0039 考えるための足掛かり
↓2019.05.18-24
考えるための足掛かり
考える力が乏しい人を洗脳するのは簡単である、と私は考えている。例えば、「~だから、~である」という文章に仕立てるだけで、洗脳出来る可能性はかなり高くなる。
何が「~だから」であるかにほとんど関係なく、何が「~である」と断定すれば、それで、ほとんどの人は洗脳されてしまう、と私は認識している。よっぽど変だと感じさせず、もっともらしく聞こえる限り、人は「そういうものか」→「そうだろう」→「全くその通り」、と受け取る習性がある。ほとんどの人は、いつもではないが、ほとんどの場合あまり深く考えないから、安易に騙され、騙されていることにいつまでも気づかない。自分があまり考えずに判断していること自体に気づいていない。
一度ある考えを受け取ってしまうと、次はますます考えなくなるから、それは定着するようになる。定着した考え(思いこみ)を訂正するのは簡単なことではない。「考えよう」と思うことは出来る。しかし、思いこんでしまったことは頭の中で自動的に考える必要のない(あるいは、考えたくない)ことに分類されてしまうので、思ったように考えること自体が難しい。多くの人は、その意味では、どのようにすれば考えることが出来るのかということが分かっていない。分かってないことをしようと思っても、出来るわけがない。
では、どうすればいいのか。
同じような問題に突き当たったときには同じ結論に陥りがちだが、その機会があるごとに「本当にそうなのか」と疑ってみることは、考えるための足掛かりになりうる、と考えている。それは、運動選手が、身についた体の動かし方のどこが悪くて、どう修正すればもっとうまくいくか、などを日々自分自身に問い詰めて、少しずつ改善していくことに似ている。決して、一朝一夕で出来ることではない。
その結論はどのような結果を導くのか、どこか細部に思い違いはないか、違った立場に立ってみても同じ判断が出来るか、同じような問題に見えるが違いはないか、見落としたり軽視したりしている事実はないか、過去の事例で気づいてなかったことはないか、などなど、考えようとすればいくらでも考えるべきことはあるはずだ。
ただ考えればいいということではない。日々の鍛錬の積み重ねから、見えていなかったものを見えるようになることが重要である、と考えている。誰も、苦労せずに考えることが出来るようになるわけではない。考えるということは、質の高い鍛錬を繰り返すことで、僅かずつ向上するものである、と私は考えている。
「どういう見方をすべきか」ということは、それが正しいと判断であるかどうかは別として、人から教わることが出来る。しかし、「どういう見方をすべきかと自分で考える」こと自体は、人から教わることが出来ない。だから、自分なりに日々考えを突き詰めるという鍛錬が必要なのである。
逆に言えば、人から教わった見方に納得したとしても、自分で考える能力が乏しい限り、それが正しいかどうかを判断出来ていないということである。しかも、そういう学び方を繰り返した人ほど、自分は考えることが出来ると思いこんでしまう傾向があるから、いつまでたっても考えることが出来るようにならない。自分が考えていないことは、自分自身で気づくしかない。
私は、日常で耳や目にする会話や文章で、上記の「~だから、~である」レベルのレトリックだらけだと感じている。例えば、テレビや新聞で目にする報道であれば、客観的な事実(それも怪しい場合がある)以外の部分のほとんどを、根拠があいまいだとか、論理的に成り立ってないとか、いいかげんな思いつきでしかないとか、いつも思っている。報道内容を「そうだ、そうだ」と頻繁に思っている人がいるなら、それは少しも考えていないからだろう、と私は思っている。
↓2019.06.04
一瞬一瞬、違うことを考えていることが……
一瞬一瞬、違うことを考えていることがある。すでに別のことを考えているのに、一瞬前に考えたことにもとづいて、ほぼ無意識に行動していることがある。
そういう場合は、ぼっとしていて、うまくいかない場合もあるが、それに近い状態で複数のことを連続的にこなしているのは、日常的によくあることのようにも思える。
一瞬前に考えたことを無意識に行動するのは、意識の領域からそれが脱落しているが、無意識の領域にはとどまったままでいる、ということなのだろう。
無意識の領域で働いていることは、意識的にチェックすることが出来ないので、危うさを感じることもある。また、ちょっと前にやったことなのに思い出せないことがあり、困ることもある。




