択というわけではないが、あのまま食事もまともにせず、睡眠時間もどうでもいいという性格ではいずれどこかで破綻しそうな不安が拭えない。では、自分はどうだろう。家族というものにどこかで常に不安を抱いていて、幸せそうな家族を見るのは無意識を装って避けた。けれど、その劣等感から脱却するだけの気力があるかといわれると、痛いところだ。

 池谷の言葉を、佑人は頭の中で反芻する。一緒に暮らすのならば、相手のためになることをしてやらなくてはならない。自分といて相手が幸せに成れそうにないのなら、関わるべきじゃない。

 梨香はどうだろうか。自分といる日々を、どう感じているのだろう。それは知れたら初めから苦労していない。それでも、もう延ばせない選択がある。佑人は大きく深呼吸して、事務室の扉を開けた。



梨香を眠らせた後の時間、一通りの家事をすませると佑人にとって束の間の息抜き時間ができる。リビング隣の寝室をそっと覗き、薄手の布団にしっかりと包まれた身体を微動だにしない梨香を確認し、彼女の身体の中で起こっていることを想像すると起こる僅かな息苦しさには、いまだに慣れていない。ある日自分の生活の一部になった、せざるを得なかった少女が、今になっては失えない存在になり始めた。思えば、父の葬儀から僅か一週間の孤独を、佑人は今となっては思い出せもしない。ただひたすら、余りある時間と果てしない虚空を、妙に明るいBGMに乗せたゲームで誤魔化していた気がする。あの時間を否定する気にはならないものの、今の自分を健全だと肯定したくなる気持ちを抑えることができない。振り返り、感情論で過去を見る様な事はしたくないのに、今の多幸感を全てにしみ込ませていたい。長くは続かない幸せを知っているからこそ、壊れてしまっても、その欠片だけで生きていける様な幸せだと信じていたくなる。

 佑人はリビングに持ち込んだノートパソコンの電源ボタンをゆっくりと押した。起動したパソコンのデスクトップに映った、南国のビーチが美しい。佑人はこんな景色を自分の目で見たことはない。遠い遠い世界の景色だというのに、景色としてはあまりに多く目にしたことがあるものだから、まるで自分の知っている世界の一部のように思えた。

その昔、まだ母がいたころだ。周りの友人らの海外旅行自慢を聞きかじり、ねだった記憶はある。遠い海の向こうの澄んだ水辺に、小学生ながらに羨望の気持ちと、そしてどこかでお願い事への執着もあったのだ。当然、父親の多忙を理由にたしなめられたが、今思えばあのときどんなに無理をしてでも連れて行ってくれればよかったのだ。結局、母親との旅行の記憶はおろか、家族旅行などという明るい思い出の一つも持っていない。振り返り、それを取り返す術も後悔のしようもないものだから、せめて壊れてしまわないようにと小さな思い出にすらラッピングをして大切にしまい込む。いつまで経っても自分は、ここから出られない。

 まだ夜になると少し肌寒さが残る。薄手のパジャマに梨香が放置したブランケットをかける。猫のデザインがされた薄手のブランケットは、広田からのもらい物だった。広田の娘さんが出産した際にプレゼントに買ったらしいのだが、既に山ほどある事実を知って渡し損ねたのを、何の思い違いでもしたのか、佑人に押し付けてきた。

「女性社員にあげればいいじゃないですか」

至極まっとうな意見を言った佑人に、広田は苦笑し、

「セクハラだと思われたら悲しいから」

 その時の顔が笑っている割に表情が乏しく、喜びと共に一抹の哀愁を持っているのは確かで、佑人は余計なことを言わずにそれを受け取った。そのときはまさか、こんなことになるとは思っていなかったけれど。

血の巡り悪く冷えた指先で操作するパソコンの明かりは意識の奥でちりつく。まばたきを繰り返しながら、アンドロイドと暮らす人たちの日記を捜し、読む。自分の中で鳴りやまない不協和音を、佑人は消そうとしていた。

その気になれば、いい発言や利点を語る人は存外多い。市場価値を考えれば妥当かと冷静になりながら、佑人は書かれている内容を一つずつ流し読み、もう一度、もう一度と、幾度となく目を通す。時に残酷な言葉を引き当てては、うすら寒い絶望感に胸を押さえた。

 メガネを外して目を閉じると、疲れのせいか少しの間意識が飛んだ。自分の身体の揺れで目が覚めたとき、大学の授業中にしょっちゅうこうして居眠りをしていたことを思い出し、一人で気恥ずかしいような懐かしいような、言いようのない哀愁を感じた。大学時代の友人達ともなんやかんや連絡を取らなくなったなと思い返すと、それでよかったと思う自分がいた。いつからだろう、他人は妬みの対象でしかなくなった。とにかく自分より幸せな、そして努力している部分を見ては、自分の足元を冷静に分析し、それらを過去に起因させる。姑息であると感じる真面目な自分に、過去の自分は強く反論をする。漫画でよくある、天使と悪魔だ。天使は幸せの象徴のはずなのに、誠実さと健全さを求めるその姿は、安逸の象徴とは無縁に思えた。

身体を起こすとブラックアウトした画面に、疲れた顔をする自分が映った。入れ直したスイッチで浮かび上がった論評も、目を凝らさなければ文字の羅列に過ぎない。やり場のない憤りの向こう側に、評価をしている人は誰なのだと冷静になる自分がいた。

「佑人君」

 背後から声がして、佑人は飛び上がる様に振り向く。静かなリビングに、か細い声がこんなにも響くとは知らなかった。

「どうしたの?」

 一瞬振り返ってパソコンの画面を落としてから、大きな音を立てて脈打つ心臓を沈めるように優しく尋ねる。空の青さに近い柔らかな水色のパジャマを着た梨香は、いつもより色白に見える。ふっくらとした頬とぽってりとした唇。子供独特の境界線のないふくよかさが可愛らしい。あくびを漏らしながら、トイレと言ってリビングを出て行く背中を見ながら、まだ高鳴りの収まらない心臓に手を当てる。慌ててパソコンを起動させて、該当のページを閉じた。

 帰ってきた梨香は目が覚めてしまったようで、少しの迷いの後、佑人の左ひざにそっと腰かけた。艶やかで癖のない黒い髪が、蛍光灯の輪を作る。確かな重みを半身に受けながら、佑人はその腰に腕を回して支える。

「寝らんなくなっちゃった?」

 もうすぐ深夜をまわろうとする時計を見ながら、梨香から預けられた身体をあやす様に揺らす。佑人の左側が、彼女の熱でじんわりと温まる。

「佑人君は?」

 梨香は振り向き、真っ直ぐな目で見つめてくる。真っ黒な黒目と、真っ白な白目。白と黒のコントラストはなぜ、こんなにも調和を取って馴染むのだろう。

「俺は大人だから」

 不思議そうに首を傾げて見せた梨香に、佑人はまるで言い訳でもしている気分だった。「大人…」

 言葉の意味を理解しようと反芻された言葉に、小賢しさや憎たらしさがないことが、逆に佑人を追い詰める。普通でいられはしないくせに、自分を普通の物差しで正当化しようとする姑息さを、見逃してほしかった。

「大人はどうやってなれるの?」

 深夜にしては中々の難問だった。子供騙しな返答など大人なりに持っているけれど、梨香に通用しそうにない。良くも悪くも、この子は純真過ぎる。まるでこちらの良心を試すように。

「オレはね、気付いてたらなっていたよ」

 梨香の着ているパジャマの胸元のワッペン。そのファンシーなキャラクターを可愛らしいものだと思っている自分は、多分ちゃんと、大人になったのだ。

 本当に、いつの間にかだった。別に子供でいたかったわけじゃない。むしろ、父親の保護下に居たくないと、今すぐにでも自立したいと思っていた。でも、あの時から自分は何も変わっていない。年を取り、毎朝向かうのが学校ではなく職場になり、決められただけの税金を納め、ただそれだけだ。本当に何も、変わっていない。

 じっと、下からこちらを見上げる梨香の視線を受け流せずに彼女を見ると、梨香はゆっくりまばたきをした。

「梨香も、大人になれるの?」

 瑞々しい問だった。胸がすく様な、真っ直ぐな問。濁った瞳で見る純白は、それでもきっと汚れなき純白なのだろう。

「なりたい?」

 うんと、頷く。

「なれるよ」

 頭をなでると、さらさらと指先を滑る髪が柔らかい。

「もう寝ようか」

 クーラーの乾燥を気にして水を梨香に飲ませ、先にベッドに行くよう告げる。

「おやすみ」

寝室の前でそう押した背中が、手の中で反転した。

「佑人君、大好き」

 そう言って佑人の腰に回された両腕。出会った日よりもぎこちない仕草に、佑人は驚きと共に羞恥心と、高揚感と、ちょっと泣きそうな安堵感にかき乱され、言葉が出てこなかった。

「おやすみ」

 絡めた腕をあっさりと解き、梨香は早口で言うと恥ずかしそうにベッドにもぐりこんだ。それをぼんやりと眺めてから、佑人は思わず笑った。同じ幸福を持っていることが、こんなにも幸せなことだとは知らなかった。

 はにかみを堪えながら、佑人はパソコンを消して歯磨きをして、梨香の隣の布団に寝ころんだ。全ての明かりを落とした部屋は静かで、梨香の僅かな寝息すら聞こえる。あんなにはっきりと意識を覚醒させていたというのに、既に寝入っているようだ。その切り替えの早さに少しの嫉妬と愛おしさを覚える。やはり、子供には成れない大人の、悲しい立ち位置だ。

 この子と暮らしていこう。佑人は僅かに消え去る意識の中、決意を固める。もしもマイナスなことをかんがえたら折れそうな心に、梨香の笑顔を思い浮かべる。今自分が何を手に入れられるのか、そんな打算的に考える自分のことを汚いと感じながら、今の自分が抱いているだけの幸せを、この後自分がつかみに行ける自信がなかった。人生においてチャンスは数回来るというけれど、そのうちの一つがおそらく今であることは、佑人にもわかった。もうすぐ、なんだかんだ三十になる。人生は多く見積もって百年なのだから、数回の内一つはそろそろ来ても、可笑しくない。


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