0015 文章を書くとき……
↓2013.02.22
文章を書くとき……
文章を書くとき、基本的には、自分の考えは断定的に書くのではなく、「と思う」とか、「と考える」とか表現するように気をつけている。人の文章を読むときも、それが断定的に書かれていても、それが単なる推測か仮説か、確定的なのかを考えながら読むようにしている。
断定的な文章は人を洗脳する。本当はよく理解してないのに、「ああ、そうか」と思う人が多いと思う。「と思う」というふうに書いておけば、よく分からない人にも、「そういう考えもあるのか」ととらえてもらえると思っている。
↓2013.03.01
識閾下を鍛えるべき理由
人間の知能の働きは、意識している領域より意識してない領域(識閾下)の方が広いだろうと思っている。とすれば、頭脳を有効に使いたいと思うなら、意識している領域と同様に識閾下を鍛えるのは当然のことだろうと思う。
昔の人たちが、論語などを、繰り返し声を出して丸暗唱した理由のひとつはそれだという指摘がされており、私もそうだろうと思っている。それは単なる知識偏重とは全く異なる知恵であり、今の教育が失ってしまっているのは損失だと思う。(識閾下の領域を活用すると思われる楽器の演奏やスポーツの訓練などが、いくぶんかは補っているだろうが。)
↓2013.03.18
組になっている言葉
日本語に限った話ではないが、よく似ている音で組になっている言葉がある。例えば、兄と姉、妹と弟、昼と夜、時と所、肘と膝、白と黒。単なる偶然の場合もあるだろうが、一音ごとに何かの意味があって、それにもとづいて言葉が作られている場合もあるだろう、と思う。
↓2013.04.02
ときどき、ソクラテスのように……
ときどき、ソクラテスのように、あれも分からんこれも分からんという文章を書いてみる。あまりも人が安易にものごとを決めつきすぎていると思うからだ。
しかし、ソクラテスのような、自分の意見は言わないで人をこきおろすだけ、というやり方は、意地が悪いと思っている。間違っているかもしれないが、自分の仮説も表明すべきだと思っている。
↓2013.04.11
合理主義について
何かを考えるときに合理主義的な考え方を活用することがある。しかし、それは合理主義が役に立つと判断したときだけであるし、それによって得られた判断を絶対的なものと考えることもない。
有効でない合理主義的な考え方の例を挙げてみよう:人は食事をする。そして、それを排泄する。どうせ排泄するものなら、食物を食べずにトイレに直接捨てた方が、手間が省ける。
この論法の何が間違っているかと言えば、「人は食事をすることによって、生きていくことが出来る」ということを無視していることだ。
辞書によると、合理主義的な考えとは「無駄を省いて効率よく行うこと」及び「論理的であること」である。上の例は合理主義の用件を満たしていると思う。ただ、考慮すべきことが抜けているだけである。
合理主義では、考慮すべきことが抜けていても、それを洗い出す方法はない。それを知るためには、いろいろと経験を積むことが重要だろうが、それも絶対ではない。たまたま直感的に気づくことはあっても、それで全てだと証明する方法はない。
いずれにしろ、合理主義が万能でないのは明らかだと思っている。しかし、それなりに経験を積んでいる事項に関しては、合理主義の有効性は高くなると期待出来る。合理主義は限定的な状況でしか使えないし、そのような状況でも万全ではない、と承知して活用すべきだと考えている。
↓2013.07.16
前の世代から何も引き継ごうとしない人たちが……
前の世代から何も引き継ごうとしない人たちが、自分たちの経験を後世に伝えなければならないと主張するのは、滑稽である。
↓2013.07.17
日本の言葉:鳥海山
「鳥海山(ちょうかいさん)」はもともと「とみやま」だったという説がある。「とみ」は「富」の意味だろうが、「鳥海」という当て字をしているうちに、「ちょうかい」と読むようになったのだろう。漢字を使うようになってから「ちょうかい」と読むようになったのだろうから、名前が変わってしまったのは千年以上前のことだろうと思う。(奈良時代に地名を二文字の漢字で表現するようにとの布告がなされたので、それ以降かもしれない。)




