0020 後世への伝言
↓2015.01.18
後世への伝言
人は災害の経験を後世に伝えなければならないと言うが、本当に後世に伝えるべき言葉を豊富に持っているのは、それを経験した人だけだと思う。その次の世代はまだ、その言葉を記憶して伝えることが出来るかもしれないが、経験による裏づけがないから、伝えられるものが薄まるのは仕方がないだろう。その次の世代、またその次の世代と引き継ごうとしても、どんどん言葉の重みが軽くなるだろうし、それに従って、伝える人も脱落して減っていくだろう。
今、過去を振り返ってみれば、先人が伝えた警告を真剣に受け止めていなかったことにも気づく。言葉で後世に語り継ぐことは、極めて困難なことだと思う。
後世に語り継ぐことよりも優先すべきなのは、まだ経験を覚えているうちに対策を取ることではないのか。それは住居の高台への移転や、低地での居住の禁止など、具体的で、思い切った対策を取ることだと思う。そして、その対策こそが長期的に維持出来る後世への伝言となるのではないか。
↓2015.02.03
十三、四歳の頃には……
十三、四歳の頃には、不用意に使った言葉が、あるいは、使われた言葉が、偏った思考を誘導することがあることに気づいていた。また、その言葉の特質を利用して、無意識にしろ、意識的にしろ、思考を誘導している人間が存在していることにも気づいていた。
言葉の使い方を意識して工夫すれば、自分からそのような偏りに陥らないようにすることが出来ることにも気づいていた。人が思考を誘導するような言葉を使っても、そのことに気づくことで、誘導されるのを防ぐことが出来ることにも気づいていた。
まさに、そのいうことを扱っている「一般意味論」に、十七歳の頃、国語の教科書で出会って、自分だけがそんなことを考えているわけではないと気づいて、ほっとした覚えがある。
↓2015.02.25
私は喧嘩両成敗という言葉が……
私は喧嘩両成敗という言葉が大嫌いだ。最初に手出しした方が何もしてなかったら、何も起こるはずがないのだから、手出しした方がより強く責められるべきだ。手出しした相手に対してやむなく反撃して、不可抗力で殺してしまったとしても、ひどく責められるべきではない、と考えている。ただし、相手の挑発など十分な理由があって最初に手出ししたのだとすれば、それは酌量されるべきだ、と考えている。
↓2015.03.25
排他的思想の特性の一部
排他的な思想は必然的に洗脳思想になる。異なる考え方を受け入れないという態度を固定するので、冷静に判断しようとすることが出来なくなる。
異なる考え方は頭から否定する対象であり、嫌悪の対象となる。理解してないのに、喚き散らして排斥することが当然のこととなる。
排他的な思想に溺れた人々の頭の中では、理性がほとんど働かない。相手の言うことを理解出来ないことが、自分が正しい証拠だと思っている。罵ることを反論だと思っている。




