第3話:ようこそ、恐怖のディナーへ
好き嫌いはなるべくない方がいいですよね。。
「あなた、ジュリアンからの手紙、読みました?」
「あ、あのお調子者の泣き言だろう。エレノアが万力のような力で首を掴んだだの、リボ払いの呪いだの、およそ令嬢とは思えん妄言ばかりだ」
カトリーヌ伯爵夫妻を乗せた馬車は、夕暮れ時の街を急いでいた。
普段なら夜遅くまで社交界に顔を出している夫妻だが、長男からの「妹が狂った。助けてくれ、僕が食べられてしまう」という、あまりにも必死な救援要請の手紙(文字が恐怖でガタガタに震えていた)が届き、半信半疑のままいつもより早く帰宅することにしたのだ。
「エレノアはあんなに大人しくて可愛い子ですもの。きっとジュリアンが何か意地悪をして、ちょっと怒られただけよ」
「うむ。我が娘ながら、あんなに優雅で美しい淑女はいない。何かの間違いさ」
伯爵夫妻はそう言って笑い合い、我が家の格式高い扉をくぐった。
しかし。
出迎えた長男ジュリアンの姿を見て、夫妻は息を呑んだ。
「ち、父上……母上……! よ、よくぞご無事で……っ!」
やつれていた。
たった一日会わなかっただけなのに、あの小綺麗だった息子が、泥にまみれ、顔には疲労困憊の文字が刻まれ、まるで地獄の強制労働から生還した捕虜のような目をしている。
「ジュ、ジュリアン!? 一体どうしたというの!」
「しっ! 声が大きいです、母上! ……奴に、奴に聞こえます!」
怯える息子の視線の先。
食堂の扉が静かに開き、現れたのは――完璧なカーテシーを見せる、美しき愛娘エレノアだった。
「お父様、お母様。お早いお帰り、心よりお待ちしておりましたわ」
聖母のような微笑み。非の打ち所がない令嬢の所作。
伯爵はそれを見て、ホッと胸を撫でおろした。
「おお、エレノア。やはりいつもの可愛い我が娘じゃないか。ジュリアンめ、大袈裟な嘘を――」
「ひぃぃっ!」
伯爵がエレノアの肩に手を置こうとした瞬間、ジュリアンが短い悲鳴を上げて頭を抱え、床にうずくまった。その怯え方は、本物だった。
「さあ、お父様、お母様。ちょうど夕食の準備が整いましたの。……今宵は、わたくしが厨房に入り、料理長たちと共に腕を振るいました。どうぞ席へおつきください」
エレノアはにっこりと笑う。その瞳の奥が、ほんの一瞬だけ、据わったガラス玉のように冷たく光ったのを、伯爵夫妻は見落としていた。
◇◇◇
長テーブルに座る伯爵夫妻の前へ、次々と料理が運ばれてくる。
前菜は、領地で採れた新鮮な冬虫夏草と魔獣のレバーを使ったパテ。
スープは、透き通るようなコンソメに、じっくり火を通した根菜のグリル。
そしてメインは、最高級の赤身肉を完璧なロゼに焼き上げたステーキだ。
「ほう……! これは素晴らしい香りだ。料理長、腕を上げたな?」
伯爵が感嘆の声を漏らすと、背後に控えていた料理長がブンブンと首を横に振った。
「いえ、伯爵様……。そ、それは全て、エレノアお嬢様の指示によるものでございます。下ごしらえから火加減まで、お嬢様の『生活魔法』と神がかった技術がなければ、これほどの味には……」
「エレノアがかい?」
母親が驚いて娘を見る。エレノアはただ、上品に微笑んでいる。
「さあ、温かいうちに召し上がれ」
伯爵がナイフを入れ、一口肉を運ぶ。その瞬間、彼の脳内に衝撃が走った。
「な、なんだこれは……! 肉の旨味が、噛むたびに溢れ出てくる……! それにこのスープ、これほど雑味がなく、素材の甘みが引き出されたコンソメは王宮でも飲んだことがないぞ!」
「本当に……! なんて美味しいのかしら!」
夫妻は感動し、夢中で料理を口に運んだ。
その横で、兄ジュリアンだけが、一滴のスープの滴すら残さないよう、神聖な儀式に挑むかのような真剣な顔で皿を空にしている。
「いやあ、満足だ。素晴らしい夕食だったよ」
伯爵はナプキンで口を拭い、大いに満足して言った。
だが、その皿には、ステーキの脂身の部分と、付け合わせのブロッコリーがふた切れ、ぽつんと残されていた。
「さて、エレノア。ジュリアンがお前に怯えていたのだが、何かの誤解――」
カツン。
伯爵の言葉を遮るように、静かな、けれど重い音が響いた。
エレノアが、自分のナイフをテーブルに置いた音だった。
「お父様」
エレノアの声のトーンが、スッと3度下がった。
食堂の温度が、一瞬で氷点下まで落ちたかのような錯覚に、伯爵夫妻の背筋が凍りつく。
「……そちらの脂身とブロッコリー、どうなさるおつもりですか?」
「ん? ああ、これか。私は脂身が苦手でな。ブロッコリーも、少し焼きが甘い気がして残したのだが――」
「焼きが甘い、ですか」
エレノアがゆっくりと立ち上がる。
その背後に、どろりとした、地獄の底から這い上がってきたかのような漆黒の魔力が立ち上った。
前世の「餓死の記憶」と「生活魔法」が完全にオーバーロードしている。
「お父様。そのブロッコリーを育てるために、領民がどれほどの汗を流し、そのお肉を届けるために、冒険者がどれほどの命の危険を冒したか……お分かりですか?」
「エ、エレノア……?」
伯爵の顔からスーッと血の気が引いていく。
目の前にいるのは、愛らしい娘ではない。食べ物を粗末にする者を絶対に許さない、**『飢餓の魔王』**だ。
「食べ物に困ったことがないから、食べるものがない人の苦しみが分からないのですわ。……いいですか、お父様、お母様」
エレノアはテーブルに両手を突き、夫妻の顔の目の前まで顔を近づけた。その目は完全にガチだった。
「わたくしの目の前で、食材をドブに捨てるような真似(食べ残し)をする奴は、たとえ親兄弟であっても生ゴミ以下として処理いたします。……お分かりいただけましたか?」
「ひ、ひぃっ……!」
母親が恐怖でガタガタと震えだし、伯爵は冷や汗を滝のように流しながら、自分のナイフとフォークを握り直した。
「す、すまん! 悪かった! 今すぐ食べる! 骨の髄まで綺麗に食べるから許してくれぇぇ!」
「よろしい。……あ、お母様、そちらのパンの耳が残っていますわよ? 1ミリの食べ残しも、わたくし許しませんから」
「た、食べます! 喜んでいただきますわぁ!」
床で丸くなっているジュリアンが、「だから言ったのに……」と絶望の表情で呟く中、カトリーヌ伯爵家の最高権力者が、完全に『エレノア』へと交代した瞬間だった。
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