九章
次の日の朝目が覚めると、妙に頭が冴えている気がした。睡眠時間が足りるだけで、こんなにも身体が軽いものかと感じる。思えば、父は常に仕事で家を空けていた。小学生時代、佑人が目覚める前に家を出て行き、佑人が寝てからの帰宅だった。睡眠時間などほとんどなかったのではないだろうかとぼんやり考え、自分との関係性が希薄だったことはむしろ当然の結果だったのだろうという結論に至った。
幸せだったのだろうかと、考える。結果的に言えば、仕事ばかりしている人だった。死に処まで職場だったのは宿命だったとすら思う。専門にして得意分野で働けたことはきっと幸運なことだっただろうが、仕事中心の生活は、家族との関係よりも仕事に重きを置いた生活は、あの人にどんな幸福をもたらしたのだろう。間違いなく佑人自身よりも社会的価値は高かったんだろうなと思うと僅かに苦しい胸の内もあるけれど、一方で、評価され多くを稼ぎ、名誉があったとしても、今自分が持っている幸せをおそらくあの人は知らない。
隣で眠る梨香の肩に布団をかけなおし、佑人はそっと立ち上がった。昨晩、梨香は佑人と離れて眠るのを酷く拒んだ。佑人が仕事でいないときに離れているのは理解できるのだが、近くにいるはずなのに距離を取られるのがどうしても我慢ならなかったらしい。水原が帰ってから、どことなく不機嫌な言動を見せ、最終的に同じ布団に入ることを望んだ。
可愛いという言葉で、人間はどこまでを許せるのだろう。不規則な生活で浮腫んだ顔を冷水で洗うと、脳の奥まで覚醒するようだった。
梨香と暮らし始めてから、自分の生活は思いがけず彼女を中心とすることになった。突然の決定に戸惑いが大きすぎて前向きになど考えられなかった中で、そのくせ彼女に笑いかけられる度に手放すのが惜しくなった。
認められたかった。自分が生きている理由を、認めてくれる何かが、誰かが、欲しかった。そのくせ臆病だから、自分から求める術はわからなかった。
水原が昨日の帰り際に言った。
「梨香ちゃんといると、今の自分を認められるし、生きていていいんだって思える。そして、先生時代、こんな幸せが自分にもあったんだって思い出せるんです。たとえ先生なんか向いてなかったとしたって、こんな風に子供たちと笑い合えた時間が確かにあったことを、それ自体を後悔なんかしない」
強いなと、佑人は思った。水原の発言は、何処か腰が引けていて強気な面などなく、一般的な意味で強いとは言わないのだろう。でも、強いと感じた。ただ強靭なだけではいづれ壊れるものだと知っているから、彼女の堅実で冷静な言葉に、佑人は自分の弱さを重ねてみた。確かに、憧れと共感性のバランスこそ、人間関係で最も大切な部分だ。
「また来てくれます?」
佑人はパーカーのポケットに親指だけ入れながらきいた。想像よりも、自分が緊張していないことが不思議だった。熱のおかげか、熱のせいか。
水原は軽く微笑んだ。塗り直したのだろう口紅の抑えた色合いが、薄暗い玄関でも妖艶に映る。
「是非」
玄関から半身だけだし、彼女を見送った。ピンヒールを履きならし颯爽と去っていく後ろ姿を眺めながら、女性的な魅力があるというだけで彼女を十分幸せそうだと思った昔の自分を少し、恥じた。中学時代、新しく出たゲームを誰よりも早く買ってもらった際に羨んだ友人から、母親のせいで買ってもらえないと、佑人に母がいないことを利点のように言われ苦しんだ過去すら、何処かで忘れていた。オレはゲームよりも母親に戻ってきて欲しい、なんて言えず、あれ以来趣味にしてきたゲームだって、梨香にはかなわない。
冷蔵庫を開けると、いくつかのタッパーに作り置きがあった。ざっくばらんに切られて味付けされた野菜の小さなタッパーがいくつも並んでいた。一糸乱れぬ並びの几帳面さとは対照的に、種類豊富な野菜たちは色鮮やかで賑やかにすら見えた。
まだ擦れた声で小さく謳いながら、佑人はそれらを少しづつフライパンに移し、冷凍庫に保存していた米と一緒に炒める。良く晴れた秋空にふさわしい軽快でノスタルジックな歌が、フライパンの上で弾ける野菜の音にかき消された。
秋の長期休みを遣って、佑人は梨香に学習机を買った。教科書類が増え、遣い終えたノートや、買い与えた本などがリビングの端に肩身狭そうに並んでいるのを見て、その昔に自分が使っていた机を思い出した。引き出しの多い、子供向けに造られた机の角の丸さを、今でも覚えている。厚塗りされたニスの感触も、それをカッターで削って怒られたことも。
梨香に物欲というものがない。可愛いものに目を輝かせたり、好きな食べ物がないわけではないが、どうしたい、何が欲しいの感情を自ら見せることはない。それはアンドロイドの性質なのか、梨香の性格なのかを判断する術が、佑人にはなかった。
机を買うのはいいとして、置き場所が問題だった。更に言えば、夏休みに池谷と共に一気に完成させたブロックのお城も、大そう場所を取っている。一階の寝室とリビングのどちらにも場所がないわけではないが、部屋としての機能を考えたときに、二階の一室を与えるのが妥当だろう。佑人の部屋の他には、昌弘が使っていた角部屋と、ほぼ荷物置き場と化した、押し入れのある一番広い部屋。その昔、両親の寝室だった。そういえば、父は母をなくして以来、あの部屋で寝ていなかった。あの小さな角部屋に無理やり布団を敷いて、夜を過ごしていたのだ。
佑人は荷物部屋を梨香用に空けようと片づけを始めた。既にクーラーの必要性がなくなった秋風を、大きめの窓から取り込む。荷物置き場にしていたせいで知らなかったけれど、ここからの景色は悪くない。庭を見下ろせる部屋、というのは幸せの象徴かもしれない。当然の様に閑散とした花壇に、来年の春に向けて梨香と何か植えてみようか。窓枠から身体を乗り出し、佑人はそんなことを考えた。梨香の育てていた朝顔からも、種が取れるはずだ。名前も知らない花をただ綺麗だという理由だけで、園芸コーナーで、上手に咲かせられるかはわからないけれど。
母が整理したまま互いに触らずにいた大きなタンスや本棚は当然乱れてはいないのだけれど、年季の入った埃が一枚どころか何重にも層を作り上げている。遠目で見ても、少し心が引けた。父の部屋の片づけをした時とは違う。触れたら壊れそうな気持ちに、佑人は少し目を閉じた。埃にすら守られていたい、触れたくない思い出があった。
着替えと軍手に手間取っていた梨香が、ひょっこりと顔を出す。朝ごはん中、今日は片付けをすると告げた所、手伝いを名乗り出た。汚いからいいよとやんわりと断ったのだが、佑人の引き目のある口調には強気に出ることをすっかり身に着けた梨香は、むっとした表情でやると言い張った。ああなると、もう勝ち目はない。あの気の強さ、そうと決めたら頑固なところには、きっと、母の姿が投影されている。最後まで価値観は合わず気持ちを重ね合わせることが出来なかった父だが、母への感情だけは似通っていた自覚がある。
「着替えたよ」
汚れてもいい服を着せようとしたところ、彼女の持っている服は当然どれも小奇麗で、とても掃除には向かない。諦めて、部屋着に買ったワンピースを着させた。ジャージ生地で伸びがよく、デザイン性は低いが実用性は大人物でもお墨付きだ。
「やめたくなったら、辞めていいからね」
佑人が言うと、梨香はピンク色したキャラクターデザインのマスク越しに、はーいと元気よく返事をした。
午前中は佑人が本や書類を分類し、手元に残すものは梨香が空雑巾で埃を拭うの繰り返しだった。大きなゴミ袋がみるみる埋まっていくのを見ながら、やっと踏ん切りがついてよかったと感じる。母の趣味だったフェルトの本だとか、裁縫のセットなんて、到底使い道がない。いづれ片付けなければいけないという思いは父にも佑人にもあったけれど、あと一つ勇気がなかった。
昼時に、鉄板を引っ張り出して焼きそばを作った。目の前で焼き色ついていく焼きそばに、梨香は妙にはしゃぎ、のせた半熟の目玉焼きの黄身を興味深そうに潰していた。
午後は、押し入れの中を掃除した。食後はさすがに飽きるだろうと思っていた梨香だが、思いの外楽しそうに手を動かすので、そのまま一緒に片づけをつづけた。隣でちょこまかと動く梨香を気にしていると、的外れな感傷の入る隙間がなくなる。押し入れの手前には母の服やカバンなども出てきて、如何にパンドラの箱となっていたかを悟る。そもそも片付けの苦手な父が、研究以外眼中になかった父が、押し入れを片付けようなどと考えるわけもなかったのだから、いずれにしても佑人の仕事だった。
手前に砦の様に積まれていた母の荷物を一気にゴミ袋に詰める。母の服を見ては可愛いと笑う梨香の無邪気さが、今は少し痛かった。
こんな痛みは経験しなければ知りようがなく、だからと言って知らなくていいのなら知らない方が幸せだ。誰かにこの不幸を持ってほしいわけじゃないし、同じ痛みを持ったところで重なる感情ばかりではないのだろう。水原の、無理やり作った笑顔を思い出す。人の心に同じものを求めるリスクに、人は思いの外に気が付けない。安易に人を信用してしまうから、裏切られたわけでもないのに被害者意識に苛まれ、傷つけようともしていない人の態度を深読みして傷つく。まるで傷つくきっかけを粗探しでもしてるように。母を失ったことを理由に父を蔑ろにしていいはずがなかった。
押し入れから、アルバムのケースを見つけた。自分が生まれたばかりのころから丁寧に纏められた、センスのいいアルバムだ。硬いアルバムの表紙は、布に覆われている。見覚えのあるデザイン。裁縫の上手だった母は、子供の時の日用品はほとんど手作りしてくれていた。これもおよそ、布切れの再利用でつくったのだろう。市販のアルバムに比べ愛情深く映るそれに、佑人は思わず微笑んだ。くすんだ布地に、懐かしさと共に自分が成長したことを知らされた気分だった。
「あ」
アルバムを開いて、思わず声が出た。写真の端に映っていた机に、見覚えがあった。子供用の、丸みの帯びた小さなちゃぶ台。あのちゃぶ台で子供のころ、ぬりえをした。記憶の向こうに置いてきた思い出が引きずり出されると、まるで脳内に何かが咲いたように色鮮やかになった。ぱらぱらと、ページをめくる。どの写真も大抵佑人一人、いつもどこか表情が違くて、着ている服が違くて、成長の姿がありありと見える。子供の成長とは目覚ましいものだ。数ページめくる度に、別人の顔をした自分がいるのは見ていて不思議な気持ちになった。
「なぁに、それ?」
興味深そうに近づいてきた梨香に近くに座るよう促すと、何のためらいもなく佑人の脚の間に身体を滑り込ませた。佑人もまた戸惑うこともなく、肩を抱くようにアルバムを梨香の前で広げる。
「これ、佑人君?」
面影の欠片もないというのに、梨香は尋ねてきた。自分以外の人間がこのアルバムを開いたとすれば、この無邪気な笑顔をした子供は自分ではなくなる気がした。
「そうみたい」
それでも、記憶らしい記憶などないのに、断片的に残っていた微かな記憶が、若かりし母のつけている髪飾りや、幼き自分が着ているセーターを引き金に引きずり出される。まるで正夢に出会ったように、脳裏が晴れ渡った。
「可愛いね」
梨香は顔をこちらに向け、大人ぶった口調で言った。その頭を抱く。シャンプーの香りが強く残った長い髪は柔らかく、艶やかな感触があった。改めて、自分と違う存在だということを強く認識する。
梨香には、子供の時期がなかったのだ。生を受けたときから、彼女は今の姿だった。子供時代などなく、当然思い出せる思い出など持っていない。忘れたくても、覚えていなくても、記憶は確かな軌跡だ。自分が生きていたことを証明してくれる。ここまで決して上手ではなかったけれど、ちゃんと生きてきたんだと自分が思えるだけでも変わってくるものがある。
「梨香の写真も、撮って行こうね」
一歩ずつ、自分たちは歩いていけるだろうか。小さな綻びを守りながら、大きな喪失感に向き合いながら。
アルバムを閉じて、表紙に刺繍された自分の名前をなぞった。目の整った黄色い刺繍。想像よりも柔らかな感触だったそれは、強くこすれば綻び跡形もなくなってしまいそうで、佑人はそっと手を離した。
梨香と夕食をすまして、佑人はひどく満足した気分で食器洗いをしていた。夕食に買ってきた秋刀魚は脂の乗りがよく、梨香が神経質に小骨を抜いている姿は真剣そのもので、昔自分をそうだったと思うと、食事時間が長引いたのも笑い話だ。梨香は風呂に入っている。秋が深まり、温かなお風呂にしっかりと浸かってもらおうと、防水のおもちゃをいくつか風呂場に置いている。梨香本人が選んだのはほとんど知育系で、諺、計算、地理など、彼女の教養を大きく伸ばしている。いつぞやの九九の表はすっかりお役御免だった。きっと、都道府県すべてを言わせれば、佑人よりも早いだろう。佑人自身風呂に入る際に眺めてみるのだが、名産品だの山の名前や川の名前など、はるか昔に忘れ去ったものばかりだった。
リビングでは流しっぱなしにしているバラエティー番組。その昔は、父と一緒に見るのが嫌で遠ざけていた。梨香の幼さと賢さを考えると、彼女にはまだ見せたくないように思っているので、一人になったときの何気ない楽しみにしている。特別好きというわけではないものの、くだらなさやしょうもなさに手放しで笑えるという幸せを与えてくれるのはテレビだった。テレビを通すとたとえどんなに近しい存在の物が出てきてもどこか一線を画すものになり、常識外れや浮世離れも笑ってすますことが出来る。
秋刀魚を焼いた網に、丁寧に洗剤をかける。真っ白い泡が焦げ色を吸い込むのを見ながら、洗剤からすればいい迷惑だろうなどと、よくわからない同情をしてみた。
突然、明るい笑い声と効果音を縫って、緊急速報の音が流れた。心の後ろ側を引っかかれるような音に、佑人は手を軽く洗い、リビングに移動しテレビを見た。
「目黒区でアンドロイドによる所有者殺人事件発生」
佑人は唇を噛んだ。自分の歯が唇に食い込む鋭い痛みに、意識が保たれる。
さっとチャンネルを変え、丁度やっていた報道ニュースを食い入るように見つめる。すり合わせた手のひらに、洗剤のぬめりが残っていて気持ちが悪い。
「先ほど、所有者を殺したと近くの交番に自首したアンドロイドが逮捕されました。警察の話に寄りますと、アンドロイドは二十歳前後の男性型とされ、殺されたのは犯行現場となった目黒区にある住宅に住む八十歳の男性とされております。詳しい動機や事件のいきさつなどはまだわかっておりません。繰り返します…」
空気を入れ替えるようにと開けていた窓から流れる空気に足元が冷やされていく。靴下を履いていない足先の感覚がなくなっていく。
佑人はテレビを消し、力なく携帯電話を手に取った。誰に、何を、どう相談しようか。混乱する頭では考えることが出来ず、ただ妙な胸騒ぎと焦りで、佑人はしゃがみこんでしまった。
何分経っただろう。数秒ほどしてからの感覚が完全に失われていて、足先の痺れに、佑人は座り込む。一度しりもちをつくと、なんだか二度と立ち上がれないような気がした。
とりあえず。佑人は目を閉じ、幾分冷静になった頭で考える。今日はまだ水曜日だが、明日の学校は休ませなければならない。しかし、梨香に事情を話すわけにもいかない。悟られてもダメだし、情報も遮断しなければ。
風呂場から、彼女の鼻歌が聞こえてくる。佑人の好きなバンドの曲を、梨香は数回聞いただけでサビを覚えた。
右手に持っていた携帯電話が光った。池谷からの電話だった。佑人は一瞬目を強く閉じ、通話ボタンをおして電話を耳に当てた。冷たい感触が肌寒さを通り越して伝わる。
「悪い、すぐにでも連絡しようと思ったんだけど。ニュースみたか?」
早口で捲し立てる様な、彼らしからぬ切羽詰まった口調だった。
「あぁ」
「梨香は?」
「今、風呂」
「ニュース見てないか。なら、よかった。わかってると思うけど、自宅待機」
「わかってる」
冷静な彼の口調に、幾分自分も冷静さを取り戻した。あくまでこれは保険をかける行為であり、怖がるようなことじゃないと、冷静に考えようとする自分を自覚する。
「野沢。余計なことは考えるなよ」
「オレはそんなバカじゃない」
そう返したが、今の自分の持つ形容し難い漠然とした不安が、どんな方向に舵を切ったとしても不思議ではない。不自然に冷静な頭で、どんなに冷徹な結末を描いたとしても、誰にも憶測以上のことは言えない。
返事は早かった。
「知ってる。念を押してるんだ」
池谷の口調には普段の余裕がなく、彼の恐れているものの大きさを知る。佑人の言葉を聞いて安心したがっているのは、むしろ彼の方かもしれない。現場から漏れ聞く言葉は大抵歪曲されているから、佑人の方が楽観視できる状況なのだとしたら一層恐ろしい。
「野沢は余計なことは考えず、梨香を傷つけない方法だけを考えればいい」
繰り返される「余計なこと」とは一体何だろう。わかるようで全く分からない、概念的な言葉だ。今の自分にとって余計なこととは何であるのか、選別しかねる。それでも、梨香を傷つけないという言葉が強く残り、ぼんやりと思考を遮る世迷言をかき消した。
「それより、そっちはどうなってる?」
僅かな沈黙ののち、池谷の盛大なため息が聞こえてきた。
「地獄。電話鳴りやまないし、もらい事故にしか思えない。知ってるか、野沢。あのアンドロイド、うちの商品だったんだ」
絶望的な気持ちでいる佑人に、池谷の声はひどく遠いところにあるように感じた。
梨香が、廊下を歩く足音がした。池谷に一言侘びを入れ、佑人はさっと電話を切ってテーブルに裏返しておいた。ドライヤーを片手にリビングに現れた梨香は、当たり前のように佑人の傍に腰を下ろし、ドライヤーを差し出した。
「入浴剤どうだった?」
ドライヤーのコンセントを刺しながら、尋ねる。肩にかけたタオルで毛先を拭っていた梨香は振り向き、
「いい匂いした。おいしそうだった」
と言った。柑橘系の、オレンジ色をした入浴剤は、洗面台の下の戸棚の奥から発見した代物だった。
「飲んじゃだめだよ」
佑人がからかうと、そんなことはしないと、梨香は唇を尖らせた。
ドライヤーのスイッチを入れ、長い髪をタオルでほぐしながら、熱風を当てる。ドライヤーとか掃除機の音は不思議だ、と思う。会話を中断するほどの雑音なのに、やたら生活に馴染んでいる。
消したテレビ画面に映った梨香の表情を見て、佑人は明日のことを考えた。テレビには同じように、硬い表情をした自分が写っている。
「目黒で起きたアンドロイドによる所有者殺人の事件について、専門家のお話を伺いたいと思います」
まさに格好のネタとなってしまった。毎日休みなく繰り返されるワイドショーに、佑人はもう辟易としていた。まるで一方的に降りかかった災害かのように語るけれど、これは人災だ。初めから手を出さなければ受けることのない宿命だというのに、人間は何処かで被害者意識が強すぎる。
テレビ画面に映し出された恰幅のいいスーツ姿の男たちを、佑人はぼんやりと見つめる。梨香を眠らせた後、佑人は自室に戻り電気を消してテレビを見ていた。真っ暗な部屋に明るいテレビ画面と、微かに光るパソコンのボタン。深夜に近い時間の過疎化したテレビはハイエナのように、この事件を面白おかしく脚色している。どこぞの大学の教授だとか、元警察関係者だとか、アンドロイドの設計関係者だとか、立派な経歴と肩書が、むしろなんだかうさん臭い。冷静に事件を語る大人たちに、一個体のアンドロイドとして梨香を語られたら。想像するだけで絶望的な気持ちになった。アンドロイドと人間を分けて、犯罪者の種類的に分類されて、アンドロイドとして分類して、枝分かれしたその先にどれほどの正解が存在するのだろう。殺人の動機も、裏切りの理由も、憎悪の鋭利さも、本質からして数限りないのだ。感情を明確に語れる人間はいないし、それはアンドロイドにもなればもっと、きっと、誠実に暴走するはずだ。
重々しい口調で不安を煽る言葉を、揃いも揃ってよく口にしてくるものだ。アンドロイドが暴走するのは想定内だとか、設計されたものだから人間よりも安全性があるだとか、人間と違って扱いやすいだとか、どいつもこいつも好き勝手なことばかり言いやがる。そもそも、詳しく解説もなにも、犯行者が黙秘を決め込んでいる。三日前に自首した以降、彼は一切言葉を発しないのだという。そんな状況だからこそワイドショーはあれこれ憶測と仮説を立てては時間稼ぎをしているけれど、いくらテレビ局に招かれた肩書きが何を語ろうと、本質には程遠い。
昨晩ニュースで見た、犯人と形容されたアンドロイド。二十代後半、佑人とそう年の変わらなそうな青年だった。何かで顔を隠すことなく真っ直ぐな、そしてどこか物憂げな表情で護送車に乗り込む姿を画面越しで見たとき、佑人は心臓が痛んだ。彫りが深く端正な顔に、梨香の横顔が重なる。周りを囲む警察官より頭一つ高い身長だとか、すっきりとしながら服の上からでもわかる身体つきの良さだとか、非の打ちどころなく整った顔立ちに、世論は身勝手を極めていた。ビジュアルのよいアンドロイドが、所有者である裕福な一人暮らしの老人を睡眠薬で殺害、というショッキングな出来事は世間を大いに賑わせている。もちろん、野次馬的な部分もあれば、これだけ普及し人権あるアンドロイドに対して辛辣な意見も並び、倫理観とか、正義感とか、そういった概念的な物をぶつけい合い、混沌が続いている。いずれにせよ、アンドロイドにとっての風当たりは穏やかではない。
佑人の職場も今、混乱を極めている。社員の半分以上がアンドロイドという状況で、仕事をすること自体困難だった。
「身勝手ですよね」
水原はそう言った。
事件の次の日の朝礼と同時に集められ、一か月ほどアンドロイドを自宅待機させる指示が本社から出たことを伝えられた後、いきなり介護にあたっての実習訓練をさせられた。もちろん入社後に一か月間の現場経験はあるものの、先輩の力を借りながら辛うじて合格を貰ったのとはわけが違う。みっちり、厳しく指導された。普段温和な広田が殺気立っていただけでアルバイトの子は完全に怯んでしまい、佑人や歴の長いパートさんでも、僅かに距離を取っている現状だった。皆疲弊し、世間話をする余裕もなく、休み時間はそれぞれ逃げるように人が散り散りになっていた。佑人は敢えて人のいなくなった事務室で、食欲なくお茶を飲んでいた。そこに一人戻ってきた水原の手には、珍しくオレンジジュースが握られていた。
「力は貸してくれ、だけど支配下でいろって」
水原は今朝から、あまり目を合わせてこない。それは彼女なりの気丈なふるまいであることは知っている。良くも悪くも感情的な人だから、彼女は力の限り怒りを持ち、だけどそれを佑人に向けるわけにもいかずに一人、苛ついているのだ。しかし、それは佑人も同じだった。壁に身体を預け、天井を仰ぐ。陸の孤島に造られてからそう年月の立っていない真っ白い天井は綺麗だけれど、白々しさが多少気味悪い。潔白を示そうと漂白剤で染め上げたようで、じっと見つめていると迫りくるような白さだ。
「もともと、アンドロイドは安全安心であることが大前提ですから」
それがアンドロイドに課された、最大の使命だ。
「そうですけど。でも、彼らはただの機械じゃない。挨拶してくれて、指示を聞いてくれていたじゃないですか」
水原がむっとしたようにこちらを見下ろしてきた。同じように肉体労働に励んでいた彼女の額から、透明な汗が流れている。首筋を伝った汗が蛍光灯の光を僅かに含み、輝いた。
「そんなこと言ったら、携帯だって、車だって、洗濯機だって、こちらの意思通りに操縦するのは簡単だよ。言葉で理解するのかボタンやハンドルで作動させるのか、それだけの違いだよ」
冷静にそう返すと、いよいよ水原の表情が曇った。怒りよりも悲しそうな顔をするから、ちょっと失敗したと思う。
水原の怒りは尤もで、佑人の言っていることはおそらくひどく、他人事目線だった。共に働けば、どんな相手にだって、どんなものにだって、愛着は湧く。それが人型をしていて自分の言葉を理解してくれる存在であったのなら、尚更だった。
「野沢さんは、梨香ちゃんに対しても、そう思うんですか?」
泣かせたくはなかったけれど、水原はもう泣いていた。汗とは違う軌道で零れ落ちた涙は無防備な程透明だった。
「水原さん。梨香とここで働いていたアンドロイドは、全くの別ものなんだ」
佑人は時間をかけて、水原に説明をした。
ここで働いていたアンドロイドの多くはNE型であり、全く感情がなかったこと。梨香がPFE型であり、喜びなどのポジティブな感情は蓄積するが、悲しみなどのネガティブな感情は一切数値化しない特殊型であることを。その昔に自分が佐川にされた話をより簡潔に、説明した。
「そんな隠された設定があったんですね」
話を聞き終えた水原はいささか冷静な声でそう言った。そういう調整を嫌う水原らしい、複雑な表情で。
「でも、だとしたらもっと、野沢さんの行動は矛盾してますね」
「どういうこと?」
「だって、もし本当に梨香ちゃんが負の感情を感じないと思っているのなら、あなたはあんなにも彼女に気遣っていたのはおかしいじゃないですか」
拭った涙の後が薄っすら見えるのが妙に色っぽく見えたの感じたのは、きっと疲労と焦燥感から来る、一時の気の迷いのせいだ。
「本当は気付いているんじゃないですか?なたは、梨香ちゃんをアンドロイドとして接してなんかいなかった。ちゃんと人として向き合って大事にしていた」
水原の表情には安堵したような、優しい雰囲気があって、きっとこの人は自分の性格を疎んだことを後悔しているのだと知った。人に優しくすることで、人を信じることで失った心と行動力は、いずれ治る傷であってほしい。この世のすべての人間を信じてはいけないけれど、この世のすべてを疑って生きるわけにはいかないのも、人間の性質なのだ。
水原に隠していたことがある。
話した内容に一切嘘はない。梨香がPFE型であることも、職場のアンドロイドがNE型であることも当然事実であるし、水原もおそらく察していただろう。梨香の感受性を、彼女も肌で感じていたはずだ。メモリーが梨香はTG型であるのに対し、職場のアンドロイドはNB型であることも、水原は理解していた。
問題は、今回事件を起こした件のアンドロイドがFE型であり、人間同様の感情を蓄積する型だったことだ。現在はFE型は世間でも普及しているが、かのアンドロイドはメモリーカードがTG型、つまり梨香同様に人間を凌駕した頭脳の持ち主なのだ。
そのことを教えてくれたのは、もちろん佐川だ。
事件から二日目の夕方、仕事から帰ると梨香の世話をしてくれていた彼に手招きされ、二人で父の書斎で暗い顔を突き合わせた。梨香はあの日以来当然学校には行かせておらず、外に出してもしものことを考え、佐川と小百合に家まで来てもらっている。梨香は学校に行かないようにと告げた朝、わかったと一言言うにとどめた。てっきり質問攻めをされるとばかり思っていた佑人は拍子抜けし、昨晩散々知恵を絞って考えだした言い訳は喉元で消え去った。そして、梨香が全部理解していることを悟り、佑人は何も言わずに梨香を抱きしめた。
佑人が背中でドアを閉めるなり、佐川が早口で話し始めた。
「あのアンドロイドはFE型で、TG型。要するに、あってはならない組み合わせなんだよ」
意味が分からず、佑人は眉をひそめ、なぜだと目で尋ねる。
FE型でNB型が一番理想なのはわかる。現状生産されているアンドロイドのほとんどがそのカスタマイズがされている。常識的な感情が通じ、平均的な知能を持った存在こそ、この世の平和の象徴だ。人類は一割の天才を活かす為に八割の凡庸な人間がいるのだ。アンドロイドがことごとく一割の天才に割り込んできたりしたら人間の沽券にもかかわる、とは誰も口にはしないけれど、おそらく人類の総意でもある。
しかし、FE型であるのなら、TG型であっても角が立たないのではないか。賢さはありながら人並みの感情を持っていて困ることはない。そう思い聞き返すと、佐川は微かに笑った。皮肉めいたように薄っすら捲れた唇に、佑人は心の後ろ側が寒くなった気がした。
「この型が一番、暴走の可能性が高い」
佐川はゆっくりと、しっかりとした口調で言った。何も言い返してくれるなと言いたげに。なるほど、結論は存外すぐ傍にあるものらしい。太古の昔から本当に賢い人間はすぐにこの世の理不尽に気が付くし、誰かの小賢しい悪事に対抗する術を知っている。そして、消されてきた。無理が通れば道理引っ込むの手順で。
佐川は窓の外を見るようにして、佑人から目を逸らす。まだ昼間は上着一枚で十分過ごせる季節だというのに、陽がくれるスピードは確実に早くなり、道行く人のシルエットを確認するので精いっぱいだ。夏の間のこの時間、梨香と一緒に帰る道中は明るくすれ違う人の表情まで見ることが出来ていた。
「今回の事件も、アンドロイド協会は、TG型のメモリーカードのせいにしようとしている。実際、最近はTG型は生産中止されているし、部品も手に入らなくなっている。都合がいいんだ」
佑人は力なく、傍の椅子に腰かける。埃っぽいことなど、今は気にする余裕がなかった。
「事実なんかどうでもいいんですね。都合のいい言い訳を見つけ、何も悪い事などしていない誰かを切り捨てる、そういう事ですか」
佑人の嫌味っぽい口調には反応せず、佐川は、来週にでもアンドロイド協会は会見をするそうだと言った。
「世間はきっと、直ぐに納得するだろうね。ずば抜けた知能のせいにすれば、この世のほとんどの人が救われる。それに、NB型の暴走事故は聞いたこともないし、NB型のアンドロイドを排除することなど既にできない程、この国はアンドロイドに頼っているからね」
互いの折り合いの為なら、多少の犠牲はつきものか。それが感情を持ったもの同士であったとしても。
「梨香は、どうなるんですか?」
佐川が露骨に表情を硬くした。
「相談だ、佑人君」
佐川が言った。佑人は、本当に相談だろうかと邪推する。理不尽な決定事項を告げに来ただけじゃないだろうか。梨香のことで不条理などという言葉に抗力がないことはわかってしまった。
「梨香がTG型であることは、野沢の設計図から読み取れるし、梨香の性能からしてまず間違いない」
佐川はそこで一つため息をつき、つづけた。
「アンドロイド協会の会見後に予測される事態は、TG型の徹底的な排斥だろう。数はない分、ただのマイノリティーとして迫害されることは目に見えている。そして、厄介なことに、梨香がTG型であることは既にもう、隠せない。学校の先生や、関係者はもう見抜いているだろうからね」
不条理だとか、理不尽だとか、口にする気になれなかった。切り捨てられたら朽ちるだけだ。植物だって、手折られた瞬間から命のリミットが始まる。
「そこで、梨香を救う方法としては、彼女を今からNB型へと変更することだろう」
「それって…」
「うん。以前も話したけど、梨香の部品は少し旧型なせいもあって、脳に当たるすべての部品を総とっかえする必要がある。つまり、今までの記憶のすべてが、消えることになる」
絶望感というのはパレットの上に広がった黒い絵の具の様に厄介な奴だから、自分が持っている多様な感情の全てを塗りつぶす。幸せも、喜びも、ぬくもりも、飲み込み踏みにじる様に広がっていく。
「これを決めるのは、佑人君だよ」
ぼんやりとしてしまっていた佑人に、佐川は厳しい口調で言った。顔を合わせると、いつもの穏やかさをどこに忘れたのだと尋ねたくなる程険しい顔をしていた。
佐川も同じ苦しさを持って今、自分に話をしているのだと、佑人は気が付く。余計に苦しい気分で、
「猶予は?」
と尋ねた。
「来週には会見がなされる」
佐川はそれだけ言った。
本当に何も決めてはくれない顔だった。けれど、すべき選択など在ってないようなものだ。




