三章
次の日の朝、佑人は梨香を連れて佐川の家を訪ねた。今日から佑人は一週間の仕事がある。今の状態の梨香を一人家に置いておくなどできるわけもなく、仕事中はリタイアしている佐川と佐川の妻の小百合に見てもらうことにした。
久々に乗る満員電車で、梨香が周りから露骨に嫌な顔をされているのはわかったが、一人で女性専用者に乗せるわけにもいかず、内心申し訳ないと思いながらも大分肩身の狭い思いをした。泣きもしなければ騒ぎもしない梨香ですらこんな風に睨まれるのかと思うと、心臓の裏側が寒い。昨日買った水色のワンピースに白いカーディガンを合わせた梨香は、終始硬い表情だった。これも昨日買った、梨香の腕に収まるほどのぬいぐるみだけは感情のない、モナ・リザのような曖昧な微笑みを浮かべている。言葉が分かっていなくても、知識が欠落していても、悪意だけはわかるものらしく、見ていて可哀そうな大人しい梨香の表情に、佑人は自らの余裕の無さを自覚する。きっと妙に正確に伝わる悪意は、真っ直ぐな好意なんてものを十分凌駕するのだろう。愛情が歪んで伝わることがあっても、悪意が歪曲して伝わることなどないから、やはり人間とはそういう生き物らしい。
佐川の家には昔からよく世話になっていた。それこそ、佑人も預けられたことがある。母が亡くなり、父の不在の時は当たり前のようにこの家の世話になった。見上げた屋根の瓦が少し近くに感じたのは、それだけここに来ていなかった証拠だろう。
小百合は梨香を見るなり
「まぁ、可愛い」
とお世辞のない声で言った。さすがに佐川の妻をしているだけあって、同年代は未だにアンドロイドに対する偏見を持っている人が多い中、彼女はむしろ愛情深く梨香の肩を抱く。小百合の愛情深さは子供が居なかった反動だと言ったのは、確か昌弘だった。
自分が可愛いと言われることの意味を理解していない梨香は無邪気な瞬きをしているだけだが、自分が好意的に受け入れられたことはわかったように、薄っすらと上気した頬が白い肌に映える。遠目で見れば見るほど、彼女の全身の造りは完璧に計算されている。
「おお、梨香ちゃん。来たね」
玄関先にだらしないジャージ姿の佐川が出てくると、梨香はぱっと顔を明るくし、
「佐川さん」
と言った。どうやら、梨香は人の名前は正確に覚えられるらしいが、周りがそうと呼ぶように覚えるらしく、佐川のことは佐川さん、佑人のことは佑人君と呼ぶ。あの日、初めて会った日、佐川が教えた自分の呼び名は、彼女を離しがたく感じるには十分だったことは、非常に厄介なのだ。子供特有の響きの良い、それでいて舌触りの重たい口調で呼ばれる名前は、自分に向かって伸びている気がして心地がいい。
梨香の機嫌がいいうちに仕事に行こうと玄関の扉を閉める際、そっと目が合った小百合も一緒に出てきた。
「こんな面倒ごとを頼んで、すみません」
小百合の温かな微笑みの向こうに、扉越しの梨香のことを考えると、佑人は感情が交錯して本心を見失う。自分の正しい感情が、理性と理想論にかき乱されている気がしてならない。
「もとはといえば、主人とお父さんのせいでしょう。むしろ、佑人くん、無理しないでね」
小百合の言葉にはなぜか不意に感情が溢れそうになる。小学生で母親を亡くした佑人にとって彼女は最も母に近い存在だった。
「梨香は本当に言葉もほとんど知らないし生活的な知識も完全に欠如してるんです」
言いながら、何故か心臓の底が刈り取られた様にすかすかと感じた。風通しどころじゃない、感情がとどまらない。
「えぇ。わかるわ」
小百合に、昨日買い与えたぬりえや縄跳びやジグソーパズルを渡す。子供のおもちゃはなぜこうも、色鮮やかなのだろう。ファンシーで濁りのない色合い。心まで透かせそうな透明色。単色の絵の具しか使っていないような、混じり気のない原色。
「何かをさせるとき、正しいやり方を正確に教えてやってください。一度教えたことはすぐに覚えるので」
まるで梨香を人間じゃないと言っているようで気分が悪かったが、人間じゃないことの一体何が問題なのかとも思う。むしろ人間であることの価値とは、何か。自分自身が人間に生まれたことに、生まれてこの方一度だって、感謝などしていないじゃないか。
「あと、これを、佐川さんに」
昨晩父の部屋で見つけたUSBだ。佑人も見てみたのだが、梨香のことを書いているのはわかったのだけれど、難しい専門用語が多く出てきて内容までは理解が出来なかった。餅は餅屋、出しゃばらずに人の力を借りようと思った。池谷の存在も頭をよぎったが、多忙の彼にこれ以上のことは頼めない。
「確かに」
小百合は小さな手でしっかりと受け取った。優しくて上品な手だった。梨香のそれとは確かに違う温かさ。懐かしいような気持ちを一瞬で忘れ、佑人は頭を下げて職場に向かった。
いつもと違ったルートは、外の景色も、電車の混み方も揺れ方も、全てが違うように思えた。窓際に立って眺めた流れる景色に、都心部に集まった人の多さを感じた。だというのに、この国は人手不足に悩んでいる。にわかに信じがたかった。
職場に向かうと、普段よりかなり余裕のある時間に事務所に着いた。昔から心配性なところはたびたび指摘されてきたが、自覚もある。待ち合わせには余裕を持つ性質で、前の会社も今の会社も遅刻をしたことはない。今日もかなり余裕をもたせた時間計算をしたせいで、事務所にもまだ人が少なかった。
佑人は着替えをすませ、来る前に駅前のコンビニで買ったガムをパンツのポケットに滑らせ、ブラックコーヒーと加糖タイプのコーヒーの二種類をもって事務所を出た。渡り廊下を過ぎて曲がった先の角部屋が、アンドロイドの設計会社の駐在員の一室になっている。アンドロイドの不具合や本部に連絡を入れることもないちょっとした問題などがあれば、いつも頼りにしている。
二回ノックをすると、中から気の抜けた返事が返ってきた。遠慮なく開けると、微かにアロマの香りがした。
「風呂遣えば?」
椅子で寝ている池谷を見下ろす。明るい髪がセットされずに乱れている無防備な姿に、同い年の男というよりも弟でもいるような気持ちが涌いた。
「いや、午前だけやったら、今日は半休だからいい」
そう言ってアイマスクを外した池谷の目元が思いの外疲れをためていて、基本定時上りが出来ている自分が申し訳なく感じた。
「全然寝ていないわけ?」
「五時くらいに落ちた」
淡々とした口調で言われ、佑人は身震いがする。職場で夜を越して平然とした顔をする姿を見ると、昔の自分の絶望を再現しているようで恐ろしかった。それでも、佑人は終電より遅くなったことはない。
「しかし、準備周到だよな」
池谷が寝ている椅子は背もたれが水平まで倒せるタイプで、伸ばした脚を支える台までついており、平均よりも高い身長をした池谷でも十分に眠れるサイズになっている。香るアロマはラベンダーとリラックス効果があるが、これが昼間だと集中力が上がるという理由でペパーミントやイランイランの香りが焚かれている。身体に掛けられた小さめのブランケットといい机に放置された数種類の目薬といい、寝泊まりすること前提の準備の良さに、努力の方向性を疑う。
「ここで暮らすってなったら、一週間はかたいね」
池谷が伸ばした手を掴み、体を起こすのを手伝う。近づくと、シャツから強いタバコの匂いがした。
「仕事が膨大で寝泊まりしなきゃいけないなら、業務の効率化をして早く帰れるように努力するべきで、寝泊まりの環境を充実させてどうする」
呆れていると、彼は机の目薬をもてあそんでから一つを選び、上を向いた。目薬を差すのに黒目を動かしたとき、覗いた白目が驚くほど充血しているのを見て、なんだかやるせない気持ちになった。
「そうすれば理想なんだけどな。うちみたいに大きな会社だと、どんな理不尽もトップダウンだから、諦めてる」
池谷は何度かまばたきをする。目じりを伝って零れた雫の軌道をぼんやり眺め、佑人はため息をこぼした。
諦めて受け入れられる人間は十分幸せなのだろう。違和感を抱き、反抗する気力も力もないけれど嫌悪感一杯に戸惑うと、あっという間にドロップアウト。知らないわけじゃない。
「別に池谷がここで寝ようが暮らそうがどうでもいいけど、それを家庭ある男がやると、家族って上手くいかなくなるんだぜ」
長い指の先で目尻を拭った池谷はこちらを見ずに、経験談かよと言った。
「子供って触れないものは知らないものなんだ。知らないってことは、信用のしようも甘えようもない。他人以下だぜ」
忌まわしい記憶が、現実的視線を通すことでバイアスがかかりそうで、佑人は強く反論した。あのときの自分の寂しさを、大人の自分が受け入れるわけにはいかなかった。
「資本主義が幸せかどうかはどうでもいいけど、とりあえず死にそうに眠い」
「はいはい」
佑人は二種類のコーヒーを机に置き、ポケットから出したガムも並べた。
「完璧なラインナップ。やっぱ、困ったときの野沢だよな」
「なんだそれ」
「圧倒的安心感」
普段自分より身長のある男が下から見上げてきた視線に、佑人は梨香を思い出した。
「ほんとはさ、お前にチョコ買ってたんだ」
「チョコ?」
「うん。あの、のど飴のお礼」
池谷は加糖のコーヒーのキャップを開けながら、あぁと相槌を打った。
「それで?」
「そのチョコさ、子供にあげたんだ」
「お前、そういう趣味あった?」
心配そうに聞かれ、佑人は一気に馬鹿らしい気持ちになった。
「もっと深刻。父親の部屋から、推定七歳の子供のアンドロイドが発掘されて、何の因果か懐かれた」
形容し難い音と共に零されたコーヒーを見て、佑人はむしろ気が楽になった。黙って、近くのティッシュで床を拭く。
「ごめん。でも、もう少し深刻そうに言えよ」
気まずそうに口を歪めた池谷の表情に、佑人はこの数日の戸惑いが肯定されたような気がしていた。
「深刻過ぎて、むしろ冷静になった」
それから、佑人は梨香のことを事細やかに語った。流石に専門分野だけあって事態の本質をとらえることも早く、疲れをためていた同士無駄のない会話で事実だけを淡々語っていると、自分の中でわだかまっていた現実的な問題が見えてきた。
一通りの説明が終わると、池谷はすっかり冴えた目を眇め、大変なことになったなと笑った。
「他人事だと思ってないか?」
「そりゃ、お前は他人だし」
容赦ない言葉に、佑人は少し笑った。頭など等に働かない段階に来ているだろう池谷の素直すぎる言葉はむしろ、無用な気遣いより心地よい。今欲しいのは中途半端な優しさじゃなく、建設的な意見だった。
「あと、正直楽しんではいる。初期型なんてそうそうお目に掛かれないし、是非とも研究させてほしい」
「冗談辞めろ。タイミング見て、引き取ってもらう」
「なんで?」
「なんでって…」
佑人の方が驚いて池谷を見た。彼は純粋そうな目でこちらを見返してくる。なんだが居心地悪くなり、佑人はポケットの中で指先をこすり合わせた。
「無理だろ」
それ以上の言葉は言えなかった。自分がひどく悪者になりそうだった。悪い事をしているわけでも必要外に残酷なことを言うつもりもなかったが、自分の心そのものが偏見にまみれ鬱屈しているのを勢い任せで曝け出してしまいそうな気がして、言葉を捨てた。
「まぁ、うん。お前のことだからな。外野として黙っとくわ」
物分かりよくうなずき、
「でもさ、一度でいいから会わせてくれよ」
そういった池谷は朝一とは思えないほど空元気に溢れていて、充血した瞳と乱れた前髪を見つめ、佑人は言いようのない疲れを感じたまま、ゆっくりと頷いた。
一週間もすれば、梨香は佐川家にすっかりなじんだようで、佑人が迎えに行くと小百合の手伝いに夢中になっていた。それでも佑人の姿を見るなり破顔してこちらに駆け寄る姿は何とも可愛らしく、佑人の欠落した感情にすんなりと入り込んできた。
玄関先で佑人に話しかけようとする梨香の後ろで、佐川が僅かに目で合図をしてきた。佑人は梨香に、小百合の手伝いを続けるよう促し、佐川に続いて彼の書斎に入った。
「佑人君に全部言ってもきっと許容量を超えてしまうから、簡単に説明するね」
佑人が座る前にさくさくと歯切れよく話し出した佐川は、僅かに時計を気にしていた。
「まず、基本的な話なんだけど、アンドロイドは種類別に特化した能力が違うのはなんとなく知ってるよね?」
「はい。うちで働いているアンドロイドも、力のあるタイプと能力を持つタイプで種類別に業務が変わってます」
うん、と佐川は軽い相槌を打った。
「まさにそういう事。従事する業務ごとに能力の配分を変えているんだ。例えば」
佐川は用意していた白い紙に、十字になっている散布図を描いた。縦軸には知能、横軸に腕力と書く。
「おそらくわかるだろうから細かいことは説明しないけれど、知能系が高い者、要するにAIの搭載された型のことだけど、それらは基本的にバックオフィスを担当している。逆に腕力があるものは、労働の現場に出ている」
四種に分けられた系統のうち、左上と右下をバックオフィスや現場などという単語で埋めた。
「このAIも、度合いが違うんだ。最近はあまり許容されなくなってきたけれど、TG型は昔主流だった。あくまで人間が操作をすること前提だった時は正確であれば正確であるほどいいという風潮だったんだけど、共存となればそうはいかない。TG型はその名の通り、トップジーニアス。天才ってことだね。もちろん、バランスを取って必要となる現場に合わせて知能や腕力の配合はしているよ。完全にバックオフィスでいいものは人型ですらないからね。問題は、ここ」
そう言って、右上の部分に大きな丸を書いた。
「ここに入るのが、いわゆるヒューマロイド。どれも平均的に、人並みに。でも、そこで終わらないのがモノづくりの欠点だ」
佐川は別のところに、新たな軸を書いた。今度は喜怒哀楽のパワーバランスの表だった。
「感情を学ばせたんだ。業界の言葉ではFE型と言われている。知能の一種ではあるんだけど、これが想定外に正確で理想的だったから、社会もあっさり受け入れた。大体のアンドロイドが人とほぼ同等にする目的だったから、感情の調整はしなかった。ただ、野沢は実に厄介なことをした」
三色のボールペンの色を変え、赤のインクで梨香と書かれた。描かれた四角形は、歪な台形をしていた。それをペン先でとんとんと叩きながら、佐川は佑人を一瞥した。
「梨香の感情バロメーターは、こうなってるんだ。PFE型。喜怒哀楽、本当なら小さな正方形を作るべきなのに、梨香のは喜と楽の部分だけ大きく感じるように、怒と楽の部分は控えめにしか感じられない設定だったんだ」
言われて腑に落ちる部分はあった。梨香の無垢さやコントロールされた感情には、子供特有の扱い辛さはなかった。先週も、駅近くのファミレスで夕食にした際に、梨香の成長に目を見張った。まだ好きな食べ物や嫌いな食べ物の定義もままならない彼女だが、食事を楽しい場だという認識は既にあるらしく、特に外食の特別感を好んでいた。食事のレパートリーなどほとんどない佑人としても外食は楽な手段で、何度か連れて行っていたが、ファミレスなどの家族連れが多い場所に行けば、梨香と同じくらいの子供が親の手を煩わせている場面にはよく遭遇する。既に外に出しても困らない程度に常識とマナーを身に着けた梨香はむしろ可愛らしさと上品さで周りの大人の目を引くレベルだった。箸やスプーンの使い方も美しければ、食べながらティッシュで口元を拭ったり端から丁寧に食べ勧める姿だったりは、下手をすれば雑な大人よりも上品だ。隣に座っていたのは梨香と同じくらいの男の子とそれより一、二歳しか変わらないだろう男の子で、二人とともサッカーのユニフォームを着ていた。入ってきた時から有り余った元気で騒いでいたが、やがて二人で競うようにドリンクバーに駆けていった。見送った母親は軽いため息をついてから、
「うるさくなってしまったらごめんなさい」
と話しかけられた。前菜用のスープをすすっていた佑人は顔の前で手を振り、
「気になさらないでください。よくわかりますから」
彼女が佑人よりもずっと年上なのは、お互い理解できた。微かにほほ笑んで梨香を見つめ、いい子ねと呟いた。
「上品な子ね。うちも、こういう子も欲しかったわ」
そう言って目を細めた。褒められたことを空気で察した梨香はにっこりと笑顔を向け、その笑顔に無邪気さと共に確かに品があるなと思った。
その後、帰ってきた兄弟のグラスの色ときたら、禍々しい色合いをしていて、子供の時にやったなと思い出して笑ってしまった。気付いたお兄ちゃんがこちらを見て、おいしいよと配分を教えてくれた矢先に、弟君が見事にジュースのカップを倒した。それはもう、騒がしさといったらなかったが、佑人が拭くのを手伝っている間に梨香は大人びた仕草でスープを平らげ、お子様セットのオムレツをつついていた。
そうだ、梨香は感情面でも大分大人びていたが、それだって当然昌弘の設計なのだ。
「野沢の意図はわからないけれど、やりたかったことは理解できる。ただ、少し不安な面といえば、こんな型は世に出回っていない」
都合のいい型だなとまず思った自分に、佑人は後悔していた。この子を可愛いと思った自分の気持ちすら、もしかしたら計算された結果ではないかと思うのはひどく不安なことだった。たとえどんなに手がかかったとしても、梨香への感情が今と変わらないと、佑人はまるで自分に言い聞かせるように復唱した。
その日の帰り道、佑人はまだ少し困惑を隠せないでいた。想定の範囲内だった梨香の設計に、それでも決定打を打たれると、訳が違う。心臓の底に不安を沈めていたはずなのに、不意に浮かび上がる感覚はまるでジェットコースターの落下の瞬間の、体内の乱れのようだった。佑人はジェットコースターはあまり得意ではない。高いところは得意でそれこそ東京タワーの上階でガラス床の上をジャンプすることもできるが、本当に落ちるのは苦手だった。落下する瞬間の、内臓の位置がずれる様な感覚は、何度経験しても慣れない。
佑人の口数の少なさが伝わったのか、梨香もあまりしゃべらなかったが、それでも佑人の歩みに近づけようと小さな歩幅で懸命に歩く姿はほほえましい。落とした目線に梨香の、ピンクと白のスニーカーが目に入り、佑人は冷静になった。
「公園に行ってみる?」
つないだ手に緩やかに沿った指を握り直し、佑人は尋ねた。顔をあげた先にある公園に、梨香が以前から興味を示していたのは知っていた。子供たちは既に帰った時間帯に人の少ない公園脇を通ると、ちょっとしたノスタルジーを感じる。今ここを独り占めさせることに何も問題はないだろう。ひっそりとした夕暮れの公園に置き去りにされた遊具をこんなにも羨望の眼差しで見つめられたら、正直感情が読めてしまう。それはきっと、大人の使命なのだろう。
ぱっと表情を明るくした梨香と共に、佑人は久しぶりに公園に足を踏み入れた。幾度どなく見てきた、もうすでに当たり前となっている景色の一つだった公園に、新しい記憶が刻まれる感覚を感じる。家から歩いて十分もしない公園で遊んだ記憶は、当然数限りなくある。しかし、ここで家族と過ごした記憶はあまりに薄かった。自分にとって小学校時代を長く過ごした記憶はあるのに、父の気配も母の匂いもない。
滑り台を一緒に滑り、ブランコを後ろから押し、鉄棒の前回りを補助し、雲梯は支えたままゴールを目指した。経験した梨香が、ひとつひとつに感動していく様は見ていて愉快なほどだった。胸がすく思いで彼女の軽い体重を支える。最後にシーソーの端に座らせ、自分が反対側に行ったことに梨香は不審な顔をする。
「手を離しちゃだめだよ」
向かい合ってそう忠告すると、彼女は生真面目な顔で頷いた。その真剣さに笑いながら、佑人はゆっくりとシーソーを動かす。あまりに軽い梨香を勢いで揺らしてしまわないようにと慎重に屈伸すると、梨香はその動きにびっくりしたように目を丸くし、やがて嬉しそうに笑った。
昼休みに食堂で池谷と落ち合って食事をした。混雑した食堂は見舞客だの入居者だのが一堂に介すせいで普段同様に落ち着かない騒がしさだったが、間を縫うようにして、今週末に池谷が遊びに来るところまで約束を取り交わした。
「お土産とかあったほうがいい?」
切れ長の瞳がいたずらに崩れたのを見て、存外楽し気な彼に佑人は不思議な気持ちがした。冷静な頭の隅で、確かに人ごとだと考えたときの梨香は限りなく可愛らしい。先ほど見せた写真を横目に見て、佑人は好きにしろと言った。
その後も二人で唐揚げ定食を食べながらくだらない会話をしていると、焦った顔をした池谷の上司が現れて耳打ちをし、食事途中の池谷を連れ去った。
「唐揚げ食べていいから、悪い、片付けてくれ」
そう言い残した池谷を手で追い払うように行かせ、ほとんど手を付けていない定食の残りに、定食の方が気の毒に見えた。当然二食分も食べられることもなく、自分の分だけを何とか食べきった佑人は二度にわたって食器を下げ、食堂を出た。廊下も同様に騒がしいことにいら立つように、足早に別館に移動した。
外の空気でも吸ってこようと裏口を出ると、水原がタバコを吸っていた。すぐに気づいた彼女はまだ火をつけてそう時間がたっていないだろうタバコを携帯灰皿に押し付けた。
「すみません。普段ここに人、来ないから」
一応喫煙所があるため、禁煙ではないものの少々居心地悪そうに目を逸らし戸惑ったようにそう言った彼女を一瞥し、タバコをくゆらす姿は初めて見たと思った。彼女が休み時間や空き時間にタバコを吸っているのは匂いでなんとなく知っていたけれど、実際に吸っている姿を見たことはなかった。想像以上に似合わない。タバコというものはもっとおいしそうに吸うか、もっと疲れた顔をした人が吸うものだとばかり思っていた。まるで義務の様に煙を吐く水原の顔には表情がなく、感情が置き去りにされているようだった。
「いえ、こちらこそ、邪魔してすみません。どきますから」
そう言って及び腰になった佑人を水原は目で制してきた。切れ長でアイラインだけ強く引いた瞳は、彼女の強靭さをよく表している。
「ここで、いつも吸ってるんですか?」
仕方なく佑人は当たり障りない質問をする。背中を付けた壁がまだひんやりと冷たく、朝の早さを感じさせる。
「基本は喫煙所で。ただ、偶に、風がある日なんかはここに来ちゃうんですよね。普段は誰も寄り付かないから、驚きました」
それもそのはずだ。すぐ隣が大きなゴミ捨て場であるため、季節や時期によっては空気が悪くなる。そもそも従業員の大半がアンドロイドなのだから、気分転換だの空気を吸いたいだの一人になりたいだの、言い出さない。
「吸って大丈夫ですよ」
物足りなそうに指先をすり合わせている水原に言うと、彼女は逡巡してから、
「タバコ、平気ですか?」
と尋ねてきた。
「自分は吸わないし吸ったこともないですけど、父の工場はいつもタバコの匂いがしてましたから」
それに口にはしないけれど、水原が吸っているのは男物で、池谷が愛用しているタバコの匂いとよく似ている。いわば、気に障ることもない慣れた匂いだった。しかしなぜ男物なのかなど、佑人は聞かない。如何せん、水原には男物が似合いすぎる。
佑人の言葉に水原は安堵したように微かに笑い、タバコに火をつけた。その時の指先の柔らかな動きにふと見とれ、そんな自分が異常に恥ずかしい。
「香らせようと、どんなに素敵な香水を振りまいたところで意外と香らないものなのに、好きで吸ってるだけのタバコの匂いはいつまでも残って疎まれてしまうんですよね」
青空に向けて、白い煙は棚引き消えていく。細く、長く、美しく消えていく。水原の独り言も、救いあげる間もなく水原自身の唇で消される。
「野沢さん、何かいいことありました?」
不意に指摘され、返答に困った。とてもいいことなどありはしないはずなのに、平坦で地味な日常とは対照的なここ何週を、佑人は何処かで甘受していた。しかし、そうと指摘されるまで表出させている自覚はなかった。
「どうでしょうか」
そうと見えるのなら本望かもしれないと、佑人は何処かで考える。自分を幸せな人間だとはさらさら思わないからこそ、他人の目に映る自分が幸せであることはこの上なく愉悦に感じる。不幸がられるよりは幸福に見られたい。こんなにも幸せなのだと欺けるのならば、己の不幸は他人に見えないだけの価値があるのだ。
「失礼なことを言っていたら、すみません」
言いたいことの意図がつかめずに思わず彼女を見ると、人差し指と中指に挟んだたばこの紫煙に隠れ表情の薄い水原と目が合った。今日も細身のパンツスタイルと、やはり飾りのないサマーブルーのシャツ。服装だけは夏を先取りしているけれど、彼女表情にはいつもどこか憂いがある。身長もさほど変わらないせいで、目線からは逃げようもない。彼女の目線を冷たいというのは簡単だけれど、彼女の冷たさは彼女の内側にあるように感じるのだ。彼女自身の持つ薄暗さ。彼女の中途採用の最終面接に、佑人は責任者や人事の人に紛れ同席した。美人で、元公務員で、学歴も申し分なくて、こんなところで働く器じゃないと誰もが思っていたけれど、だからこそ上層部は取り込もうと必死だったし、あんなものは面接ではなく囲い込みだったと第三者として臨んだ佑人は理解している。転がり込んだ上玉を、それこそ人柄など二の次で頭の回転の速い人間を欲していた上層部が逃したくない気持ちは佑人にもわかったし、そういう色の会社だからこそ自分が採用されたことも知っている。だから、何も言えなかった。でも、佑人は忘れない。切れ長でクールな目元の奥で、まるで睨み付けるかのように光のなかった瞳。要領のいい回答の裏に見えた辛辣な世界観。採用の確約を貰ったというのに全く笑っていなかった口元。あぁ、この人の奥深くに眠らせた世界はきっと曇天続きで、世界の色を塗り替えたいという気持ちすら薄れているのだろうと感じていた。共に仕事をするようになってから、その直感はただただ確信に変わった。
この人のほころぶような顔を見てみたいと、佑人は愚直にも考える。この人が他人の幸せに敏感なのは、自分の不幸に自覚があるからだ。ふとした時に表情の強張る横顔を見つける度に、この人は不幸に生きるような人間ではないと感じ、直感的に救えそうな隙をいくつも感じた。しかし、手を差し伸べる方法などわからずに見つめる彼女の仕草がただただ美しく、佑人は戸惑ってしまう。儚さなど語るものではないけれど、彼女の弱さは彼女の強靭さによってぎりぎりのラインで支えられている。危うくて怖いのに完璧な均衡を保っているそれを、自分の不用意な気遣いで壊してしまうことは怖く、かといってこのままで救われるものだろうかと客観的に目を眇める自分がいる。変わらないということは救いがないということだ。薄暗さばかり残った自分の過去をほんの少し振り返り、振り返ることを後ろ向きだと否定されることにすら取り残された自分がいた。
その日の仕事終わり、会社を出てバスに乗ったとき、外の景色はまだ明るさに満ちていた。夕焼けの奥にこれから暮れるだろう夜空の気配を感じながら、オレンジの日差しが低く世界を照らす。夕焼けは安心感をくれる色だ、と佑人は思った。空を見上げて何かを感じ取るような感性は持っていないと思っているものの、これだけ温かな朱とも赤ともとれるオレンジには、少しばかり見とれる。切り取って仕舞うのとは違う、ほんの一瞬ばかり目線を奪ってくれるような明るさだ。
駅前ロータリーで電子カードをかざし混雑したバスを降りたところで、一度携帯を確認する。梨香を迎えに行く時間を、佐川に連絡しようと考えた。せめてものお礼として、迎えついでにスーパーなどの買い物で、年をそれなりに取った二人の代わりに若い労働力を提供することが日課になりつつある。とはいえ、職場でアンドロイドの腕力を見る度に自分の非力を自覚しているせいか、二人に大袈裟に感謝されることで自分の男としての矜持を守るための行為でもあった。
慣れた操作でつけた携帯電話に、佑人はさっと青ざめる。水原からの連絡が、何件も入っていた。佑人は何を確認するより先に、駅のロータリーに並びなおした。どう考えてもトラブルだった。むしろ、水原からの連絡でそれ以外ならどんなにいいかと思うことで、慌てて気が急いている自分を冷静にさせる。
職場に戻ったとき、一瞬確認した時計のさした時刻に内心でため息をこぼした。職場は丁度夜勤職員との入れ替えの時間で従業員の数は多かったが、忙殺される時間帯でもあるため事務所の人の出入りが激しい。そのわきで深刻そうな水原と広田が目に入り、佑人は近付き、お疲れ様ですと少し声を明るくした。
「どうしましたか?」
水原がじっとこちらを見てくるのを敢えて無視して、広田に尋ねる。
「野沢君ごめんね、帰ってたのに」
「いえ、お構いなく」
佑人が完全な独り身になっていることを知っている広田は一瞬、気の毒そうな顔を見せた。佑人はそれが見れただけで満足した自分を、底意地が悪いと感じた。
「実は、先週かな。アンドロイド2246が、306号室の小林さんの部屋に飾ってあった花瓶を割ってしまったんだ。割ってしまったことも問題なんだけど、その花瓶の欠片を小林さんご本人が触ってしまって、指先をちょっと怪我させてしまってね」
話しながら広田は苦い顔をしたが、その程度のことでという感情が透けて見える。おそらく本当に、その程度のことだったのだろう。
「それを小林さんちの息子さんに連絡を入れたんだけど、ほら、あそこの家近いわりに顔出さないでしょ?そのくせ注文が多いじゃない。そのときは水原さんが対応したんだけど、次の仕事に支障出そうなほど電話口でねちねち言われたんだよね。で、もううんざりだから、怪我が治った報告を経過報告として連絡入れたんだけど、もうメールで平身低頭に行こうってことになったんだ。それをアンドロイド673にさせたんだけど、このメールがまた相手方の気に入らないものになっててね」
アンドロイドのナンバーが三桁の物には、FE型の証であり、人間に近い感情を感知する能力がある。成長型のアンドロイドの必需品だが、ここでも入居者の方の話し相手として利用されている。
ここでの仕事が長い佑人からすれば、またかと言いたくなるありがちな事態ではあるが、最後に送ったというメールを確認し、流石に顔を歪めた。隣で冷静を装っていた水原の泳いだ目線に、思わず同情する。
「これはまぁ、立場上怒られますね」
今回のトラブルに置いて、こちらの過失は薄かった。その事実は広田の説明からよく理解できたが、それを謝罪メールで匂わせる社会人はいない。こちらがあくまでサービス業である以上、どんなに不条理なトラブルでも頭を下げるのが鉄則だ。どんなに理不尽であっても。佑人は流れるように零しそうになったため息を、咳で誤魔化した。
「この謝罪文考えたのは誰ですか?」
水原はか細い声で、私が指示しましたと言った。
「どこまで言ったの?」
「具体的な指示は出してません。ただ、あなたが悪いわけではないよって、今回のは仕方ないトラブルだからあまり気にしないでね、と言いました」
謝罪メールづくりという気の病む仕事をあてがわれた相手を気遣ったが故に、それを自社を守る発言と取られたという所か。
水原は歯切れ悪く、目線を落としたままだった。相当、きているようだ。思い返せば、水原からトラブル関係で頼られたのはこれが初めてだ。それこそ仕事のやり方や細々した問題で頼られたり質問されたりはよくあることだったが、今までにこのレベルの問題は起こしてこなかった。彼女の優秀さでもあり、危機管理の強さだったように思う。そんな彼女も、いつもの気丈さはさすがに鳴りをひそめていて、見ていて気の毒だった。あからさまに後悔しているのが見える。優しさが仇になるのが、人間一番堪えるものだ。
「とりあえず、僕から上に伝えておきます」
広田はうなずき、水原が僅かに眉をひそめた。
「私がやります。自分の責任ですから」
「水原さん。そういう問題じゃないよ」
佑人がきっぱり言い切ると、水原はぐっと黙ってうつむいた。
「水原さんはもう上がりな。大丈夫だから」
言いながら、頭の中で報告の連絡を組み立てる。一番、上層部から水原を守る方法。この社会は結果論で、能力主義で、運も実力の内で、そんなの知っているけれど、それは人を俯瞰した時であって、向き合った人間に対してそんな物差しを遣うような人間ではありたくない。
何より。佑人は軽く会釈をして早足に去って行く水原の背を見つめる。何より、水原に人に優しくすることを後悔などして欲しくなかった。アンドロイド相手に優しさを出して結果、その好意を真に受けて自己防衛で謝罪をそっちのけにされたことの原因が水原であってたまるかとも思う。人間には本音と建前があり、便宜上や利害の一致などで立場や発言は大きく変化する。今回の件は事情云々ではなく、淡々と事実を述べたうえで平身低頭に謝罪をし、相手に察してもらわなければならない事案だった。水原はそこまでを前提として、声をかけたのだろう。ただ、水原の勘違いは、アンドロイドの感情なるものは人間に寄せられているだけであり、人間のそれではない。だから、どんなに謝罪メールを打ったとしても気を病むことはないし、言外にある感情論など理解できない。それはアンドロイドの過失なき欠点だった。
結局職場を後にした時には、陽はとうに暮れていて、町中に規則正しく並んだ街灯が白々と輝いていた。暗闇を照らすとも、真下から見上げるには蛍光灯は眩しすぎる。佑人は疲れに硬くなった身体をほぐそうと大きく、関節という関節を動かした。港を遠くに見ながら、数が減ってしまったバスを待つことなく歩いて駅に向かう。こんな町はずれの海沿いに老人施設を建てる薄暗さに、不意に嫌気がさすこともある。その点で言えば、昌弘の最期は美しかった。元の職場に生けるレジェンドとして招かれ、そこで苦しむ間もなく散ったという。仕事人間にふさわしい最期じゃないか。
佐川には先ほど、いつになるかわからないことと、折を見て寝かせておいてくださいと連絡を入れた。父同様に仕事人間だった佐川が、その一言で佑人が置かれた口にもしたくない立場を察してくれたことだけが救いだった。今の佑人には、事態を説明し梨香のことを思い、二人に丁寧な謝罪をする余裕はなかった。こういう時に自分の不器用さは人のためにならないと自覚する。
人通りのほとんどない歩道を、佑人は早くも遅くもない速度で歩いた。早く梨香を迎えに行かなければならないという思いと、この時間になったならば急いだところで大差ない、という不貞腐れる様な諦観もあった。
イヤホンもせずに歩いていると、自分の静かな足音が妙に規則正しく感じられる。風の吹かない季節は、不意に孤独を感じるほど静かな間ができる。学生時代から外でも家でも手放さずにいたイヤホンは、自分の年齢が上がるごとに製品の質も上がり、値段も上がっていったものをその場に合わせて買っては一人の世界に浸っていた。外にいるときはともかく、家にいるときでさえ手放すことはなかった。自分の好きな音楽や、見ているテレビ番組や映画、やっているゲームを父親にはひた隠しにしていた。理由らしい理由はないものの、あのときの内向性は何処かに排他的な感情よりも、秘匿性に満ちていた気がする。そして、それは今に通ずるものがある。
しかし、梨香が来てから、佑人はほとんど自分の時間を過ごせていない。彼女が起きている時間は常に隣にいるように心がけ、彼女が寝てからも煩雑な作業に追われてるが、佑人は自分でも不思議なほどその日常に不満がない。好きだったテレビも、音楽も、ゲームも、好きなつもりでいただけなのだろうか。結局のところ、自分の情熱のはけ口にあてがわれたそれらしい趣味の一つであっただけなのだとしたら、あのときの熱意は防衛本能だったということか。何かが好きな自分が、その何かには肯定されているという、悪意のない自負心と身勝手な自浄作用。
前から歩いてきた女子学生の集団が道幅いっぱいに広がっていて、佑人はそれを避けるように端に寄って彼女たちが通り過ぎるのを待った。星の少ない空に似つかない、甲高く遠慮のない声。似たり寄ったり、露出多めのファッション。すれ違ってもなお聞こえてくる脈絡のない会話は、今話題のアイドルについてのようだ。
それでも、何かに興味を向けることで一日を大切に生きてきた気もする。あっさりと興味を失ったゲームもクリア出来たときは一人悦に入り、テレビ番組を楽しみに乗り切った一週間もあった。意味もなく傷ついてばかりだった時期には、メロディーに乗ったワンフレーズを心に前を向いてきた。
その情熱に変わるものを、何処かで探していた。
結局、佐川の家に着いたのは十時もとうに回った時間だった。彼女は佐川家の真っ白いソファーで眠っていた。柔らかなソファに全身を投げ出しても前後にある余裕を見ると、小さな少女という現実がよくわかる。掛けられたブランケットから僅かに覗く手も驚くほど小さい。自分にもこんなに小さな時代があったのだろうかと考えて、それは無条件の愛らしさになっていただろうかと考えた。
「さっきまで、佑人君を待っていたんだけどね」
梨香が寝そべってもソファの端に腰かけていた佐川は新聞を片手にそう言って、梨香を見下ろす。片手で持てるほど薄い夕刊がソファや服に擦れる軽い音に、懐かしさを覚えた。父が亡くなってすぐ、佑人は新聞を取らなくなった。元々、父親しか読んでいなかった。最大限に避けてはいたものの、時に二人で静かな食卓を囲むことがあった。そんなとき、不機嫌に箸を進める佑人に、父親は新聞から得た知識を、社会情勢を、さりげなく教えてくれていた。今になって、聞き流していたあれこれがどれほど自分の知見を広めていてくれていたかを悟る。父を亡くし、自分は失ったものが多すぎる。
「急に電池切れを起こしたよ」
アンドロイドが睡眠を取るというと違和感があるが、要するにスリープモードのことで、その間に食事や水分補給で得た食物や水分を消化するエネルギーを体内に蓄えるという。要するに、人間のメカニズムに最大限寄せているらしい。かつてのアンドロイドが充電式だったのが今では懐かしいほどだ。確かに、家族となったアンドロイドを毎晩コンセントにつなぐのは生育とは言い難いだろう。あくまで彼らは、アンドロイドとしてではなく人間に代わるものでなくてはならない。
「午前中に公園に行って、散々身体を動かしたからね」
小百合はそう笑い、
「佑人くん、ご飯食べていきなさい」
と声をかけてきた。ここまでくると断るほうが不自然な気がして、頷く。出汁のにおいといくつかの鍋や電子レンジ、オーブントースターの稼働音がする中、のっぺりとした寝息を立てる梨香の下に腰かける。額に薄っすら浮かんだ汗に張り付いた前髪をそっと指先で払った。
「お帰りって言いたかったみたいだよ」
出された温かなみそ汁を見ながら、佑人は罪悪感に唇を噛んだ。無理して、何とか佑人が帰ってくるまで目を凝らしていた梨香の姿が目に浮かんでくる。言い訳はいくつも浮かんでくるのに、自分を欺くには足りそうにない。
結局、佑人が夕食を貰い終わっても梨香は起きなかった。仕方なく、完全に睡眠に入った梨香を背負って帰宅することにした。泊って行けばいいという佐川の言葉をやんわりと否定したのは、その温かさに耐えられそうになかったからだ。自分以外にたくさんの人間を間近に感じ、その愛情が自分に向いているこの状況はあまりに不自然な気がした。すぐに終わるものに傾けすぎた愛情は、自分の心をも傾け、やがて自力では立てなくなってしまう。
背負った梨香の重みと温かさ。柔らかな肌。誰にも隠す必要のない滑らかさ。数週間前では考えられなかったが、それでも、驚くほどに自分に馴染んできている。どんなに手がかかっても、孤独な少女の隣は日常の一部でしかない気がする。
朝の満員電車が嘘の様に人の少ない電車の窓際で、佑人は慣れた揺れに逆らわずに身体を預ける。遠心力にうまく乗れれば、強く踏ん張るよりも安定して立っていられる。車内の明かりで白く反射した窓をぼんやり眺めていると、不意に隣に移動してきた、軽い酔っぱらいのおじさんに声をかけられた。
「ちゃんと子育てに参加するなんて、兄ちゃん若いのに偉いな」
佑人より二十程年上だろうか。僅かに赤い頬をし、おそらくそのせいで気が大きくなったようで、彼の声はそれなりのボリュームで人のまばらな車内の平和な空気を悪意なくかき混ぜる。
初めはどんないちゃもんを付けられるのかと構えた佑人だが、好意的に見られた自分の姿を電車の窓ガラスで見て、ふっと息が漏れた。なるほど、梨香を背負う自分は人様から賞賛を受けるものらしい。
「しっかし、似てないね。美少女だ」
彼の言葉があまりに本能的で、佑人は思わず笑ってしまいそうだった。似ていないのは当然で、美少女という言葉がお世辞でないことは客観視しても余りあるほど理解できる。しかし、それはむしろ、梨香がアンドロイドだと認めている気がしてならない。寸分の狂いなく創られたこの子の容姿が、この子の最も優れた部分であるというのなら、それはあまりに悲しい気がする。
「嫁似かい?」
今度は本当に笑ってしまった。説明できないことにそれらしい理由を見つけるなんて、子供時代の言い訳のようだ。
「突然変異ですね」
佑人が言うと、おじさんは豪快な笑い声を残し、佑人の家の二駅前で降りて行った。愉快すぎたせいか嫌悪感が一切なく、むしろ悩んでいたことが馬鹿らしくなるくらいだった。
おじさんを見送ったところで、梨香が目を覚ました。
「佑人君」
梨香はそう呟いて、もう一度寝ぼけたまま、佑人君と繰り返す。
「起きちゃった?寝てていいよ」
梨香の身体を支える腕に力を入れ、あやす様に言うと、彼女は佑人の肩に頭をのせ直し、
「おかえり」
と小さな声がして、やがて何も言わなくなった。それでも息遣いから眠っていないことは確かだった。
「ただいま」
佑人もまた、小さく返す。
外で上手にかわし合う言葉はまだ、自分たちにはない。それでいいのだろう。言葉を知らない少女と言葉が苦手な大人が無理に言葉を交換せずとも、お互いが居心地の良さを受け取っている確信があった。




