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第7話 忍び寄る影と、見知らぬ妻

 六月に入り、雨の匂いが街を包む日が増えた。

 結婚式まであと四ヶ月。準備は佳境に入り、凛の毎日は仕事とプライベートの両方で目が回るほどの忙しさだった。しかし、それは決して苦痛ではなく、むしろ自分が「完璧な人生」の階段を順調に駆け上がっているという、心地よい疲労感だった。

 金曜日の夜。凛は自宅のソファに身を沈め、自分のSNSアカウントを眺めていた。

 フォロワーは二千人ほど。仕事の成功や洗練されたライフスタイルを綴る彼女の投稿は、常に多くの「いいね」と羨望のコメントを集めている。

 今日投稿したのは、先週末に決まったばかりの、フランス製ウェディングドレスの試着写真(顔は隠してある)と、ハリー・ウィンストンの婚約指輪のアップだった。

『ついにドレスが決定。彼が「凛に一番似合う」と言ってくれた純白のシルク。最高の秋になりそうです』

 そんなキャプションと共に投稿された写真には、すでに百件以上の祝福コメントが寄せられていた。

『美しすぎます!凛さんの努力の賜物ですね!』

『理想のカップル!旦那様、本当に素敵な方なんですね』

 凛はそれらのコメントを読みながら、満足げに微笑んだ。

 やはり、私の選択は間違っていなかった。誰もが私の幸せを認め、称賛してくれている。先日の夜に感じたあの不気味なメッセージの記憶も、マリッジブルーが引き起こしたただの幻に過ぎなかったのだ。

 そう思いながら、コメント欄を下へとスクロールした時だった。

 ふと、見慣れないアカウントからのコメントに目が留まった。プロフィール画像は初期設定の人型アイコンで、アカウント名もランダムな英数字の羅列だ。

『他人のものを奪って着る純白は、さぞかし綺麗でしょうね』

 ——え?

 凛の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 スパムか嫌がらせか。すぐに削除しようと指を伸ばしたが、そのアカウントは立て続けに三つのコメントを書き込んでいた。

『その指輪、彼が「経費で落とすから」と言って買ったものですか?』

『私の時には、そんな高い指輪は買ってくれませんでしたけれど』

『宗谷の帰りを待っているのは、あなただけじゃないんですよ』

 背筋に冷たい氷を滑らせられたような悪寒が走った。

 宗谷。明確に彼の名前が出ている。これは無差別に送られるスパムではない。明らかに「私と橘宗谷」を知っている人間の書き込みだ。

「……何、これ。悪質な悪戯? それとも、彼の会社の誰かの嫌がらせ……?」

 優秀で出世の早い宗谷を妬む人間は社内にもいるだろう。凛は震える指で即座にそのアカウントをブロックし、コメントをすべて削除した。

 大丈夫。ただの嫉妬だ。気にする必要はない。私は正しいのだから、こんな卑劣な嫌がらせに屈してはいけない。

 凛は強引に自分を納得させ、スマートフォンをテーブルの裏に伏せた。しかし、その夜はどれだけ温かいハーブティーを飲んでも、眠りにつくことができなかった。

 翌日の土曜日。

 今日は、新居となるタワーマンションの最終契約日だった。午後一時に、デベロッパーのオフィスで宗谷と待ち合わせをしている。

 しかし、約束の十分前になっても、宗谷は現れなかった。

 凛はオフィスの受付前のソファに座り、彼にLINEを送った。

『もう着いてるよ。今どの辺り?』

 メッセージには「既読」がつかない。五分経ち、十分が過ぎた。

 約束の時間を十五分過ぎたところで、凛はたまらず電話をかけた。しかし、コール音は虚しく鳴り続けるだけで、やがて無機質な留守番電話のガイダンスに切り替わった。

 凛の額に、じわりと冷や汗が滲む。

 宗谷がデートに遅刻したことは、これまでの交際で一度もない。ましてや、新居の契約という重要な日に連絡もなしにすっぽかすなど、あり得ないことだった。

 受付の女性が、心配そうにこちらを見ている。

「あの、結城様。橘様は……」

「あ、すみません。た、たぶん、急な仕事のトラブルで抜け出せないんだと思います。彼、大きなプロジェクトを抱えているので……」

 凛は引きつった笑顔で言い訳を取り繕った。他人の前で「完璧な自分」が崩れることが、何よりも屈辱だった。

 一時間待ったが、彼からの連絡は一切なかった。結局、凛は「日を改めます」と受付に頭を下げ、逃げるようにオフィスを後にした。

 オフィスの外に出ると、空はどんよりと曇っていた。

 カフェに入り、もう一度電話をかける。出ない。LINEも未読のままだ。

 事故にでも巻き込まれたのだろうか? それとも、本当に緊急の仕事でスマートフォンすら見られない状況なのか?

 不安と混乱で頭がぐちゃぐちゃになりかけた、その時。

 テーブルに置いた凛のスマートフォンが震えた。画面には「非通知設定」の文字。

 普段なら絶対に出ないが、宗谷が会社の固定電話か公衆電話からかけてきたのかもしれない。凛はすがるような思いで通話ボタンを押した。

「……もしもし! 宗谷さん!?」

 だが、スピーカーから聞こえてきたのは、予想に反して、不気味なほど静かで、平坦な「女の声」だった。

『——結城凛さん、ですか』

 凛は息を呑んだ。声に聞き覚えはない。

「……はい、そうですが。どちら様ですか?」

『はじめまして。私、橘沙織たちばな・さおりと申します』

 橘。

 宗谷の妹か、親戚だろうか。いや、彼は一人っ子だと言っていたはずだ。

「橘……? あの、宗谷さんのご親族の方ですか? 今日、彼と待ち合わせをしているんですが、連絡が取れなくて——」

『——妻です』

 女は、凛の言葉を遮るように、静かに、しかしはっきりとそう言った。

「……え?」

『宗谷の妻です。結城さん、いつも夫がお世話になっております』

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。

 妻? 宗谷の妻? 何を言っているのだ、この女は。宗谷は独身だ。私と婚約しているのだ。

「あの、何か勘違いされていませんか? 宗谷さんは独身です。私たちは今年の秋に結婚する予定で——」

『結婚? ……ふふっ』

 電話の向こうで、沙織と名乗る女が、乾いた、ひどく冷たい笑い声を漏らした。

『三年です。私たちが籍を入れてから、もう三年が経ちます。先月、三十歳の誕生日にオーベルジュに行かれたそうですね。私の誕生日の時は、近所のイタリアンでしたけれど』

「な、何を……」

『あの日、彼は「出張だ」と言って家を出ました。彼があなたに贈ったネックレス、カードの明細を見ましたよ。ずいぶんと高価なものを買ってもらったんですね。……私が家計をやりくりしている口座から引き落とされていたのには、少し驚きましたけれど』

 女の口から次々と語られる、生々しく具体的な事実。

 凛の手がガタガタと震え始めた。スマートフォンの冷たい金属が、氷のように感じられる。

「嘘よ……嘘! そんなの、信じない! あなたは誰なの!? 何の目的でこんな悪質な嫌がらせを!」

『嘘ではありません。……ああ、そうだ。先日、彼があなたの部屋にジャケットを忘れて帰ってきたことがありましたよね。あの時、柔軟剤の匂いがしませんでしたか? 私、無添加のベビーソープの香りが好きで、いつもあれで彼の服を洗っているんです』

 ——ッ!

 凛の喉から、ヒュッと息が漏れた。

 あの日の夜。ジャケットから匂った、微かな生活の匂い。

『火曜日。彼はあなたに「役員との会食だ」と言ったそうですね。でもその日、彼は有給を取って、私と一緒に産婦人科の健診に来ていたんですよ。……私、今妊娠五ヶ月なんです』

 暗闇の中で光った、スマートフォン。

 『S.T』からのメッセージ。『健診の予約、火曜日』。

 すべてのピースが、最悪の形で組み合わさっていく。

 橘沙織。Saori Tachibana。S.T。

『彼は今日、あなたとの待ち合わせには行きません。今、隣の部屋で、私たちが買ったベビーベッドを組み立ててくれているところですから。……あなたからのLINEの通知がうるさいと、さっき電源を切っていましたよ』

 沙織の声は、怒り狂っているわけでもなく、ただ淡々と、事実だけを突きつけてくる。それが余計に恐ろしかった。この女は、狂っている。いや、事実を知って、すでに心が壊れてしまっているのだ。

「……嘘……嘘よ……宗谷さんを出して! 彼と直接話させて!」

 凛は半狂乱になりながら叫んだ。周囲の客が驚いてこちらを見ているが、そんなことを気にする余裕などなかった。

『彼に話すことなどありません。……結城凛さん。あなた、自分のことを正しい人間だと思っているんでしょうね。でも、あなたはただの泥棒猫よ。人の家庭を壊して、他人の夫のお金で幸せを貪っている、薄汚い寄生虫』

 ガチャリ。

 無慈悲な音と共に、通話は切れた。

 「ツーツー」という電子音が、凛の耳の奥で虚しく響き続ける。

 凛は再び宗谷の番号をタップした。

『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため——』

 繋がらない。何度かけても、繋がらない。

 完璧だったはずの結城凛の世界に、巨大な亀裂が走る音がした。

 いや、最初から完璧などではなかったのだ。彼女が歩いてきた「正しい道」は、他人の血と涙の上に敷かれた、酷く脆い泥の道だった。

 ——私は、間違えた?

 カフェの窓に映る自分の顔は、これまで見たこともないほど惨めで、滑稽で、恐怖に歪んでいた。

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