0029 まだ若い頃、休暇中に……
↓2017.05.23
まだ若い頃、休暇中に……
まだ若い頃、休暇中にオートバイでツーリングに出かけた。夜中に田舎で道に迷って、ほとんど交通量のない県道(村道?)を走っていたら、なぜかアクセルをふかしても反応しなくなり、やがてエンジンが止まってしまった。
ふと足元を見ると、ガードレールの下に花を生けたガラス瓶が置いてあった。必死でエンジンを再始動して、逃げましたとさ。
↓2017.07.04
既存のやり方
何かを解決しようとするとき、既存のやり方が通用しないことがある。しかし、人は、往々にして、「既存のやり方」という狭い範囲でしか考えることが出来ない。それ以外の方法が目に入らないのである。
同じことは、ほとんどの研究者(と言われる人々)についても言えることだ、と私は思っている。私は、「うまくいく方法」しか考えない研究者には否定的である。それは、その研究者の固定観念の中でしか研究が行われないということであり、既存の研究成果の範囲を超えた新しい知見が発見されることを期待しにくいやり方だ、と考えるからである。
そのような研究者でも、既存の研究の見逃された隙間を発見して、それなりの成果を上げることは可能であるとは思うし、そのこと自体を否定しているわけではない。しかし、それしかしようとしない人間を研究者と呼ぶことには、抵抗がある。
研究が行き詰ったときに、あえて既存の考え方を離れてとことん試行錯誤し、画期的な新しい知見を見出したという研究者たちが存在している。私が尊敬する研究者たちは、そういう人たちだ。
ところで、人口知能による将棋では、勝つための手を読むだけではなく、負けるための手を打つことによって、相手の予想をくつがえし、思考を混乱させる、ということもやってのけるのだそうだ。人は「勝つための手」しか考えないが、人工知能は「ありとあらゆる手」を考えるので、人から見れば、「負けるための手」を打っているように見える場合もある、ということだと私は考えている。
逆から言えば、人も、「勝つための手」と同時に「負けるための手」も考えるようにすれば、より強くなれる可能性がある。負ける(はず)の手の中にも、勝つための手があるかもしれないからだ。「それはおかしい」と拒否反応を起こす人には、出来ないことだろうが。
ほとんどの人は、「自分が正しいと感じていること」に反していると思ったら、もうそれ以上考えない。そして、自分が「狭い範囲でしか考えてないこと」を自覚していない。それは、考える前に結論を下しているとの同じであり、「考えているつもりになっているだけ」ということである。「自分が正しいと感じていること」であるかどうかに関係なく、様々な可能性を考慮すべきだ、と考えている。
↓2017.08.28
「温暖化で白化するサンゴを守ろう」として……
「温暖化で白化するサンゴを守ろう」として、サンゴの繁殖を試みる人たちがいる。心情は分からないでもないので反対はしないが、個人的にはあまり意味がないと思っている。
現在の温暖化が人為的なものだという想定には疑念があるが、それが正しいとしても、地球は何億年もの間に温暖化や寒冷化を何度も経験してきており、その激しい環境の変化をサンゴが生き抜いてきていることを考えるべきだ、と思っている。
つまり、サンゴは環境の変化に耐え得る強靭な生命力を有しており、温暖化に耐えられなくなり石化したのだとしても、大量の卵を放出することによって、他の適切な環境に移って繁殖するだけだろう、と考えている。
また、温暖化が石化の理由であるとすれば、温暖化した海でサンゴを保護しようということ自体が自然の摂理に反している。少しは効果があるとしても、それは人の作為による人工的な「自然」でしかない。サンゴの石化は、サンゴがその環境から逃げ出した結果であるとも考えられるから、無理やり繁殖させられるサンゴの方がいい迷惑ではないか。




