第8話 完璧な逃亡と、終わらない悪夢
カフェを飛び出した凛は、土砂降りの雨の中をタクシーで港区に向かった。
宗谷の住む高級マンション。彼から渡されていた合鍵を震える手で差し込み、エントランスを抜ける。エレベーターの昇る時間が、永遠のように感じられた。
「宗谷さん! 宗谷さんっ!」
玄関のドアを勢いよく開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
洗練されたインテリアが並んでいたはずの部屋には、無数のダンボール箱が積み上げられていたのだ。そして、リビングの真ん中では、宗谷がスーツケースに荷物を詰め込んでいる最中だった。
「……あ。やっぱり来たか」
振り返った宗谷の顔を見て、凛は言葉を失った。
そこにいたのは、いつも凛を甘く見つめていた完璧な王子様ではなかった。面倒なトラブルに巻き込まれて舌打ちをしているような、ひどく冷酷で、無機質な目をした「見知らぬ男」だった。
「宗谷、さん……? これ、どういうこと……? お引越しって、タワーマンションの契約は今日じゃ……それに、さっきの電話……」
「沙織から聞いたんだろう。いやぁ、参ったよ。今日が契約日だってこと、すっかり忘れててさ。妻にスマホを見られて、全部バレちゃった」
妻。
彼自身の口から出たその単語が、凛の心臓を鋭く抉った。
「嘘よね……? だって、あなたは独身だって……私と、秋に結婚するって!」
「凛。君、頭良いんだから状況を理解してよ」
宗谷はスーツケースのジッパーを閉じると、大きなため息をついて凛を見下ろした。その目には、愛情はおろか、罪悪感すら一ミリも存在していない。
「僕は三十歳の時に沙織と結婚した。でも、彼女は家庭的すぎて刺激がなくてね。そこに、綺麗で有能な君が現れた。……君はプライドが高いから、適当に遊ぶには『結婚』という餌をチラつかせるのが一番手っ取り早かったんだ。君も、僕の肩書きやエスコートに酔いしれて、気持ちよかっただろう?」
——遊び。餌。
彼の口から発せられる言葉の意味が、脳で処理しきれない。
「あの指輪も、プロポーズも……全部、嘘だったの……?」
「嘘じゃないよ。君といる時間は本当に楽しかった。でもね、沙織のお腹には僕の子供がいるんだ。そろそろ潮時だと思っていたところに、妻にバレた。だから、この関係は今日で終わり。お互い、綺麗な思い出のまま終わりにしよう」
狂っている。この男は、人間の心を持っていないのか。
凛は発狂しそうになるのを必死に堪え、宗谷の腕にすがりついた。
「嫌! 嫌よ! 私、あなたのためにウェディングドレスも選んだのよ!? 会社の人にも、友達にも報告したのに……今さら終わりだなんて、そんなの許さない!」
「やめろよ、みっともない」
宗谷は、虫でも払うかのように、すがりつく凛を無造作に突き飛ばした。
床に倒れ込んだ凛を見下ろす彼の視線は、汚物を見るようなそれだった。
「君との写真やLINEの履歴はすべて消した。マンションも今日で解約だ。来週から僕は関西支社へ異動になるから、会社に来ても無駄だよ。……いいかい、結城さん。僕はもう、君とは一切関係ない。これ以上僕や妻につきまとうなら、ストーカーとして警察に突き出すからな」
「……ッ!」
「合鍵はそこに置いていって。じゃあね。もう二度と会うことはないよ」
宗谷はスーツケースを引き、呆然と床にへたり込む凛を一瞥することなく、玄関のドアを開けて出て行った。
バタン、という冷たい金属音だけが、虚ろな部屋に響き渡った。
完璧な男による、完璧な逃亡劇。
彼は自己保身のためなら、一切の感情を切り捨て、見事なまでに存在を消し去ることができる怪物だったのだ。
翌日。
一睡もできずに自分のマンションに帰ってきた凛の元へ、一つの小包が届いた。
差出人の名前はない。ただ、見慣れた宗谷の字で凛の住所だけが書かれている。彼からの謝罪の手紙かもしれないと、すがるような思いで箱を開けた凛は、短い悲鳴を上げてその箱を床に放り投げた。
中に入っていたのは、ズタズタに切り裂かれたウェディング雑誌。そして、凛の顔写真が貼られ、首の部分に太い釘が打ち込まれた「血まみれのキューピー人形」だった。
箱の底には、真っ赤な口紅で書かれた便箋がへばりついている。
『泥棒猫。私の夫を返せ。お前が死ねばよかったのに』
沙織だ。
宗谷は凛を「過去のゴミ」として切り捨てた。だが、夫に裏切られ、狂気に囚われた妻にとって、凛は憎悪をぶつけるための恰好の標的だったのだ。
それからの日々は、まさに無間地獄だった。
スマートフォンには、非通知からの無言電話が一日に何十回もかかってくる。マンションのポストには、汚物が塗られた凛の写真や、差出人不明の「不倫女」と書かれた怪文書が毎日投函された。
恐怖と睡眠不足で、凛の完璧だった容姿は見る影もなくやつれ果てた。
仕事でもミスを連発し、ついに重要なクライアントの会議に遅刻するという、かつての彼女なら絶対にあり得ない失態を演じてしまった。
「結城さん、最近どうしたの? らしくないわよ」
「すみません……少し、体調が……」
上司の冷ややかな視線から逃げるように給湯室に駆け込んだ凛は、震える手で親友にLINEを送った。助けてほしい。宗谷に騙されていた。奥さんからストーカーされている。
すぐに既読がつき、返信が来た。
『えっ、橘さん既婚者だったの!? ……でも凛、相手の身辺調査もせずに婚約指輪もらったってことだよね?』
『奥さんが怒るのも無理ないかも……法律的には凛が「不倫相手」になっちゃうし。ごめん、私、そういうドロドロしたの巻き込まれたくなくて……少し距離置かせて』
画面を見つめたまま、凛は凍りついた。
親友からの、事実上の絶縁宣言。
周囲の誰もが、凛を「被害者」ではなく「家庭を壊した愚かな不倫女」として見ていた。騙されていたと主張したところで、世間の目は冷たい。完璧で正しかったはずの結城凛の評価は、一瞬にして地の底へと叩き落とされたのだ。
その日の夜。
暗い部屋の隅で、凛は膝を抱えて座り込んでいた。
左手の薬指には、今もハリー・ウィンストンの指輪が輝いている。宗谷が経費で買った、偽りの愛の証。
ブブッ、ブブッ。
また、非通知からの着信だ。
凛はゆっくりと顔を上げ、暗闇の中でスマートフォンを見つめた。
恐怖で震えていた彼女の瞳から、やがて涙が消え、代わりにどす黒く、ひどく冷たい光が宿り始めた。
「……違う」
カサカサに乾いた唇から、独り言が漏れる。
「私は、間違っていない」
そうだ。私は被害者だ。私は宗谷に騙されたのだ。
私を裏切った宗谷が悪い。私を不倫女と罵る沙織が悪い。私を見捨てた友人たちが悪い。
私は正しく生きてきた。私には幸せになる権利がある。私の「正しさ」を傷つける奴らは、全員、間違っているのだ。
「フ……フフッ」
暗い部屋の中に、乾いた笑い声が響いた。
もはや彼女の心の中で、善悪の境界線は完全に崩壊していた。
恐怖と罪悪感に押し潰された結城凛の心は、自身の「正当性」を守るために、最もおぞましく、凶悪な『歪んだ正義』を産み落としていた。
「許さない……絶対に。あなたたちが私の人生を壊したなら、私もあなたたちのすべてを……」
暗闇の中で微笑む彼女の顔は、かつての美しさは欠片もなく、まるで地獄から這い上がってきた悪鬼のように、醜く歪んでいた。




