0022 見えない人たち
↓2015.08.08-11
見えない人たち
明々白々なことが見えない人たちがいる。
例えば、かつて津波が到達した場所にはまた津波が到達する可能性がある、ということが見えなかった人たちが大勢いた。
非常に頭のいい原子力関係の技術者ですら、そのほとんどが、そんなにも明々白々なことが見えなかった。
勿論、見えていた人たちもいる。女川原子力発電所を建設した技術者は過去の津波を意識して対応していたから、東日本大震災の津波による被害を免れたという。
それに対して、福島第一原子力発電所を建設した技術者は見えていなかった人たちだろう。
福島第一原子力発電所の中でも、津波の危険性を指摘して対策を主張した技術者はいたそうだ。しかし、見えない人たちは、問題を指摘されても考えを変えなかったし、何も対応しなかったという。見えない人は、説明されても見ることが出来るようにはならないのである。(それを不思議に思う人もいるだろうが、そのようなことは、ごく普通に日常茶飯事で起こっている。そのことを認識出来ない人も、私に言わせれば、見えない人である。自分の見えなさに気づいていないと指摘しておきたい。)
見えるか見えないかは、頭の良さとはあまり関係ない。原子力関係の技術者の多くは非常に頭の良い人たちだろう。しかし、その頭の良さは、結局、学んだことを理解する能力の高さと専門知識の豊富さだけを意味している。頭が良いからといって、明々白々なことが見える能力があるというわけではない。経験にないことを推論することが出来ない技術者は、非常に多い。
自分の大雑把な感覚(精確な数字ではない)で言えば、技術者の九割以上が見えない人であると思える。しかし、技術者はまだましな方だと思っている。技術者でなければ、その比率はもっと上がるだろう。技術者の方が、まだ一般の人たちより、推論を迫られる機会が多いからだ。
明々白々なことが見えない人を、見えるようにするという試みが、かなり成功したと思える事例がある。それは釜石市で行われた防災教育である。
釜石市では片田敏孝教授に指導されて防災教育が行われていた。片田教授が特に問題視されていたのは、対象者の防災意識が十分ではないことにあったようだ。つまり、津波の恐ろしさやいざという時の避難の仕方を、大勢の人たちが見えてなかったということだろう。
片田教授は、津波が人ごとではないこと、どのような津波が来るか分からないので最善を尽くせということ、ハザードマップを信じず状況を自分で判断して行動しろということ、などを、様々な取り組みによって教育している。
私がこの事例を特に高く評価しているのは、感情に訴えるのではなく、状況に応じた理性的な判断が出来るように教育している点にある。つまり、見えるようにすることを重視しているのだ、と思う。理屈をあまり説明しないで感情的な表現を使い、そうするのが当然だという観念を植えこむ方が簡単だったはずだし、そのような手法はよく使われている。世の中の大勢の人が感情的な表現に同調し、非理性的な判断を受け入れ、自分も感情的な表現を使うようになることは、非常に多く見られる現象である。(そのことに気づいていない人は、ほぼ例外なく、見えない人だろう。)
ただ、その教育を受けた生徒たちの一部は、地震が起こったときに、すぐには逃げないで、何か指示されるのを待っていたそうだ。だから、完全に成功したわけではない。どんなに教えても、見えない人を見えるようにすることは、非常に困難なことであると思っている。
技術者の九割以上の人が見えない人なので、事故は必ず起こるものだと考えなければならない。見える人は常に少数派なので、対策しようということになることは、めったにない。(見えるという少数派が責任者であったというまれな例が、女川原子力発電所だろう。)
ただし、見えない人ばかりであったとしても、事故の規模や深刻さを低減することは可能だと考えている。それは最悪の事態を想定して、それに対処する手段を用意しておくことである。そうすれば、何が起こるかが見えていなくても、対応出来る可能性がぐんと高くなる。(原因を思いつかなくても、最悪の事態がありうるという前提を当たり前にしなければならない。事故を経験してから対策を考慮するという習慣を改めなければならない。法律を改正して、違反者を罰する必要があるだろう。)




