第6話 小さな綻びと、正しさの証明
結婚式に向けた準備は、驚くほど順調に進んでいた。
招待客のリストアップ、引き出物の選定、そしてフランスのメゾンにオーダーした純白のウェディングドレスの採寸。新居となるタワーマンションの手続きも完了し、あとは秋の引っ越しを待つばかりとなっていた。
初夏の日差しが眩しくなり始めた、ある金曜日の夜。
凛は、宗谷の住む都心の高級マンションで、彼がシャワーを浴びている間に部屋の軽い片付けをしていた。彼が今日着ていたスーツをハンガーに掛けようと、ジャケットを手に取った時のことだ。
ふわりと、鼻腔をかすめる匂いがあった。
——あれ?
凛は動きを止め、もう一度ジャケットの襟元に顔を近づけた。
宗谷がいつも愛用している、爽やかなシトラス系の香水の匂いではない。タバコの煙でも、居酒屋の油の匂いでもない。
もっと、甘くて、柔らかくて……どこか生活感のある匂い。例えるなら、無添加のベビーソープや、肌に優しいオーガニック系の柔軟剤のような香りだった。
「どうかした? 凛」
バスルームの扉が開き、濡れた髪をタオルで拭きながら宗谷が出てきた。
「あ……ううん、なんでもないの」
「ジャケット、片付けてくれてるんだね。ありがとう。……ん? 何か匂う?」
宗谷は凛の手からジャケットを受け取ると、自ら匂いを嗅いだ。そして、ああと納得したように爽やかに微笑んだ。
「ごめん、変な匂いが移っちゃったかな。今日、昼休みに部署の先輩が奥さんと生まれたばかりの赤ちゃんを連れてきてね。みんなで抱っこさせてもらったんだよ。その時の匂いかも」
「赤ちゃん……そうだったのね。ふふ、宗谷さんが赤ちゃんを抱っこしてる姿、なんだか想像できちゃうわ」
「すごく可愛かったよ。僕たちにも、いつかあんな日が来るのかなって、少し気が早くなっちゃった」
宗谷の言葉に、凛の胸の奥で一瞬だけ針のようにチクリと刺さった違和感は、甘い砂糖水で溶かされるようにあっけなく消え去った。
彼の説明は完璧で、何一つ不自然な点はない。未来を想像して喜んでくれる彼の誠実さに、凛はむしろ愛おしさすら覚えた。
しかし、その「小さな綻び」は、別の形でも現れ始めた。
翌週の土曜日、二人は結婚指輪の刻印を決めるために、銀座のジュエリーショップを訪れた後、予約していた落ち着いたフレンチレストランでディナーをとっていた。
前菜のテリーヌが運ばれてきた時、テーブルの上に伏せて置かれていた宗谷のスマートフォンが震えた。
普段、凛とのデート中に仕事の電話に出ることは絶対にない宗谷だが、画面を一瞥した瞬間、彼の眉間にほんのわずかだけ、険しいシワが寄ったのを凛は見逃さなかった。
「……ごめん、凛。少しだけ外してもいいかな。海外のクライアントからで、どうしても今出ないといけない案件なんだ」
「ええ、もちろん。気になさらないで」
宗谷は足早に席を立ち、レストランのエントランスの方へ向かった。
ガラス張りの仕切り越しに、彼が電話口で話している姿が見える。何を話しているかまでは聞こえないが、彼の表情はいつもの余裕のある笑顔ではなく、ひどく冷たく、事務的なものに見えた。
そして、戻ってくるまでの時間が、長かった。五分、十分。メインディッシュの魚料理が運ばれてきて少し冷め始めた頃に、ようやく彼は席に戻ってきた。
「本当にごめん。時差の関係で、向こうの担当者がどうしても確認したいって聞かなくてね」
「ううん、大変ね。お仕事お疲れ様。……何か、深刻なトラブル?」
「いや、大したことじゃないよ。僕がいなくても回るように指示を出してきたから、もう大丈夫。さあ、冷めないうちに食べよう」
宗谷はいつもの完璧な笑顔に戻り、ワイングラスを持ち上げた。
その笑顔を見つめながら、凛の心の中に、黒いインクが一滴落ちたような、名状しがたい不安が広がった。
彼は本当に、クライアントと話していたのだろうか? あの時見せた冷たい表情は、誰に向けられたものだったのか。
——ダメよ、結城凛。
凛は心の中で首を振った。彼を疑うなんて、私らしくない。完璧な彼に限って、私を裏切るような真似をするはずがない。これはきっと、環境の変化に対する一時的な不安なのだ。
数日後、凛は大学時代の親友たちと代官山のカフェでランチをしていた。
友人たちは皆、凛の左手薬指で輝くハリー・ウィンストンの婚約指輪を見て、感嘆のため息を漏らしていた。
「ほんっと、凛は昔から完璧よね。仕事もバリバリこなして、橘さんみたいな超絶ハイスペックで優しい旦那さんまで捕まえるなんて。前世でどれだけ徳を積んだのよ」
「やめてよ、運が良かっただけだってば」
謙遜しながらも、凛はここ最近感じていた「小さな違和感」を、冗談めかして口にしてみた。
柔軟剤の匂いのこと。ディナー中の不自然な電話のこと。
「……っていうことがあって。なんだか少しだけ、変だなって思っちゃって」
凛の言葉に、親友たちは顔を見合わせ、やがて呆れたように笑い出した。
「何言ってるの、凛! それ、完全に『マリッジブルー』だよ!」
「そうそう! 幸せすぎて、逆に怖くなってるだけだって。橘さんに限って、浮気とか怪しいことなんてあるわけないじゃない」
「っていうか、凛が不安がるなんて珍しいね。いつも『私の選択に間違いはない』って自信満々なのに」
友人たちの明るい笑い声に、凛は憑き物が落ちたようにハッとした。
そうだ。私は間違えない。私が選んだ男が、私を裏切るような安い真似をするはずがない。
周囲の誰もが「間違いない」と太鼓判を押す彼を疑うなんて、自分のこれまでの選択を否定するようなものだ。私は正しく生きているのだから、こんな些細な不安に振り回される必要はない。
「……そうよね。私ったら、どうかしてたわ。結婚式の準備で少し疲れてるのかも」
「絶対そう! 今日は美味しいもの食べて、パァーッと忘れなよ!」
友人たちの言葉は、凛の「正しいという驕り」を再び強固なものにした。
私は被害妄想を抱いていたのだ。彼に対して失礼だったと、凛は心の中で深く反省すらした。
その日の夜。
宗谷のマンションに泊まっていた凛は、深夜、喉の渇きを覚えて目を覚ました。
隣では宗谷が静かな寝息を立てている。ベッドサイドのテーブルに置かれた彼のスマートフォンの画面が、ふいに明るく点灯した。
普段なら他人の携帯を見るような下品な真似は絶対にしない。だが、寝ぼけ眼の凛の視界に、ポップアップされたメッセージの冒頭が、否応なしに飛び込んできた。
『——健診の予約、火曜日——』
発信元の名前は「S.T」。
メッセージはすぐに画面から消え、再び暗闇が戻った。
火曜日?
凛は記憶を辿った。火曜日は、宗谷が「役員との重要な会食があるから、連絡が取れないかもしれない」と言っていた日だ。
なぜ、会食の日に「健診の予約」というメッセージが来るのか。「S.T」とは誰なのか。ビジネス上の相手だとして、健診の予約というプライベートな内容を送ってくるだろうか?
暗闇の中で、凛の心臓が不規則なリズムを刻み始める。
友人の言葉が頭をよぎる。『マリッジブルーだよ』『幸せすぎて怖くなってるだけ』。
そうだ。これはきっと、何かの間違いだ。彼には彼の仕事の事情がある。私が口出しすることではない。
私は彼を信じている。私の選択は、私の人生は、完璧で正しいのだから。
凛は布団を頭まで被り、震える心臓の音を無理やり無視して、固く目を閉じた。
自分の信じる「正しさ」を守るために、忍び寄る真っ黒な影から必死に目を背けながら。




